1. ありふれた朝
この世には四つの種族がいる。
祖人、鳥人、獣人、魚人だ。平地に棲む人々はすべての種の祖であることから祖人と呼ばれる。空に棲む鳥人は音楽の才に秀でており、山地に棲む獣人は戦闘に、海に棲む魚人は魔術を得意とする。
通常、それぞれの種族は棲み分けをしており、交流も対立もない。一部を除いては。
ほかの種族のような才をもたない祖人にとって、他種族と接点をもつことは特権であり、誉れであった。
代々、祖人と鳥人との仲立ちを一手に引き受けているのが、風見家である。
古くからの名家である風見家は、分家の屋敷でさえ広大で、客が迷うこともある。使用人でも自分の持ち場のほかは把握していない者も少なくない。琴音はその屋敷で女中をしている。
琴音は長々と続く生垣伝いに裏へ回り、木戸から中に入った。
入るなり、廊下を行き交う足音や忙しない話声が耳に届いた。
いつもは琴音が一番早く来ているのに、どうしたことだろう、と思いながら勝手口に回るため庭を進む。そこへ、女中頭の成島が庭に面した廊下を通り掛かった。
「おやおや。本家のお嬢さん、ずいぶんと遅いじゃないか。いいご身分だねぇ」
琴音は卵の入った竹籠を抱き締めてうつむいた。
本家のお嬢さん――けして尊称として呼ばれているわけではない。本家の一人娘でありながら分家で女中をしていることへの皮肉なのだ。
そのくらいは琴音だってわかっている。だが、こんなことは日常茶飯事で、言われるたびに傷ついたり腹を立てたりしていては身が持たない。心の痛みに慣れることはないが、耐えるしかない。慣れるしかない。琴音にはここよりほかに行き場がないのだから。
もとはといえば、琴音の父、風見光房のせいだという。風見家といえば祖人の中では上流階級の家柄だ。しかし光房は本家の当主でありながら、出自も定かでない琴瀬を娶ったことで風見家の名誉を穢した。
その父の顔を琴音は知らない。
本来ならば、娘の琴音が風見家の敷居を跨げるはずなどない。叔父で分家当主の風見光正の恩情で置いてもらっている身であることは重々承知している。
だから、どのような扱いも受け入れざるを得ない。
しかも今朝に至っては、遅れてきた琴音に否がある。
足早に成島の前に進み出た。琴音は庭に立っているため、ガラス戸を開け放した廊下に立つ成島を見上げる形になる。
「すみませんでした」
成島は一瞬、琴音の澄んだ声に聞き惚れた表情をしたが、すぐに自分の表情を誤魔化すように琴音の頬を張った。琴音がよろけて地面に手をつくと、竹籠が転がって卵が割れた。毎朝卵を産んでくれる雌鶏に申し訳なくなって、ごめんねと呟きながら、砂ごと卵を掻き寄せた。
成島が、ふんっと鼻を鳴らした。
「またそうやって殊勝なふりして。同情を誘おうたって無駄だよ。そのみっともない赤い頭を上げな。あたしはあんたの手管に騙されやしないよ」
「わたしは、そんな」
「口をきくんじゃないよ。奥様からもそう言われてるだろ。その声で男どもを誑かしているって噂だよ。他人を操る声を持っているなんて恐ろしい娘だよ。いいから黙って働きな」
琴音ははっとして両手で口元を覆った。今日はまだあれを身につけていなかった。
慌てて懐から手拭いを取り出すと、成島に奪い取られた。手拭いの端がしなって目元に痛みが走る。
成島は慣れた手付きで手拭いを素早く捻り、琴音に猿轡を噛ませた。さきほど噛み締めた際に切れた下唇の傷が広がってずきりと痛んだ。
「まったく、今日が大事な日だって忘れてるんじゃないだろうね」
琴音は目を見開いた。忘れるもなにも、初めからなにも聞かされていない。
知らないと伝えるつもりで首を横に振るが、成島には誤って伝わってしまった。
「呆れた。本当に忘れてるのかい。使い物にならないあんたでも雇ってくれるこのうちに感謝するんだね。いつまでも突っ立ってないで働きな」
成島はそう言い捨てて立ち去った。
今日はなにがあるというのだろう。それがわからないことには働きようもない。働かなければまた叱られる。だが、声を発することは禁じられている。
いったいどうすれば……。
途方に暮れていると、くすくすと笑い声が聞こえた。障子の陰から三人の女中が顔を覗かせている。
「ねえ、本家のお嬢さん。今日がなんの日か教えてあげましょうか?」
そして三人は顔を見合わせて笑う。
こういうことは初めてではない。わざと琴音にだけ大事な用事を伝えずに困らせて楽しんでいることがある。今回も同じなのだろう。きっとこの三人が事前に今日の予定を琴音に伝えるはずだったのだ。
でもどこかの時点では教えてくれるはず。そうしないと人手が足りなくなって自分たちの負担が増えるのだから。
案の定、別のひとりが「そろそろ教えてあげましょうよ」と連れの袖を引いた。
「そうね。教えて差し上げるわ。お、じょう、さ、ま。今日は、音楽サロンが催される日よ」
音楽サロンは、風見家当主が主人を務める重要な催しだ。鳥人との良好な関係を保つためのものだ。
鳥人は音楽の才に秀でた種族で、鳥人のほとんどが音楽家として生計を立てている。聴衆は祖人だ。代々、風見家がその差配を担っているのだった。祖人と鳥人の取引を円滑にするための社交場、それが音楽サロンだ。
音楽家である鳥人にとって祖人は観客であるから、商取引の面からは祖人の立場の方が優位ともいえる。しかし、風見家にとっては鳥人が音楽を披露してくれなければ商売にならない。
いわばこれは双方のご機嫌取りとしての意味合いが強い。
いずれにしても失敗は許されない催しだ。
そんなに大切なことを当日まで知らされていなかったとは。成島の怒りを買うはずである。
「早く支度しなさいね」
「麗華様がお箏をご披露されるらしいから、あなた、迎賓館まで運びなさい」
「わかっていると思うけど、傷つけないようにね」
風見光正の娘、麗華は、鳥人の家庭教師から箏と歌を学んでいる。その道を目指しているわけではない。祖人の紳士淑女は嗜みとして音楽の素養を身に着けるものだからだ。
麗華の稽古がある日はいつも、琴音は拭き掃除などをしながら部屋から漏れ聞こえてくる麗華の稽古内容に耳を澄ませた。それを覚えておいて、湖畔の小屋に帰ってからひとりで稽古するのがささやかな楽しみだった。楽器などは持っていないため、箏の音も声でなぞった。
屋敷の表から自動車の音が聞こえる。風見家の当主とその家族が乗った自動車が出たのだろう。
「旦那様方がお出掛けになったようね」
「いよいよね。胸が高鳴るわ」
「やっぱり天羽家の出し物が楽しみだわ」
「ああ! 天羽奏斗様の歌声といったら!」
「奏斗様のお父様の隼人様のお声も渋くて素敵よね!」
「さあ、馬車が出てしまうわ。私たちも急ぎましょう」
三人の女中たちは賑やかに去って行った。
「んんっ!」
琴音は三人を引き留めようと声を上げたが、猿轡を噛んだ口から洩れたのは呻き声だけだった。
箏をひとりで運ぶなど無理に決まっている。長さは男性の背丈以上だし、重さだって屋敷の外まで運べるほど軽くはない。しかも音楽サロンが催される迎賓館は、この分家から遠く離れた本家の屋敷の敷地内――山の頂だ。しかも雑に扱って調律を狂わせるわけにもいかない。数人で運ぶのも気をつかう。だからこそ琴音に押し付けたのだ。
けれども運ばなければならない。間に合わなかったらどんな叱責を受けるか考えただけでも恐ろしい。琴音は襷をかけて箏を取りに急いだ。
すでに屋敷は静まり返っている。みんな出払ったようだ。
屋敷の前の道に空の荷車が一台取り残されていた。音楽サロンに必要なものは女中たちと一緒に馬車に乗せるか、荷車に積んで男衆が牽いていくことになっている。なにも積まれていないということは、余った荷車なのだろう。
荷車があれば箏を抱えて運ぶことは避けられる。ひとまず安心した。
琴音は荷台に座布団を敷き詰めて箏を載せた。これで多少揺れても箏を傷めることはないだろう。
さあ、参りましょうか。
琴音はまるで人を相手にするかのように箏に手を添えて心の中で声をかけると、重い荷車を牽いて迎賓館へ向かった。
本家の山が近づいてくると、上空にいくつもの島が浮いているのが見えた。鳥人の棲む浮島だ。
浮島は、深く根を張った植物を土から抜いたような形をしている。浮島ごとに異なる大木が生えていて、その根の部分は土に覆われているのだ。四角い建物が林立している。地上から見上げても見えるのだから、余程高さがある建物なのだろう。
石畳の道が上り坂に差し掛かると、荷車が急に重くなった。まるで後ろに誰かがぶら下がっているかのようだ。
息が上がって苦しくなり、猿轡を首元まで下げた。
ぷはぁ。
緑の香りを胸いっぱいに吸い込む。汗ばんだ肌に爽やかな風が気持ちいい。葉擦れの音。鳥の囀り。いつしか琴音は歌を口ずさんでいた。鳥たちが集まってきて、ともに歌い出す。歌うと力が湧いてくる。
お屋敷までもう少し。がんばろう。
どうしてわたしが……さっきまではそんな思いもあったけれど、進もうと決めてからはほんの少しだけ体が軽くなった気がする。




