湖畔にて
――探したよ。
差し出された手を取ると、強く引き寄せられた。
気づけば彼の腕の中。包まれた背が温かい。
静かな息遣いが降りてきて、耳元に熱い息がかかる。
くすぐったくて笑いながら身を捩る。
――だめ。逃がさないよ。やっと捕まえたのだから。
逃げるわけがない。やっと辿り着いたのだから。やっと出会えたのだから。
そう答えたいのに、胸がいっぱいで声にならない。
頬に、首筋に、小さな温もりが落ちる。触れられたところから悦びが広がっていく。
苦しいほどに抱き締められながら、甘い調べにとろけそうになる。
歌え、俺の歌姫。
羽ばたけ、俺の小鳥。
どこまでも遠く。どこまでも高く。
碧天の空へ――
*
コワーッ! コ、コ、コッ!
鶏の声に目を覚ますと、琴音の頬は濡れていた。指先で涙を拭って起き上がる。
またあの夢を見た。
板張りの壁に空いた隙間から差し込む朝日が高くなっていく。
「いけない。急がなくちゃ」
琴音は幸せな余韻をそっと心にしまって、手早く身支度を整えた。身支度と言っても寝巻の浴衣から洗いざらしの着物に着替えて髪を軽く結い直すだけだ。
御一新で若い女性は髷を結う人は減った。琴音も三つ編みを頭に巻き付けた外巻きか英吉利結びにしている。本当はマガレイトや半結びなど髪を下ろした結い方もしてみたいが、下ろした髪は赤い髪色が目立つため避けるしかない。琴音は艶やかな黒髪を持っているが、一房だけ鮮やかな赤い髪があるのだ。
戸を開けて外に出ると湖が広がっていて、さざ波に反射した朝日が煌めいている。
かつて琴音は、母とふたりで風見家の屋敷で暮らしていた。分家の住み込み女中だったからだ。しかし、母が病で働けなくなると、追い出された。
当主の風見光正は離れにでも住んで養生すればいいと言ってくれたのだが、奥方の真紀子は容赦なかった。
「ただ飯食いを置いておく義理はありません。旦那様もしっかりしてくださいな。この女は貴方の兄嫁でもなんでもないんですよ。正式に嫁に迎えたわけじゃないんですから」
「そうは言っても、母親はともかく、琴音は兄さんの子なんだ。本家の跡取りになる子だよ。邪険にはできないよ。麗華の遊び相手にもなるじゃないか」
「あら。お父様。わたくし、琴音なんかと遊びませんことよ」
「そう言うな。たったひとりの従姉妹ではないか」
「こんな従姉妹のお姉様なんていない方がましだわ。そうだ。どうしてもいうなら、鶏のお世話をさせればいいわ。私、卵が大好きなんですもの。なのに鶏小屋は臭うからって、女中たちはみな卵を取りに行くのを嫌がりますの。ねえ、たったひとりの従姉妹のためですもの、嫌がったりしませんわよね?」
「そうね。せっかくだから鶏小屋で暮らしたらどうかしら?」
「お母様、素晴らしいご提案だわ。それはそれは働きやすいでしょうね」
光正は「それはあまりにも……」と言いかけたが、妻と娘に睨まれて口をつぐんだ。
そうして、だだでさえ肩身が狭かった居場所は完全に失われた。
母がいなくなってからは、かつて多少の思いやりを見せてくれていた光正も琴音に対する態度がすっかり変わってしまった。主人のご機嫌をとるように使用人たちからの当たりも強くなり、残飯や汚物の処理といった汚れ仕事ばかり任されるようになった。
鶏小屋は屋敷の裏の林を抜けたところにある湖畔に建っている。かつては湖での密漁者を見張る番小屋だったらしく、床板の張られた部分もある。すきま風が吹き、雨漏りがして、不満ばかりではあったが、幼いころから小屋で暮らしている琴音にとって、こんな住まいでも屋敷で寝起きするよりは心穏やかに過ごせる。
琴音は清らかな朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
晴れ渡った空から鳥のさえずりに似た調べが降り注いでいる。心地よい歌声にしばし耳を傾けた。
幼いころ、巣立ち間もない様子の傷ついた小鳥を手当てしたことを思い出す。
巣から落ちるときに枝にでも引っかかったのか、背中に傷を負っていた。傷そのものは深くはなかったが、痛みで羽ばたけないようだった。艶やかな漆黒の羽根が美しい鳥だった。
小鳥の翼の傷が癒えるまでの数日間、いつも一緒にいて、いつも一緒に歌っていた。
別れの日、小鳥は名残惜しそうに何度も振り返りつつ空へと帰っていった。
あの小鳥は元気だろうか。
今でも時々あの小鳥に思いを馳せることがある。
辺りを見回し、人影がないことを確かめると空からの調べに合わせて歌ってみた。琴音の歌声を聞きつけて湖畔の木立から鳥たちが集まってきて、ともに歌う。
歌えば日々の憂さを忘れられる。体の隅々まで澄み渡る。自然と笑みがこぼれる。
しかし、いつまでもそうしてはいられない。
「もう行かなくちゃ」
琴音は鶏小屋からまだ温かい卵を竹籠に取ると、木漏れ日の中を歩き出した。




