第9話 古巣の崩壊と休日
翌朝。鼓膜を劈くようなスマートフォンへのアラーム設定もなく、暴力的な電子音に叩き起こされることのない、ひどく静かな土曜日の朝だった。六年間の社畜生活で染み付いた体内時計のせいで、結局はいつもと同じような時間に目は覚めてしまうのだが、それでも「あと五分寝たら遅刻する」という強迫観念がないだけで、目覚めの快適さは雲泥の差だ。
設定温度十六度のリビングは相変わらず冷蔵庫のように肌寒いが、厚手のスウェットを着込んだ俺にとっては、すでに心地よさすら覚える慣れた環境になりつつある。
キッチンに立ち、ブランチの準備を進める。昨夜は豚の冷しゃぶで胃がさっぱりしているはずなので、今朝は少し満足感と甘みのあるものにしようと考えた。
ボウルに卵と牛乳を割り入れ、そこに隠し味のマヨネーズを少し加えて泡立て器でよく混ぜ合わせる。マヨネーズの乳化作用で、冷めても生地が固くならずふんわりと仕上がるのだ。よく熱したフライパンにバターのかけらを落とすと、じゅわっと食欲をそそる音が鳴り、濃厚で香ばしい匂いが極寒の部屋いっぱいに広がっていく。生地を流し込み、表面にふつふつと気泡が出たタイミングでひっくり返す。完璧なきつね色だ。
隣のコンロでは、厚切りのベーコンをじっくりと脂を出しながらカリカリになるまで焼き、その横の空いたスペースで半熟の目玉焼きを作る。
「……んん、いい匂い」
背後から、少し擦れた、しかしひどく魅力的な声が聞こえた。
振り返ると、信子が目をこすりながらリビングに現れたところだった。相変わらず黒のレース付きキャミソールとショートパンツという、この室温においては狂気じみた薄着である。しかし雪女である彼女にとっては、これでもまだ少し暑いくらいなのだ。
「おはようございます。ちょうど焼けたところですよ」
「おはよう、俊作……わぁ、パンケーキだ」
信子はダイニングテーブルに置かれた皿を見て、ぱっと顔を輝かせた。焼きたての分厚いパンケーキに追いバターを乗せ、メープルシロップをたっぷりとかける。横にはカリカリのベーコンと、黄身がとろけ出しそうな半熟の目玉焼き。甘さと塩気の無限ループを楽しめる、背徳的な組み合わせだ。
信子は椅子に座るなり、フォークとナイフを器用に使い、シロップの染み込んだパンケーキとベーコンを一緒に口に運んだ。
「んんっ……!」
ハフハフと、熱がさめるのを待ちきれない様子で頬張る彼女の目尻が、とろけそうに下がる。会社では決して見せない、その端正な顔立ちが幼児のような無防備な至福の笑みで満たされていくのを見るのは、作り手としてこれ以上ない喜びだった。
「甘いのと、しょっぱいのが、交互にきて……すごく美味しい。俊作、天才ね」
「マヨネーズを少し入れるのがコツですよ。味はしませんけど、生地がふんわりと膨らむんです」
俺も向かいに座り、淹れたての熱いコーヒーをすすりながら自分の皿に手をつける。
穏やかで、満たされた休日の朝。俺にとっての非日常は、彼女にとっての日常になりつつある。このまま時間が止まってしまえばいいとすら思えるほど、居心地の良い空間だった。
だが、その静寂は、テーブルの端に置かれた信子のスマホが震える音によって破られた。
画面に表示された着信名を見た瞬間、信子の顔から「無防備な少女」の表情が消え失せ、一瞬で「氷の女帝」のそれに切り替わった。空気がピリッと張り詰め、周囲の温度がさらに数度下がった錯覚に陥る。
「……川口です」
電話に出た声は、室温よりもさらに冷たく、感情の起伏が一切感じられない恐ろしいほどのトーンだった。
俺は席を立つこともできず、黙ってコーヒーを飲みながらそのやり取りを聞いていた。
「はい。ええ、把握しております。……例の大型コンペの資料ですね。共有フォルダにパスワード付きで保存されているはずですが」
相手は会社の人事か、あるいは役員クラスの人間だろうか。スマートフォンのスピーカーから微かに漏れ聞こえる声は酷く切羽詰まっており、その焦燥感と、信子が発する見えない威圧感に明確に怯えているのが、息遣いや音の響きからも十分に分かった。
「黒田課長がパスワードを知らない? ……彼から引き継ぎを受けていない、と黒田課長が主張しているのですか?」
信子の口角が、冷ややかに、そして残酷な形に吊り上がった。それは、獲物を追い詰めた捕食者の笑みだった。
「それはおかしな話ですね。五十嵐は退職前に『パスワード一覧』というテキストファイルを同フォルダ内に残したと、私に報告しています。念のため、私が休養に入る前日、そのファイルが存在し、正しく機能していることまで確認済みですが」
ピシャリと言い放つ。相手が絶句した気配が伝わってきた。有無を言わさない、絶対的な自信に裏打ちされた圧迫感。
「黒田課長は、そのファイルすら見つけられなかった。あるいは、焦りのあまり見落としたまま、退職した五十嵐に責任を転嫁しようとした。……そう判断せざるを得ませんね」
信子は手元のフォークでパンケーキの端を弄りながら、淡々と、しかし容赦なく古巣の惨状を切り捨てていく。
「加えて申し上げますと、黒田課長が月次の経費として上げている『取引先との接待交際費』ですが、領収書の宛先の大半が特定のキャバクラであることは、営業部の数字を追えばすぐに分かります。私は有給消化中でして、彼の稚拙な言い訳に付き合う義理も権限もありません。監査部にお繋ぎになってはいかがですか」
電話の向こうで、何か決定的な言葉が発せられたのだろう。
信子は「ええ、そうですか」と短く応じた。
「彼がどうなろうと、私の知ったことではありません。……ええ。私は体調不良で休養中ですので、復帰時期については未定です。失礼いたします」
通話を切り、スマホをテーブルに伏せる。
途端に、信子の纏っていた絶対零度のオーラが霧散し、いつものふにゃりとした柔らかい空気に戻った。
「黒田課長、ですか」
俺が尋ねると、信子は大きく息を吐いてパンケーキの残りを頬張った。
「ええ。例の大型コンペ、結局資料が間に合わなくて穴を開けたそうよ。担当役員が激怒して、営業部に直接乗り込んできたらしいわ」
「……でしょうね。俺が抜けた時点で、あのスケジュールの帳尻を合わせられる人間はいませんでしたから」
「そう。俊作に全部丸投げしてたツケが、一気に回ってきたのよ。おまけに、経費の不正流用の件も今回のミスで全部明るみに出たみたい。まあ、降格と異動、最悪は懲戒処分も免れないわね」
信子は平然と言ってのけた。
俺の胸中に、黒田に対する同情は一切湧かなかった。むしろ、六年間俺をすり減らし続けたブラックな環境が、俺という「便利な歯車」を失った途端に呆気なく崩壊したという事実が、ひどく滑稽に思えた。
「これで、もう誰も俊作の邪魔はしないわ」
信子はコーヒーカップを両手で包み込むように持ち、真っ直ぐな瞳で俺を見つめた。
「あなたは私のものなんだから。あんな会社のことなんて、もう一秒も思い出さなくていいのよ」
その言葉には、強い独占欲と、不器用な労りが込められていた。
「……ありがとうございます、信子さん。ええ、もう思い出しませんよ」
俺が微笑んでみせると、信子は嬉しそうに耳の先を赤く染め、再びパンケーキに手を伸ばした。
食後の片付けを終えた俺は、ふと思いついてサークルの中で丸くなっている小さな毛玉を見た。
「そういえば、昨日、黒田課長に邪魔されて買えなかったモカのベッド、今日こそ買いに行きましょうか」
俺が提案すると、サークルの中で寝ていたモカが「キャン!」と短い声で応えた。
「うんっ! モカのベッド、可愛いのがいいな。私、すぐに着替えてくる!」
信子は弾んだ声で自分の部屋へと向かった。
十五分後、リビングに戻ってきた彼女を見て、俺はまたしても目を奪われた。
昨日のドレッシーな装いとは打って変わり、今日は白いノースリーブのシルクブラウスに、ライトブルーのワイドパンツという涼しげで動きやすい服装だった。足元は歩きやすいローヒールのサンダル。
「どうかしら。今日は歩くかもしれないから、動きやすい服にしたの」
「……涼しげで、よく動けそうですね。今日の買い物にはぴったりだと思います」
シンプルな組み合わせだからこそ、彼女の透き通るような白い肌と抜群のプロポーションが、かえって街中の視線を集めてしまいそうな美しさを際立たせていた。俺がそう素直な感想を伝えると、信子は嬉しそうに「えへへ」と笑った。
外の気温は既に三十五度を超えている。俺たちは、昨日呼ぶはずだったタクシーを改めて手配し、エントランスから直接後部座席に乗り込んだ。
「はぁ……冷房、生き返るわ」
車内に入った途端、信子は自然な動作で俺の左腕にぴったりと寄り添ってきた。
「信子さん、少し近いです」
「いいじゃない。俊作の体温、気持ちいいんだから」
シルクのブラウス越しに伝わってくる冷たい体温と、柔らかい感触。微かに香る香水の匂いが、車内の密閉された空間で甘く漂う。
昨日のエントランスでの出来事が、不意に俺の脳裏を過った。怒り狂う黒田の前で『私の大切な専属主夫』と公言され、これ見よがしに腕を組まれたあの瞬間。あれは元部下に責任を押し付ける卑劣な黒田を撃退するための、あくまで『方便』だったと頭では完全に理解している。
理解しているはずなのに、こうして自らぴったりと密着してくる彼女の体温を感じると、どうしても男として過剰に意識してしまって、馬鹿みたいに心拍数が跳ね上がっていく。
俺は月五十万で雇われた家政夫だ。勘違いしてはいけないと自戒しながらも、隣で無邪気に笑う彼女の存在に、ドギマギさせられっぱなしだった。
目的地の大型ペットショップは、ショッピングモールの一角にあった。
自動ドアを抜けると、快適な冷気が俺たちを包み込む。信子にとっては少し暑いかもしれないが、タクシーでの冷却が効いているのか、機嫌は良さそうだ。
「うわぁ、いっぱいある……! 俊作、見て、これ可愛い!」
信子は犬用のベッドコーナーに駆け寄り、パステルカラーのクッションを指差した。
「モカはまだ子犬ですからね。囲いがあって、安心できる形状がいいかもしれません。それに、すぐ大きくなるので少し余裕のあるサイズを探しましょう」
俺がアドバイスすると、信子は真剣な顔でいくつかのベッドを比較し始めた。
「こっちのドーム型はどうかしら。でも、洗うのが大変そうね……」
「カバーが取り外せるタイプがおすすめですよ。モカが粗相をしても、俺がすぐに洗えますから」
「さすが俊作! じゃあ、これにする!」
信子は淡いベージュ色の、肌触りの良いベッドを抱え込んだ。
その様子を見ていた女性店員が、笑顔で近づいてきた。
「とても手触りが良くて、ワンちゃんもリラックスできる商品ですよ。旦那様のおっしゃる通り、お洗濯も簡単です」
「だ、旦那様……っ」
信子の動きがピタリと止まり、顔が瞬く間に赤く染まった。
「あ、いえ。俺たちはその、夫婦ではなくて……」
俺が慌てて訂正しようとすると、信子は俺のシャツの袖をぐいっと引っ張った。
「……い、いいじゃない、別に」
「え?」
「いちいち否定する方が、その、面倒でしょ」
信子は耳まで真っ赤にしながら、下を向いたまま小さな声で言い訳のように呟いた。その手は少しだけ震えていて、視線はあちこちを忙しなく泳いでいる。
そして、店員に向かってコクリと頷いた。
「これ、いただきます。……うちの人も、これがいいって言ってるので」
「かしこまりました! 他におもちゃなどはよろしいですか?」
「あ、はい。ロープのおもちゃも……」
「うちの人」――不意に放たれたその言葉の響きが、耳の奥で何度もリピートされる。俺は驚きで声が出なかった。
彼女の横顔は、夕日のせいだけとは思えないほど真っ赤に染まっている。それがその場の建前だとしても、胸の奥が不自然なほど激しく鳴り響くのを、俺は必死に無視しようとしていた。
その後も信子は、あれこれと迷いながらも楽しそうにモカ用のおもちゃやケア用品を選び続けた。俺は黙ってその後ろを歩き、彼女が選んだ商品を次々と買い物かごに入れていく。
買い物を終え、両手にたくさんの紙袋を抱えてマンションに戻ってきた頃には、すでに日が傾きかけ、空が薄いオレンジ色に染まる夕方になっていた。
設定温度十六度の部屋に入ると、俺にとっては冷蔵庫のようだが、信子にとっては「やっと息ができる」空間だ。
「ただいま、モカ!」
信子は買ってきた新しいベッドを早速サークルの中に設置した。モカは新しい匂いに最初は警戒していたが、すぐにその柔らかさが気に入ったのか、ベッドの真ん中で丸くなってクゥと喉を鳴らした。
「気に入ってくれたみたいね」
「ええ。良い買い物でした。昨日邪魔された分、じっくり選べましたしね」
俺が紙袋を片付けていると、信子が後ろからふわりと抱きついてきた。
背中に、彼女の冷たい体温と柔らかい胸の感触が押し付けられる。
「信子さん?」
「……今日、すごく楽しかった」
背中に顔を埋めたまま、くぐもった声が響いた。
「俊作と一緒にお出かけして、モカのものを買って……なんだか本当に、普通の家族みたいだった」
その声には、彼女がずっと抱えていた孤独を埋めるような、切実な響きがあった。
「……そうですね」
俺は振り返り、彼女のプラチナブロンドの髪をそっと撫でた。
冷たい髪が指の間をすり抜ける。信子は心地よさそうに目を細め、俺の胸に顔をすり寄せた。
「俊作。私、もう二度とあなたを手放さないから」
「ええ。雇用契約は、俺から破棄することはありませんよ」
「雇用じゃなくて……」
信子は何かを言いかけたが、やがてふにゃりと笑って「まあ、今はそれでいいわ」と呟いた。
ブラック企業での地獄のような日々は、完全に過去のものになった。
俺の目の前には今、月給五十万の破格の待遇と、世界で一番美しくて甘えん坊な雇い主がいる。
エアコンから吹き出す冷気は肌寒いはずなのに、彼女の小さな体温と不器用な言葉が、俺の胸の奥を静かに、けれど確かに焦がし続けていた。




