第8話 絶対零度の微笑み
真夏の夕暮れ特有の、アスファルトから立ち上る熱気。それが、文字通り一瞬にして凍りついた。
マンションのエントランスホール。自動ドアのすぐ外で俺の腕を掴もうとしていた黒田は、宙に手を伸ばしたまま、石像のように固まっていた。
血走っていた彼の両目が、限界まで見開かれている。その視線の先には、俺の背中から一歩前に出た信子の姿があった。
「か、川口……部長……?」
黒田の喉から、ひゅっと空気が漏れるような音がした。
無理もない。社内で「氷の女帝」と恐れられている彼女が、洗練されたネイビーブルーのサマードレスを着て、なぜか退職したばかりの元部下と一緒にいるのだ。黒田の疲労とアルコールで淀んだ脳では、目の前の光景を処理しきれないのだろう。
信子は日傘を静かに閉じた。
その瞬間、彼女の周囲から目に見えない冷気が波紋のように広がった。足元のコンクリートがうっすらと霜を帯びたように白く曇る。肌を刺すような、物理的な温度の低下。
彼女の青みがかった瞳は、一切の感情を排した絶対零度の光を宿し、黒田を真っ直ぐに見据えていた。
「黒田課長」
静かで、よく通る声だった。会議室でその声が響くたび、営業部の人間は震え上がったものだ。
「休日の夕方に、わざわざ元社員のマンションまで押しかけてくるとは。随分と熱心なのね。……それとも、うちの営業部は暇を持て余しているのかしら」
「い、いえ! これは、その……!」
黒田は狼狽え、一歩後ずさった。先ほどまで俺に向けていた狂気じみた威圧感は完全に消え失せ、上司に怯える惨めな中間管理職の顔になっている。
「五十嵐が、業務を放り出して辞めたせいで、現場が回ってないんです! こいつがパスワードを隠して……」
「引き継ぎの共有フォルダに『パスワード一覧』というファイルがあるはずよ。私は退職手続きの際に彼からそう報告を受けているわ」
信子の言葉に、黒田の顔が引き攣った。
「私が休んでいる数日の間に、フォルダの検索さえできない無能な部署になったと、ここで私に報告しているの?」
「ち、違います! あいつが嘘を吐いているに決まって……!」
「黙りなさい」
ぴしゃりと、信子の声が空気を叩いた。
周囲の温度がさらに下がる。俺は半袖のTシャツ一枚だったため、その冷気を肌で直接感じて身震いしそうになったが、なんとか平然とした顔を保った。
「自分の管理能力の欠如を、すでに退職した人間のせいにする。挙句の果てに、時給千円で業務を押し付けようとする。……黒田課長。あなたがどれほど無能で恥知らずな真似をしているか、理解しているの?」
「う……っ」
「これ以上、彼に付き纏うなら、私にも考えがあるわ。あなたがお得意先への接待と称して経費で落としていたキャバクラの領収書、あれ、そろそろ監査に入れようかと思っていたところなのよ」
黒田の顔から、一気に血の気が引いた。土気色だった肌が、今度は真っ白になる。
信子は営業部長として、各課の経費の流れを完全に把握している。黒田が小賢しい誤魔化しをしていることなど、彼女の目にはとうに透けて見えていたのだ。
「ぶ、部長……なぜ、あなたが五十嵐の肩を……」
黒田は震える声で、すがるように信子を見た。
「それに、なぜ一緒に……」
信子は小さく息を吐くと、ゆっくりと俺の隣に並び立った。
そして、誰もが予想しなかった行動に出た。
彼女の白く細い腕が、俺の右腕にすっと絡みついてきたのだ。
ネイビーブルーのドレス越しに、信子の柔らかい感触と、ひんやりとした体温が伝わってくる。微かに漂うフローラル系の香水と、彼女本来の雪のような清潔な匂い。
「っ……」
密着した腕から予期せぬ柔らかさと冷たさがダイレクトに伝わり、俺は一瞬だけ全身の筋肉を硬直させた。職場での「氷の女帝」の顔をしたまま、彼女は俺の右腕をしっかりとホールドしている。
黒田は目を剥き、顎が外れそうなほど口を開けていた。
「一つ、訂正しておくわ」
信子は黒田を見据えたまま、冷たく言い放った。
「彼はもう、あなたの部下でもなければ、会社の人間でもないわ。……私の、大切な専属主夫よ。私の家で、私のためにご飯を作り、私の身の回りの世話をしてくれているの」
「しゅ、ふ……? ヒモ、だと……?」
「ええ。私が月給五十万円で雇っているの。あなたみたいな無能な上司の元で時給千円で働くような、安い男じゃないわ」
黒田の顔が、驚愕から屈辱、そして絶望へと次々に色を変えていく。
彼が「無職のくたびれた男」と見下し、優越感に浸ろうとしていた相手は、社内で最も恐れられ、同時に誰もが憧れる絶世の美女に、高待遇で囲われていたのだ。彼自身のちっぽけなプライドが、音を立てて崩れ去っていくのが分かった。
「……ッ!」
信子は俺の腕を抱きしめる力を少しだけ強め、とどめとばかりに、薄く微笑んだ。
それは、背筋が凍るほど美しく、そして残酷な、絶対零度の微笑みだった。
「だから、私のモノに、二度と手を出さないで」
その言葉には、上司としての威厳だけでなく、純粋で強烈な独占欲が込められていた。
黒田はひっ、と短い悲鳴を上げ、後ずさった。ビジネスバッグを抱え直すこともできず、足をもつれさせながら、逃げるように背を向ける。
「ひ、引き継ぎ資料は探します……! 失礼しましたッ!」
這うような声でそう叫び、黒田は駅の方向へ向かって全速力で走り去っていった。
汗だくのワイシャツの背中が、夕暮れの街角に消えていく。
残された俺たちは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
セミの声が、再び鼓膜を打ち始める。信子の発していた冷気が少しずつ霧散し、夏の熱気が戻ってこようとしていた。
「……行っちゃったわね」
信子が、ポツリと呟いた。
彼女は俺の腕に抱きついたまま、少しだけ顔を上げてこちらを見上げた。先ほどまでの冷徹な「氷の女帝」の表情はすっかり鳴りを潜め、青みがかった瞳には不安そうな色が浮かんでいる。
「あの、俊作」
「はい」
「その……余計なこと、言っちゃったかしら。私、あなたのこと『私のモノ』なんて……」
「いえ」
俺は小さく息を吐き、緊張で少し強張っていた肩の力を抜いた。
「完璧な撃退でしたよ。おかげで助かりました。……ただ、ちょっと心臓には悪かったですけど」
「心臓に悪い?」
「あんな風に腕を組まれるとは思ってなかったので」
俺が正直に言うと、信子はぱっと顔を赤くし、慌てて俺の腕から離れようとした。
「ご、ごめんなさい! あれは、その、あいつを追い払うために、見せつけてやろうと思って……!」
「わかってますよ。でも、信子さんが怒ってくれて、嬉しかったです」
俺が微笑みかけると、信子は動きを止め、少しだけ俯いた。
彼女の耳の先が、朱に染まっているのが見える。
「だって……あいつ、俊作のことを馬鹿にしたじゃない」
信子の声は、とても小さかった。
「俊作は、ご飯も美味しいし、掃除も完璧だし……すごく優しくて、かっこいいのに。あんな男に、俊作が馬鹿にされるのが、どうしても許せなかったのよ」
彼女の不器用で、しかし真っ直ぐな言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
長年の社畜生活で麻痺していた自尊心が、彼女の言葉によって少しずつ修復されていくようだった。
「ありがとうございます。……さて、黒田課長のおかげですっかりアイスが溶けちゃいますよ。急いで帰りましょう」
「あっ! そうだわ、ハーゲンダッツ!」
信子はハッとして、俺の手にある保冷バッグを見つめた。
途端に、彼女の顔から緊張が抜け、いつもの「食いしん坊のポンコツ雪女」の顔に戻る。そのギャップが可笑しくて、俺は思わず声を上げて笑いそうになった。
マンションのエントランスを抜け、冷房の効いたエレベーターに乗り込む。
「帰ったら、すぐに冷凍庫に入れないとね。あ、でも一つはすぐに食べちゃおうかしら。やっぱりストロベリーかな」
「夕食の前ですから、一つだけですよ。冷しゃぶも作らないといけないですし」
「わかってるわよ。……あ、俊作。モカ、お利口にお留守番してるかしら」
「まだ子犬ですからね。サークルの中で寝てるんじゃないですか」
そんな他愛のない会話を交わしながら、俺たちは三〇二号室――今は綺麗に片付いた信子の部屋ではなく、十六度に設定された極寒の俺の部屋、三〇一号室へと戻った。
玄関のドアを開けると、中から冷たい空気が溢れ出してくる。
「ただいまー!」
信子が靴を脱ぎ捨てるようにしてリビングへ向かうと、サークルの中から「キャン!」という元気な鳴き声が返ってきた。
モカが短い尻尾をちぎれんばかりに振って、信子を出迎えている。
「ふふ、いい子にしてた? モカ」
信子はドレスの裾が床につくのも気にせずしゃがみこみ、サークル越しにモカの頭を撫でた。モカは信子の冷たい手を気持ちよさそうにペロペロと舐めている。
俺はスーパーの袋をキッチンへ運び、保冷バッグからアイスを取り出して冷凍庫へ入れた。一つだけ、信子がリクエストしたストロベリー味をテーブルの上に置く。
「信子さん、手洗いうがいをしてからですよ」
「はーい」
洗面所へ向かう信子の後ろ姿を見ながら、俺は小さく息を吐いた。
黒田と遭遇したことで、かつての淀んだ日常に引き戻されそうになったが、今の俺には帰るべき場所があり、守るべき雇用主がいる。
月給五十万円の専業主夫。
最初は冗談のような契約だと思っていたが、どうやら俺は、この生活を心底気に入ってしまったらしい。
「俊作、スプーンお願い!」
洗面所から戻ってきた信子が、テーブルの上のハーゲンダッツを見て目を輝かせている。
先ほどエントランスで見せた絶対零度の微笑みはどこにもない。そこにあるのは、アイス一つで幸せそうに笑う、ただの無邪気な二十六歳の女性の顔だった。
「はいはい。今行きますよ」
俺は引き出しからシルバーのスプーンを二つ取り出し、彼女の向かいの席へと腰を下ろした。
信子はドレス姿のまま、行儀よく両手を合わせて「いただきます」と言い、小さなスプーンでストロベリーアイスをすくった。
パクリ、と一口。
「んんっ……!」
信子は目尻を下げ、幸せそうに身悶えした。冷たいアイスが口の中で溶けていく感覚を、全身で味わっているようだ。
「外が暑かったから、冷たいものがいつも以上に美味しく感じるわ」
「雪女でも、やっぱり夏のアイスは格別ですか」
「当然よ。いくら部屋を十六度にしていても、外の熱気に当てられた後は体の中に熱がこもっちゃうの。これを中和するには、甘くて冷たいものが必要不可欠なのよ」
力説する信子に苦笑しつつ、俺も自分の分として買ってきた抹茶アイスの蓋を開けた。
一口食べると、濃厚な抹茶の苦味と甘味が、疲労した脳に染み渡る。
「キャン!」
足元から声がして下を見ると、サークルから出してもらったモカが、俺たちの足元をうろうろと嗅ぎ回っていた。どうやら甘い匂いにつられてやってきたらしい。
「ダメだよ、モカ。これは人間用だからね」
俺が言うと、モカは名残惜しそうに鼻をフンと鳴らし、今度は信子の足元へと移動した。そして、彼女の冷たい足首にすり寄って、そのままペタリと床に伏せた。
「あ、モカったら。私の足、冷たくて気持ちいいのね」
信子はスプーンをくわえたまま、足元で丸くなる茶色い毛玉を見下ろしてふわりと微笑んだ。
「犬の平均体温は三十八度くらいありますからね。信子さんの体温は、モカにとって最高のクーラー代わりなんですよ」
「ふふ、そうね。……俊作の体温は三十六度だから、私にとっては最高の暖房だし。私たち、うまくできてるわね」
何気なく口にされたその言葉に、俺はスプーンを持った手を少しだけ止めた。
「うまくできてる、ですか」
「そうよ。私がモカを冷やして、俊作が私を温めてくれる。完璧なサイクルじゃない」
信子は悪びれる様子もなく、むしろ誇らしげに胸を張った。
その屈託のない笑顔を見ていると、先ほどまで抱えていたわずかなささくれも、すっかり溶けて消えていくようだった。
「……そうですね。完璧なサイクルかもしれません」
俺は抹茶アイスを飲み込み、ゆっくりと頷いた。
「よし。アイスを食べ終えたら、夕食の準備に取り掛かりますよ。今日は予定通り、豚の冷しゃぶです。さっぱりしてて美味しいですよ」
「やった! 俊作のご飯、楽しみ!」
信子は子供のようにはしゃぎ、残りのアイスを急ピッチで平らげ始めた。
彼女が美味しそうに食べる姿を眺めながら、俺は自分がこれから歩む道が、そう悪くないものになりそうだと確信していた。
理不尽な命令も、終わりの見えない残業もない。ただ、目の前にいるこの不器用で愛おしい女性のために、美味しいご飯を作り、快適な生活を提供する。
それが、俺の新しい仕事だ。
「俊作、一口ちょうだい。抹茶も美味しそう」
「はいはい。スプーン貸してください」
俺は自分の抹茶アイスを少しすくい、信子の口元へと運んだ。
彼女は嬉しそうにパクリとそれをくわえ込み、再び「んんっ」と幸せそうな声を上げる。
窓の外では、夕暮れの空が深い藍色に染まり始めていた。
十六度の極寒の部屋の中で、俺の心は不思議なほどポカポカと温かかった。




