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過労で退職したら、隣に住む雪女上司に拾われてヒモになりました  作者: 伊達ジン


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第7話 見下す男と氷の女帝

 新しい家族が加わってから、俺の無職生活はさらに忙しく、そして賑やかなものになった。


「俊作、見て! モカが私の指を甘噛みしてるの! 可愛すぎる……!」


 午後四時。設定温度十六度の強風が吹き荒れる極寒のリビングで、信子が歓声を上げた。


 黒のキャミソール姿で冷え切ったフローリングの床に腹ばいになった彼女の目の前で、甘いミルクの匂いを残したモカが、短い尻尾をちぎれんばかりに振っている。クゥクゥと小さな喉を鳴らすモカは、まだ周囲の世界すべてが珍しいのか、信子の指先から伝わる冷たさに興味津々のようだった。


 雪女である信子のひんやりとした体温は、毛皮を着込んだモカにとって極上の避暑地らしい。モカは信子の真っ白な腕に鼻先をすり寄せ、くすぐったそうに身をよじる信子の手を、小さな前足で嬉しそうに抱え込んでいた。


「歯が生え変わりかけてて痒い時期ですからね。あまり強く噛むようなら、おもちゃとすり替えてください」


 ダイニングテーブルで夕食の仕込みをしながら、俺は微笑ましくその光景を眺めていた。


 まな板の上では、色鮮やかな夏野菜を均等な大きさに切り揃えている。艶やかなナス、ズッキーニ、赤と黄色のパプリカ、そして玉ねぎ。これらをたっぷりのオリーブオイルと粗みじん切りにしたニンニクで香ばしく炒め、トマト缶でじっくりと煮込んだ後、冷蔵庫でキリッと冷やしてラタトゥイユにする予定だ。


 フライパンの中でオリーブオイルがパチパチと弾け、ニンニクの食欲をそそる香りがリビングの冷気に混ざっていく。冷え切った部屋であっても、夏野菜のビタミンは疲労回復に効くし、トマトの程よい酸味は暑さでバテ気味の胃腸を優しく刺激してくれるはずだ。


「おもちゃ……そうだわ、俊作。モカのベッドと、新しいおもちゃを買いに行きたいの」


 信子が顔を上げ、青みがかった瞳でこちらを見つめてきた。


「ネット通販じゃダメですか。外はまだ三十四度を超えてますよ。信子さん、冗談抜きで溶けちゃいませんか?」

「……日が傾いてきたから、日陰を歩けば大丈夫よ。それに」


 信子は少しだけ視線を泳がせ、耳の先をほんのりと赤く染めた。


「俊作と、一緒に歩きたいの。……私、ずっとこの部屋に引きこもってばかりだし」


 上目遣いでそう言われてしまえば、断れるはずがなかった。信子の純粋なお願いに、俺はあっさりと降伏した。


「……分かりました。近くの大型ペットショップまでなら、タクシーを使えば外を歩くのは数分で済みます。準備してください」

「本当!? やった! すぐ着替えてくる!」


 信子は弾かれたように立ち上がり、自分の部屋の方へ駆け出していった。残されたモカが不思議そうに小首を傾げ、トコトコと俺の足元へ歩いてきてスリッパの匂いを嗅ぎ始める。


 十五分後。


「お待たせ、俊作」


 リビングに戻ってきた信子を見て、俺は思わず手元の木べらを置いた。


 彼女が身に纏っていたのは、深いネイビーブルーのサマードレスだった。ノースリーブで肩から腕のしなやかなラインが露わになっており、ウエストはきゅっと絞られ、そこからふわりと上品に裾が広がっている。歩くたびに、上質な生地がさらさらと柔らかな音を立てた。


 銀色に近いプラチナブロンドの髪は、緩くまとめられて白いうなじを覗かせていた。


 涼しげでありながら、隠しきれないグラマラスなプロポーションが嫌でも目に付く。職場で見せる隙のないタイトなスーツ姿とも、部屋での無防備なキャミソール姿とも違う。圧倒的なまでの、洗練された「大人の美女」のオーラがそこにあった。


「……どうかしら。変じゃない?」


 俺が見とれて無言になっているのを不安に思ったのか、信子が少しだけ裾を摘んで首を傾げた。


「いえ……変どころか、すごく似合ってます。モデルみたいだ」

「ふふ、ありがとう」


 素直に称賛すると、信子は恥ずかしそうに、しかし心底嬉しそうにふわりと頬を緩めた。その無邪気な表情の眩しさに、俺は少し気恥ずかしさを覚え、静かに目を逸らした。


 モカをサークルに入れ、水とトイレの確認をしてから、俺たちは玄関を出た。


 マンションの廊下に出た瞬間、むっとした熱気が全身を包み込む。信子は「うぅっ」と小さく呻き、俺の左腕にぴったりと寄り添ってきた。


「やっぱり暑いわね……。でも、俊作の腕にくっついてると、少し冷たくて気持ちいい」

「俺の体温は三十六度ありますけどね」

「外の空気よりはずっとマシよ」


 彼女の柔らかい感触と、微かに香るフローラル系の香水の匂いに理性を揺さぶられながら、俺たちはエレベーターに乗り込んだ。


 一階に到着し、大理石張りの涼しいエントランスホールを抜ける。


 自動ドアが開き、夕暮れ時の街の喧騒と、アスファルトの熱い匂いが流れ込んできた。西日はまだ強く、遠くで鳴く蝉の声がジリジリと耳を打つ。


 俺が信子のために日傘を開こうとした、その時だった。


「――見つけたぞ、五十嵐!!」


 エントランスのすぐ外側、植え込みの陰から、怒りに満ちた声が響いた。


 びくりと信子が肩を震わせる。俺は反射的に彼女を背中に庇うようにして、声の主へと視線を向けた。


 そこに立っていたのは、営業部の黒田課長だった。


 昨日スーパーの前で会った時よりも、さらに酷い有様だった。ワイシャツは皺だらけで汗にまみれ、ネクタイは外されてポケットからだらしなく垂れ下がっている。血走った目は異常に大きく見開かれ、目の下の隈はどす黒い。息をするたびに、古いアルコールと汗が混ざったような不快な臭いが漂ってくる。


 絵に描いたような、ブラック企業の狂気に当てられた男の末路。


「黒田課長……」


 俺が冷静に名前を呼ぶと、黒田は荒い息を吐きながらズカズカと距離を詰めてきた。手にはパンパンに膨らんだビジネスバッグが握られている。そして、背後にあるマンションのエントランスを見上げ、忌々しそうに顔を歪めた。


「俺から逃げられるとでも思ったか! ……って、何だここは。無職の分際で、こんな大理石張りの高級マンションに住んでるのか? 誰の金を頼ってこんな身分不相応な真似をしてるんだ!」


 まくし立てる黒田の言葉を聞いて、俺は内心で冷ややかに息を吐いた。


 ここはエントランスの入り口付近こそ無駄に大理石張りで豪華に作られているが、実際の居住区画は家賃の安さと壁の厚さだけが取り柄の、ごく平凡な安マンションだ。黒田は勝手に表面的な見た目だけで勘違いし、自分の中で勝手に劣等感と怒りを増幅させているらしい。


 俺は背後にいる信子に「大丈夫です、少し下がっていてください」と小声で伝え、黒田に向き直った。信子は日傘の陰で気配を消している。


「休日の夕方に、元部下のマンションの前で待ち伏せですか。熱心なことですね。俺に何か用ですか」

「とぼけるな! お前が飛んだせいで、こっちがどれだけ地獄を見てるか分かってんのか!」


 黒田は唾を飛ばしながら怒鳴り散らした。エントランスを通る数人の住人が、怪訝な顔をしてこちらを見ているが、黒田の目には入っていないようだった。


「お前が担当してたA社のデータファイル、暗号化されてて開けねえんだよ! パスワード教えろ! 今すぐだ!」

「引き継ぎ用の共有フォルダに、テキストファイルで残してありますが。ファイル名に『パスワード一覧』と明記したはずです」

「そんなもん、お前が消してったに決まってるだろ! 探す暇もねえんだよ! 役員会議の資料に間に合わなかったら俺の首が飛ぶんだ、いいから今すぐ言え!」


 完全に論理が破綻している。自分の確認不足を棚に上げ、ただ感情的に八つ当たりをしているだけだ。


 六年間の社畜生活で、この男のこういう手合いには慣れきっていた。俺は小さくため息をつき、ポケットからスマホを取り出そうとした。ここで言い争うより、記憶しているパスワードを事務的に伝えて帰らせる方が早い。


 しかし、俺のその態度は、黒田の狂気をさらに煽る結果となった。


「その余裕ぶった態度がムカつくんだよ……!」


 黒田がギリッと歯を食いしばる。


「お前、明日から業務委託で戻ってこい。時給千円で使ってやる。どうせ無職で暇なんだろ? お前が投げ出した責任なんだから、這いつくばってでも俺の仕事を手伝え!」

「お断りします」


 俺は即答した。


「引き継ぎ資料は残しましたし、退職手続きも規定通りに済ませています。俺にこれ以上の責任はありません」

「ふざけるな! 誰がお前みたいな三十過ぎのくたびれた男を雇うってんだ! 虚勢張ってんじゃねえぞ!」

「虚勢ではありません。俺は今、とても条件の良い雇用主に雇われていますので。……それでは、俺たちは買い物の途中なので失礼します」


 俺が踵を返そうとした瞬間、黒田が獣のような唸り声を上げ、俺の右腕に向かって手を伸ばしてきた。


「逃がすかよっ……!」


 その手が俺の腕を掴むより、ほんの一瞬早く。


 周囲の空気が、急激に冷えた。


 真夏の夕暮れ特有の、まとわりつくような熱気が一瞬にして凍りつき、肌の表面に粟立つような悪寒が走る。吐く息が白く濁りそうなほどの、物理的な温度低下。


 カツ、カツ、と。


 涼しげなヒールの音が、俺の背後から響いた。


 黒田の動きが、空中でピタリと止まった。


 俺の背中の陰から、日傘を傾けながら、信子がゆっくりと前に出た。


 ネイビーブルーのサマードレスの裾が、彼女が発する冷気によってふわりと揺れる。プラチナブロンドの髪の間から覗く青みがかった瞳は、一切の感情を排した絶対零度の光を放っていた。


 その顔を見た瞬間、黒田の血走った目が、信じられないものを見るように大きく見開かれた。


「な……っ」


 黒田の喉から、かすれた音だけが漏れる。


 無理もないだろう。目の前にいるのは、彼が職場で恐れている「氷の女帝」こと川口部長だ。しかし、タイトなスーツではなく、目を奪われるほど華やかで色気のある私服姿。しかも、彼が今まさに罵倒していた「くたびれた無職の男」の背後から現れたのだ。


 黒田の疲弊しきった脳は、目の前で起きている事象をまったく処理できず、完全にフリーズしていた。


「か、川口……部長……? なぜ、あなたが、そんな私服で五十嵐なんかと……? お前ら、まさかここで一緒に住んで――!?」

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