第6話 元上司と茶色い毛玉
スーパーの自動ドアを抜けると、肌を刺すような冷房の空気が心地よかった。
入り口でカゴを手に取り、まずは精肉コーナーへ向かう。今日の夕食のメニューは豚の冷しゃぶに決めていた。
現在、俺が月給五十万で雇われている「飼い主」の部屋――もとい、避難先である俺の部屋は、雪女の彼女に合わせて常に十六度に設定されている。その極寒の空間で熱々の麻婆豆腐を食べるのも捨てがたかったが、食欲をそそるポン酢の酸味と、さっと茹でた豚肉の甘みは夏の疲れた胃腸に優しいはずだ。
薄切りの豚バラ肉とロース肉をパックでいくつかカゴに入れる。付け合わせには、シャキシャキとしたレタスと、みょうが、大葉といった薬味も忘れずに揃えた。
そして最後は、信子から出発前に厳命されているアイスクリームだ。溶けないようにドライアイスを多めにもらい、ストロベリー、マカダミアナッツ、抹茶の三種類を保冷機能付きのエコバッグに詰め込んだ。
「よし、これで完璧だな」
会計を済ませ、スーパーの外へ出る。
再び暴力的なまでの熱風が全身を包み込んだ。アスファルトの照り返しで、息をするだけで喉の奥が焼けるようだ。急いでクーラーの効いたマンションに帰ろうと歩き出した、その時だった。
「おや、五十嵐じゃないか」
背後から、ひどく聞き覚えのある、そして二度と聞きたくなかった声が響いた。
振り返ると、そこに立っていたのは営業部の黒田課長だった。
四十代半ばの彼は、脂汗で顔をテカらせ、コンビニのアイスコーヒーを片手に持っていた。ワイシャツの首元は汗で黄ばんでおり、ネクタイはだらしなく緩められている。手元のコーヒーのプラスチックカップには結露がびっしりと付き、彼の指先からアスファルトへポタポタと水滴を落としていた。
営業回りの途中なのだろうが、それにしても酷い有様だ。ブラック企業に染まりきった男の末路を体現しているような姿だった。
俺が在籍していた頃は、自分の部署の面倒な資料作成やデータ入力を「他部署の営業の勉強だ」と言いくるめて、全て俺に押し付けていた元凶の一人である。
「黒田課長。お疲れ様です」
俺が淡々と会釈をすると、黒田は俺の手にあるスーパーの袋を値踏みするように見つめ、鼻で笑った。
「昼間っからスーパーの袋ぶら下げて、主婦の真似事か? 呑気なもんだな。こっちはお前と違って、このクソ暑い中で外回りなんだよ」
「ええ。おかげさまで、今はゆっくり休ませてもらってます」
「お前が急に飛んだせいで、こっちのスケジュールがめちゃくちゃだぞ。引き継ぎもろくにしないで辞めやがって。社会人の常識ってもんがないのか」
苛立ちを隠そうともしない黒田の言葉に、俺は小さくため息をついた。
「退職の意思は規定通りに伝えましたし、会社規定に則った手続きも踏みました。俺が抜けて業務が回らないのは、俺の責任ではなく会社の人員配置の問題です。それは管理職であるあなた方が対処すべきことでしょう」
「屁理屈を言うな! おまけに川口部長も昨日から体調不良で休みやがって。あの『氷の女帝』も、いざとなればただのヒステリーで休むだけのポンコツだったってことだ。俺がその尻拭いまでさせられてる身にもなってみろ!」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中で、すっと温度が下がるのを感じた。
自分のことを言われるのは構わない。六年間浴び続けてきた言葉だ。今さら腹も立たない。
だが、信子を侮辱されたことには、思いのほか強い嫌悪感が湧き上がった。
俺は真っ直ぐに黒田の充血した目を見据えた。
「……川口部長は関係ないでしょう。彼女は倒れる寸前まで、あなたたちが押し付けた仕事をカバーしていましたよ。文句があるなら、直接本人に言えばいいじゃないですか」
「なんだと? お前、無職の分際でその態度は……どうせ次の仕事も決まってないんだろ。泣きついてくるなら、俺が人事の口をきいてやってもいいんだぞ」
嘲笑を浮かべようとした黒田の言葉を、俺は手で制した。
「結構です」
「は?」
「今はあなたよりずっと良い待遇で、ストレスのない環境で働いていますので。ご心配には及びません」
俺は黒田の顔のパーツを一つ一つ観察するように見つめ、淡々と言葉を紡いだ。
「それより黒田課長、あまり無理をして倒れないように気をつけてくださいね。目の下のクマ、酷いですよ。顔色も土気色ですし、一度病院で診てもらった方がいいんじゃないですか」
「お前……っ!」
図星を突かれたのか、黒田の顔が屈辱で朱に染まる。ギリッと歯を食いしばる音が聞こえた。
「それでは、アイスが溶けるので失礼します」
俺は軽く頭を下げ、黒田の怒鳴り声を背中で聞き流しながら、足早にその場を後にした。
帰り道、俺はいつも通る大通りを避け、少し遠回りの路地を歩いていた。
黒田と会ったせいで、心がささくれ立っていた。言い返してやったというカタルシスよりも、あのブラック企業の淀んだ空気を思い出してしまったことへの疲労感の方が大きい。
「……やれやれ。月五十万もらってるんだから、余裕を持たないとな」
自分に言い聞かせるように呟き、住宅街の角を曲がった時だった。
ふと、視界の端に小さな木製の看板が入った。
『トイプードル専門ブリーダー 高橋』
普通の民家だが、庭先に広いサークルが設置されており、日よけのタープが張られている。その下で、初老の男性がホースで水を撒きながら犬の世話をしていた。
サークルの中で、チョコチョコと動き回る小さな影が見えた。
「暑いねえ。お兄さん、犬好きかい?」
立ち止まってサークルを見つめていると、ブリーダーの男性が人懐っこい笑顔で声をかけてきた。
「あ、すみません。可愛いなと思って」
「寄ってきなよ。この子、人懐っこいから」
促されるままにサークルに近づくと、茶色い毛玉が柵の隙間から小さな鼻先を突き出し、ちぎれんばかりに尻尾を振って歓迎してくれた。
「生後二ヶ月の男の子だよ。抱っこしてみるかい?」
「いいんですか?」
用意されていたアルコールで手を消毒し、ブリーダーからその小さな命を受け取る。
「キャン!」
腕の中に収まった茶色い毛玉は、信じられないほど温かかった。三十八度の犬の平均体温が、パーカー越しの腕にじんわりと伝わってくる。トクトクと脈打つ早い心拍と、微かに香るミルクのような匂い。
黒田の放っていたドロドロとした負のオーラとは完全に対極にある、純度百パーセントの無垢な生命力だった。
鼻先をペロペロと舐められ、俺の顔は自然と綻んでいた。
「この子、まだ飼い主が決まってないんですか?」
「ああ。兄弟はみんな貰われていったんだけどね。この子だけ少し小柄で、最後まで残っちまってね。元気はいっぱいなんだけど」
俺の脳裏に、信子の広いマンションの一室が浮かんだ。
綺麗に片付いたあの大理石のテーブルの周りを、この小さな毛玉が走り回る光景。家事能力ゼロの雪女と、世話焼きの元社畜。そこにこの子犬が加われば、あの寒々しい部屋も少しは温かくなるかもしれない。
気がつけば、俺は片手でスマホを取り出し、信子にメッセージを送っていた。
『犬、飼ってもいいですか?』
十秒もしないうちに、既読がつき、返信が飛んできた。
『えっ!? 犬!? 飼う! 絶対飼う! お金いくら!? 私のカード使って!』
文字からでも伝わってくる食い気味のテンションに、思わず声を出して笑いそうになる。
『お金は俺が出します。これから連れて帰りますね』
俺はスマホをポケットにしまい、ブリーダーの男性に向き直った。
「この子、俺が引き取ります」
「おお、本当かい! そりゃあ良かった」
それからの手続きは早かった。血統書などの書類にサインし、当面必要なドッグフードやおもちゃをいくつか購入する。ケージやトイレなどの大きな荷物は、近所だからとブリーダーが後で軽トラで運んでくれることになった。
「名前、もう決まってるのかい?」
キャリーバッグに子犬を入れながらブリーダーに聞かれ、俺は少しだけ考えた。
茶色くて、ふわふわで、見ているだけで心がホッとするような甘い色合い。
「『モカ』にします」
「モカ。いい名前だね。大事にしてやってくれよ」
ブリーダーに礼を言い、俺はモカの入ったキャリーバッグとスーパーの袋を両手に抱え、足取りも軽くマンションへと向かった。
玄関のドアを開けた瞬間、冷房の冷たい空気が漏れ出してきた。
「おかえりなさい、俊作!」
俺が靴を脱ぐよりも早く、リビングから信子がパタパタと足音を立てて飛んできた。相変わらず黒のキャミソール姿だ。
「ただいま戻りました」
俺が言うと、信子の視線は俺の顔ではなく、手元にあるキャリーバッグに釘付けになった。
バッグのメッシュの窓から、キュン、と小さな鳴き声が漏れる。
信子は目を丸くし、両手で口元を覆った。
「それ……っ」
俺はそっとキャリーバッグのジッパーを開けた。
中から、モカが不思議そうに首を傾げながら、ちょこんと顔を出す。信子の青みがかった瞳が、信じられないものを見るように大きく見開かれた。
「可愛い……っ! なにこの生き物、天使!?」
信子はしゃがみ込み、モカに顔を近づけた。しかし、触れる直前でハッと何かに気づいたように手を止める。
「あっ……でも私、雪女だし。この子、冷たがらないかしら」
触れることを躊躇う信子。しかし、モカは自分に向けられた好意を察したのか、短い尻尾を振りながら、自ら信子の白い手に鼻先をすり寄せた。
「キュン!」
「あっ……」
夏の猛暑の中で毛皮を着ている犬にとって、信子のひんやりとした体温はむしろ心地よかったらしい。モカは気持ちよさそうに目を細め、信子の手のひらをペロペロと舐め始めた。
信子は花が咲いたような、無防備で幸せそうな笑顔を見せた。
「俊作、この子……私のこと、嫌がってない!」
「ええ。名前はモカです。今日からうちの新しい家族ですよ」
「モカ……! よろしくね、モカ!」
信子はモカをそっと抱き上げ、自分の頬にすり寄せた。
三十八度の犬の体温と、雪女の冷たい肌が交ざり合う。リビングに、新しい命の温もりが加わった。それを見つめる信子の横顔は、普段の『氷の女帝』からは想像もつかないほど優しかった。




