第5話 36度の湯たんぽ
目覚めると、首元から胸にかけて、ひんやりとした重みを感じた。
重みといっても苦しいわけではない。柔らかく、心地よい冷感を含んだそれが、俺の左腕にしっかりと絡みついている。
ゆっくりと重い瞼を開け、まだぼやけている視界の焦点を合わせる。すぐ右側に、透き通るようなプラチナブロンドの髪が広がっていた。
信子だ。
彼女は俺の左腕を完全に抱き枕としてホールドし、さらに自分の右脚を俺の腰に絡ませるという、見事なまでの密着姿勢で眠っていた。薄いタオルケットはベッドの足元に無残に蹴り飛ばされており、彼女が身につけているのは昨夜と同じ黒のキャミソールとショートパンツだけだ。
キャミソールの胸元が危うい位置まで下がっているのが見え、俺は慌てて視線を天井へと逃がした。
「……朝からこれは、心臓に悪いな」
小さく呟きながら、自らの置かれている状況を頭の中で整理する。
現在、八月半ば。お盆休みの真っ只中。
俺は六年間勤めたブラック企業を退職し、隣人であり元上司である川口信子の専業主夫として月給五十万円で雇われた。彼女の部屋のエアコンが故障中であるため、修理業者が来るまでの数日間、俺の部屋で同居生活を送っている。
ベッドが一つしかないという物理的な問題から、昨夜は同じベッドで寝ることになったのだが、結果がこれだ。
部屋のエアコンは最低温度の十六度、しかも強風に設定されている。普通の人間なら寒くて震え上がる環境だが、雪女である彼女にとってはこれが「少し涼しい」程度の適温らしい。
長袖のスウェットを着て寝た俺にとって、信子から伝わってくる雪のような冷たさは、確かに心地よかった。だが、三十二歳の独身男にとって、絶世の美女にキャミソール姿でしがみつかれるという状況は、冷却効果以上に精神的な発熱を伴う。
なんとかこの状況を打破すべく、そっと左腕を引き抜こうと試みる。
「んぅ……」
しかし、信子は不満げな声を漏らし、さらに強く腕を抱き込んできた。彼女の豊かな胸の感触が、腕の側面にダイレクトに押し付けられる。柔らかい弾力と冷たい体温が、容赦なく理性を揺さぶってくる。
「っ……信子さん、朝です。起きてください」
背に腹は代えられず、少し声を張って肩を揺さぶった。
数回の瞬きの後、信子の青みがかった瞳がゆっくりと見開かれた。焦点が定まらない目で俺を見上げ、何度か瞬きを繰り返す。それから自分の手足が俺に深く絡みついている状況を、時間をかけて認識した。
「あ……」
「おはようございます。よく眠れましたか」
俺が努めて事務的な声で言うと、信子は耳の先をほんのりと赤く染め、ばっと身体を離した。
「お、おはよう、俊作。その、ごめんなさい。寝相が悪くて……」
「いえ、雪女は寝ている間の体温調節が難しいって言ってましたし、仕方ないですよ。ただ、毎朝これだと俺の心拍数が保たないんで、できればタオルケットは被って寝てくださいね」
「……うん」
気まずそうに俯く信子を置いて、俺はベッドから抜け出した。
冷え切ったフローリングに足をつき、軽く首を回す。関節がポキポキと鳴った。アラームの音に急き立てられ、胃の痛みを抱えながら飛び起きていた数日前までの朝が、ひどく遠い昔のことのように思えた。
「シャワー浴びてきます。その後、朝食にしますね」
「朝ご飯、何?」
信子がパッと顔を上げ、期待に満ちた目を向けてきた。さっきまでの気まずさはどこへやら、完全に餌を待つ雛鳥の顔だ。
「そうですね。昨日は和食でしたから、今日はフレンチトーストにしましょうか。厚切りの食パンがあるんで。あと、温かいコーンポタージュ」
「食べる!」
「はいはい。じゃあ、顔洗って待っててください」
洗面所へ向かいながら、俺は小さく息を吐いた。フレンチトースト一つでここまで分かりやすく喜ぶ彼女を見ていると、なんとも言えない優越感のようなものがあった。
シャワーを浴びてスウェットから長袖のパーカーに着替え、キッチンに立つ。
ボウルに卵を割り入れ、牛乳、砂糖、そして隠し味にほんの少しのバニラエッセンスを加える。厚切りにした食パンを並べ、卵液をたっぷりと吸わせた。パンの白い部分が黄色く染まり、ずっしりとした重みを増していく。
フライパンに多めのバターを溶かし、弱火でじっくりと食パンを焼き上げる。甘く香ばしいバターの匂いが、十六度に冷え切ったリビングに広がっていく。焦がさないように慎重に裏返し、両面にきつね色の焼き目をつけていく。
焼き上がったフレンチトーストを皿に盛り、メープルシロップを回しかけた。粉糖を茶こしで軽く振れば、立派なカフェの朝食だ。マグカップには、熱湯で溶いた濃厚なコーンポタージュを注ぐ。
「お待たせしました」
ダイニングテーブルに皿を置くと、向かいに座った信子が目を輝かせた。彼女はパーカーを着込んでいる俺とは対照的に、相変わらずキャミソール一枚のままだ。
「いただきます」
フォークとナイフで一口大に切り分け、口に運ぶ。
途端に、信子の美貌がだらしなく崩れた。
「んんっ……美味しい! 中までフワフワで、すごく甘い……」
「卵液をしっかり吸わせましたからね。ポタージュも温かいうちにどうぞ」
「うん」
信子は幸せそうに目を細めながら、猛烈な勢いでフレンチトーストを平らげていく。パンの端の少しカリッとした部分と、中心のトロッとした部分の食感の違いを楽しんでいるようだ。
彼女が美味しそうに食べる姿を見ているだけで、こちらの胸まで満たされるような気がした。仕事としてやっているとはいえ、自分の作ったもので誰かが明確に喜んでくれるというのは、やはり嬉しいものだ。
朝食を終え、俺は主夫としての業務を開始した。
洗濯機を回し、昨日出たゴミをまとめる。隣の三〇二号室、つまり信子の部屋の換気をし、掃除機をかける。足の踏み場もなかったゴミ屋敷は、昨日の徹底的な清掃により、大理石のローテーブルが輝く高級マンション本来の姿を取り戻している。今日は残っていた細々とした荷物の整理と、水拭きを中心に作業を進めた。
自室に戻り、干し終わった洗濯物を取り込む。ベランダに出た瞬間、まとわりつくような熱気が身体を包んだが、十六度の部屋に戻ればすぐに汗は引いた。
慣れた手つきで家事をこなしていく間、信子はソファに座り、膝を抱えるようにしてタブレットで映画を見ていた。休日の昼下がりの、穏やかな時間が流れている。
午後一時。
ベランダから差し込む日差しは痛いほど強く、網戸の向こうからはジリジリという蝉の鳴き声が途切れることなく響いている。ニュースによれば、今日の最高気温は三十六度を超える猛暑日らしい。
しかし、俺の部屋の中は相変わらず十六度の冷風が吹き荒れている。
全ての家事を終えた俺は、温かいコーヒーを淹れ、ソファの空いているスペースに腰を下ろした。
「ふう……」
「お疲れ様、俊作」
信子がタブレットから顔を上げ、俺に向かって微笑んだ。
「いえ、大した労働じゃありませんよ。適度に身体を動かすのも悪くないです」
コーヒーを一口飲み、マグカップをローテーブルに置く。深い焙煎の香りが、少しだけ疲れた身体に染み渡る。
その直後だった。
「……ねえ、俊作」
信子が、じりじりとソファの上を移動し、俺のすぐ隣まで距離を詰めてきた。
「はい?」
「ちょっと、いいかしら」
言うが早いか、信子は俺の右腕に自分の両腕を絡ませ、さらに俺の肩にコトンと頭を乗せてきた。
冷気を帯びた彼女の髪が頬に触れ、風呂上がりの清潔な香りがふわりと漂った。キャミソール越しに伝わってくる体温はひんやりとしていて、真夏の猛暑日とは無縁の涼やかさだ。
「あの、信子さん。近いです。というか、また密着してますけど」
「だって……」
信子は俺の腕に頬をすり寄せながら、少し上目遣いでこちらを見た。
「部屋は涼しいんだけど、なんだか体の中がポカポカしてて、溶けちゃいそうなの。だから、俊作の体温で中和しないと」
「俺の体温の方が高いんですよ? 余計に溶けませんか」
「ならないの。俊作の温度は、私にとってちょうどいいの。高すぎず、低すぎず……こうしてると、すごく安心するから」
言い訳にしてはめちゃくちゃだが、彼女の青みがかった瞳には微塵の計算もない。ただ本能的に、俺の体温を求めているのが分かった。
雪女という種族は、本当に厄介だ。
物理的な熱には弱いくせに、温かいものを求めてしまう。そして、その欲求に素直すぎる。
俺は小さくため息をつき、抵抗を諦めた。
「まあ、俺はパーカー着てるんでいいですけど。風邪引かないでくださいよ」
「引かないわ。私、雪女だもの」
信子は嬉しそうに微笑み、さらに身を預けてきた。俺の右半身に、彼女の体重が完全に乗っかっている。
テレビから流れるバラエティ番組の音と、エアコンの駆動音。
そして、すぐ隣から聞こえる信子の静かな寝息。
彼女は俺の腕に抱きついたまま、いつの間にかうとうとし始めていた。
平日の昼間からクーラーの効いた部屋で、絶世の美女に抱きつかれながらコーヒーを飲む。この圧倒的な平穏は、確実に俺のすり減った神経を修復してくれていた。
「俊作……」
不意に、信子が寝言のように呟いた。
「ん?」
「ありがとう……私を、拾ってくれて」
俺の腕に顔を埋めたまま、くぐもった声で言う。
「逆ですよ。拾われたのは俺の方です」
「ううん。俊作がいなかったら、私、あの汚い部屋で独りで溶けてたもの。……だから、ずっと一緒にいてね」
無意識の甘えから出た言葉だろう。だが、その切実な響きに、俺は柄にもなく胸の奥が熱くなるのを感じた。
「ええ。契約ですからね」
俺は空いている左手を伸ばし、彼女のプラチナブロンドの髪をそっと撫でた。絹糸のように滑らかな髪の感触が指先に伝わる。信子は猫のように目を細め、心地よさそうに喉を鳴らした。
午後四時。
信子がようやく目を覚まし、俺から離れたところで、ふと冷蔵庫の中身を思い出した。
「信子さん、そろそろ夕飯の買い出しに行ってきます。冷蔵庫のストックがだいぶ減ってきたんで」
俺が立ち上がりながら言うと、信子はソファの上で伸びをした。
「そうなの? じゃあ、私も行こうかしら」
「いや、やめておいた方がいいですよ。外はまだ三十五度くらいありますし、日差しも強い。信子さん、すぐに溶けちゃうんじゃないですか?」
「うっ……確かに、今の外の気温は死活問題ね」
信子は少し残念そうに肩を落とした。
「何かリクエストはありますか? 食べたいものとか、欲しいものとか」
「アイス! ハーゲンダッツ買ってきて!」
「了解です。味の指定は?」
「ストロベリーと、マカダミアナッツ。あと、抹茶も捨てがたいわね」
「三つ全部買ってくるんで、後で選んでください。それじゃ、行ってきます」
「うん、気をつけてね。……早く帰ってきてね、俊作」
見送ってくれる彼女の笑顔を背に、俺は玄関のドアを開けた。
一歩外に出た瞬間、オーブンの中に放り込まれたような強烈な熱風が全身を包み込んだ。十六度の部屋に慣れきった体には、暴力的なまでの温度差だ。
「あつっ……」
たまらずパーカーを脱ぎ、手に持つ。
Tシャツ一枚になっても、数歩歩くだけで額に汗が滲んでくる。信子が外に出なくて正解だった。あんな雪女がこの気温に晒されれば、文字通り溶けて消えてしまうだろう。
エレベーターに乗り、マンションのエントランスを抜けて、近くの大型スーパーへと向かう。
照りつける西日がアスファルトを焼き、周囲の空気がゆらゆらと歪んで見える。耳障りなほど大きい蝉の声が、夏の盛りであることを嫌でも実感させた。
歩きながら、俺は今日の夕食のメニューを考えていた。
夏バテ防止に、豚肉を使ったさっぱりとした冷しゃぶがいいだろうか。いや、部屋が極寒だから、逆に熱々の麻婆豆腐というのもアリかもしれない。
そんなことを考えながら、俺はスーパーの自動ドアをくぐった。




