第4話 氷の女帝を蕩かす特製シチューオムライスと、秘密の添い寝
シャワーを浴びてさっぱりとした俺は、首にタオルをかけたままリビングへと戻った。
部屋は設定温度十六度の強風で冷え切っており、真夏とは思えない清涼感、というよりは明確な寒さに包まれている。風呂上がりの火照った体にはありがたいが、長袖を着ていなければ少し肌寒さを感じるほどの温度設定だ。
ソファの上では、黒のキャミソールとショートパンツ姿の信子が、薄いタオルケットを膝に掛けて小さく丸まっていた。手元のスマホで何かの記事をスクロールしている横顔は、やはり誰が見ても見惚れるほど美しい。
プラチナブロンドの髪が肩口にこぼれ、青みがかった瞳が画面の光を反射している。その完璧な造形は、会社で君臨していた姿そのものだが、纏っている空気がまるで違った。
警戒心がなく、どこか無防備で、柔らかい。
「お待たせしました。すぐにご飯にしますね」
声をかけると、信子は顔を上げ、パッと表情を輝かせた。
「あ、俊作。お風呂、お疲れ様」
「ええ。それで、メニューなんですけど」
俺は冷蔵庫を開け、中を覗き込みながら言った。
「さっきまでデミグラスソースのオムライスにしようと思ってたんですが、変更してもいいですか」
「変更?」
「ええ。部屋がだいぶ冷えてますし、何か温かい汁気があった方がいいかと思いまして。鶏肉と玉ねぎ、それに少しキノコもあるんで、クリームシチューを作ります。それをケチャップライスにかけた、シチューオムライスなんてどうでしょう」
俺の提案を聞いた信子は、スマホをソファに放り出し、ゴクリと分かりやすく喉を鳴らした。
「……すごく、美味しそう」
「じゃあ、決まりですね。少し待っててください」
俺はエプロンを身につけ、手早く調理に取り掛かった。
まな板の上に玉ねぎ、人参、マッシュルーム、そして鶏もも肉を並べる。長年の自炊生活で培った包丁捌きで、食材を均一な大きさに切り分けていく。トントンという小気味良い音がキッチンに響き始めた。
フライパンにバターを落とし、中火にかける。バターが溶けて香ばしい匂いが立ち上ったところに、鶏肉と野菜を投入した。木べらで炒め合わせると、ジュージューという音と共に、食欲をそそる匂いがリビングへと広がっていく。
ふと視線を感じて横を向くと、いつの間にか信子がキッチンのカウンターに顎を乗せ、俺の手元をじっと見つめていた。
「手際がいいのね。見ていて飽きないわ」
「毎日やってれば誰でもこうなりますよ。会社での資料作りやエクセルの入力より、よっぽど単純で結果がすぐに出る作業です」
「私はそういう単純なこともできないから」
少し自嘲気味に笑う信子を横目に、俺は炒めた具材に小麦粉を振り入れ、粉っぽさがなくなるまで丁寧に炒め合わせた。そこへ冷たい牛乳を少しずつ加え、ダマにならないよう手早く混ぜていく。
固形コンソメを一つ落とし、とろみがつくまで弱火で煮込む。コトコトと鍋が鳴るたびに、クリームとチキンの優しい香りが濃くなっていく。これで即席のクリームシチューは完成だ。
並行して、別のフライパンでケチャップライスを作る。細かく刻んだ玉ねぎとベーコンを炒め、ご飯を投入。フライパンをリズミカルに煽ってケチャップの酸味を飛ばすようにしっかりと炒め合わせ、塩胡椒で味を調える。
それを二つの深皿にこんもりと盛り付けた。
「さて、ここからが本番ですよ」
俺はボウルに卵を割り入れ、少しの牛乳を加えて手早くかき混ぜた。強火で熱したフライパンに多めの油を引き、卵液を一気に流し込む。
ジューッ!という激しい音と共に卵の縁がチリチリと固まり始める。菜箸で大きくかき混ぜ、半熟のトロトロ状態になった瞬間に火から下ろし、ケチャップライスの上に滑らせるように乗せた。
黄色い卵のドレープが、赤いライスを美しく覆い隠す。その上から、先ほど煮込んだ熱々のクリームシチューをたっぷりと掛けた。最後に乾燥パセリを散らせば完成だ。
「お待たせしました。シチューオムライスです」
ダイニングテーブルに向かい合って座り、湯気を立てる皿を信子の前に置く。
黄色と白のコントラストが目に鮮やかな一皿から、バターとクリームの濃厚で甘い香りが立ち上っている。
信子は両手を胸の前で合わせ、少し震える声で言った。
「いただきます」
スプーンを手に取り、卵とライス、そしてシチューを一緒にすくい上げる。大きく口を開け、ぱくりとそれを頬張った。
出来立てで熱かったのだろう。「んふっ」と小さく声を漏らし、ハフハフと口元を押さえる。
雪女だからといって極端な猫舌というわけではないらしいが、冷たい彼女の体に、熱々のシチューが染み渡っていくのが見て取れた。
ゴクン、と飲み込んだ後。
信子の青みがかった瞳が、ゆっくりと細められた。
ふわりと頬を綻ばせ、幸福そのものといった柔らかい笑顔が広がる。
「……おいしい」
吐息のように漏れたその一言には、一切の飾りがなかった。
「卵がすっごくフワフワで、シチューのクリームが優しくて……噛むとケチャップの味が追いかけてくるの。どうしよう、これ、今まで食べたオムライスの中で一番美味しいかも……」
「それは言い過ぎですよ。ただのあり合わせで作った家庭料理です」
「ううん。本当に美味しいの」
信子はそれから無言になり、凄まじいペースでスプーンを動かし始めた。
頬にクリームをつけながら、子供のようにオムライスを頬張っている。その無防備な姿に、俺は少しだけ眩暈を覚えた。
同時に、胸の奥で何かが静かに満たされていくのを感じていた。
六年間、どれだけ身を粉にして働いても、返ってくるのはさらなる理不尽な要求と、減っていく睡眠時間だけだった。俺の労働は常に誰かの穴埋めであり、感謝されることなど稀だった。
しかし今、目の前の女性は、俺がわずか三十分で作った料理を心から喜び、幸せそうに食べている。俺という存在が、彼女の生活を劇的に向上させているという確かな実感がそこにあった。
「月五十万か。……悪くない仕事だな」
俺は誰に聞こえるでもなく小さく呟き、自分の分のオムライスを口に運んだ。
二十分後。
綺麗に空になった皿を洗い終え、布巾で水気を拭き取っていると、背中越しに信子の声がかかった。
「ねえ、俊作」
「はい、なんでしょう」
シンクの水を止め、振り返る。
信子はソファの端に座り、自分の隣の空いたスペースをポンポンと叩いていた。
「こっち、来て」
「片付けが終わりましたから、明日の朝食の仕込みを……」
「それは後でいいから。早く」
少しだけ不満そうに唇を尖らせる姿は、上司の命令というより、構ってほしい子供のようだ。
俺は小さく息を吐き、ソファに向かって歩き出した。彼女の隣に腰を下ろした瞬間、待ってましたとばかりに信子が身を寄せてくる。
「っ……」
俺の左腕に、信子の柔らかい胸の感触と、ひんやりとした冷たい肌の温度がダイレクトに伝わってきた。微かに香る、雪のような澄んだ匂いが鼻腔をくすぐる。
「あの、信子さん。エアコン効いてるんだから、そんなにくっつかなくても」
「ダメよ。さっき熱いものを食べたから、体の中がポカポカしてて……少し溶けそうなの。俊作の体温で中和しないと」
「俺の体温は三十六度ありますけど。余計に暑くなりませんか」
「ならないの。俊作の温度は、私にとってちょうどいいんだから」
信子は俺の腕に両腕を絡ませ、自分の頬を俺の肩口にすり寄せてきた。
キャミソール一枚の絶世の美女にここまで密着されて、平静でいられる男がこの世にいるだろうか。俺は三十二歳の大人の男として必死に理性を総動員し、自分の心拍数が上がるのを抑え込もうとした。
しかし、信子から伝わってくる冷たい体温は、不思議と不快ではなかった。むしろ、夏の夜の寝苦しさを忘れさせてくれるような、心地よい冷涼感がある。
「俊作」
俺の腕に頬をすり寄せたまま、信子がぽつりと呟いた。
「はい」
「本当に、会社辞めたのよね」
「ええ。もう退職届も出しましたし、二度とあのフロアには戻りませんよ」
「……よかった」
信子の声は、どこか安堵しているように聞こえた。
「正直に言うとね、私、あなたがいつか壊れちゃうんじゃないかって、ずっと心配だったの。他の部署の連中が、面倒な仕事を全部あなたに押し付けてるのを知ってたから」
「……部長の立場から、庇うわけにはいかなかったでしょうしね」
「うん。私が口出しすれば、逆にあなたの立場が悪くなるかもしれないって……言い訳ね。ごめんなさい」
「謝らないでください。こうして無事にヒモとして拾ってもらえたんですから、結果オーライです」
俺が冗談めかして言うと、信子は小さく笑い、俺の腕を抱きしめる力を少しだけ強めた。
「そうね。あなたが私のものになってくれたんだから、結果オーライだわ」
時計の針は、午後十時を回ろうとしていた。
ふと、重大な問題に気がついた。
「あの、信子さん」
「んー?」
「夜、寝る時の話なんですけど」
俺の部屋は、独身男の一人暮らし用だ。当然、ベッドは一つしかない。
「俺はここのソファで寝ますから、信子さんは奥のベッドを使ってください。シーツとカバーはさっき新しいものに変えておきましたんで」
俺が当然の配慮としてそう提案すると、信子はピタリと動きを止め、ゆっくりと顔を上げた。
青みがかった瞳が、少しだけ不満そうに俺を見つめている。
「……一緒に寝ないの?」
「寝ませんよ。俺は月五十万で家事全般を請け負った専業主夫です。添い寝は業務内容に入ってません」
「じゃあ、追加オプションで払うから」
「そういう問題じゃありません。いくら俺がくたびれたおっさんでも、男女が同じベッドで寝るのは色々とリスクが……」
「おっさんじゃないわ。俊作は、すごく……かっこいいし」
信子は言い淀み、耳の先を赤く染めながら視線を逸らした。
「それに、私、寝てる時が一番体温の調節が難しいの。俊作が隣にいてくれないと、朝起きたら部屋が凍りついてるかもしれないわよ」
「それは……脅しですか」
「事実よ。だから、一緒に寝て」
まっすぐに見つめてくるその瞳には、有無を言わさぬ強さがあった。氷の女帝としての威厳ではなく、単なるわがままな甘えだ。
俺は腕を組み、小さくため息をついた。
「……わかりました。ベッドが狭いからって文句言わないでくださいよ」
「言わないっ!」
信子はパッと花が咲いたような笑顔になり、再び俺の腕に強く抱きついてきた。
照明を落とした寝室は、リビングの冷気を取り込んでひんやりと静まり返っていた。
シングルサイズのベッドに大人二人が横たわれば、当然ながら身動きが取れないほど密着することになる。俺が仰向けで硬直している横で、信子はごく自然に毛布をかぶり、俺の腕に自分の両腕を絡ませてきた。
「おやすみなさい、俊作」
耳元で囁かれる甘い声と、キャミソール越しに伝わってくる柔らかな感触。普通の男なら即座に理性が吹き飛ぶ状況だが、信子から伝わってくる雪のような冷たさが、絶妙な冷却材となって俺の暴走を食い止めていた。
腕の中から伝わってくる心地よい冷たさと、規則正しい寝息を聞いていると、不思議と悪い気はしなかった。
明日もまた、彼女のために何を作ろうか。
そんなことを考えながら、俺は六年ぶりに、目覚まし時計の時間を気にすることなく深い眠りへと落ちていった。




