第3話 汚部屋制圧プロジェクトと、氷の女帝の恥じらい
首に回された細い腕を引き剥がすのに、思った以上の労力を要した。
「……信子さん。その、俺の心拍数がそろそろ限界なんで」
朝から絶世の美女に密着されるという状況は、三十二歳の独身男には刺激が強すぎる。おまけに彼女は黒のキャミソール一枚で、薄い生地越しに柔らかい肌の感触と、雪女特有のひんやりとした体温がダイレクトに伝わってくる。微かに香る、雪のように澄んだ清潔な匂いが、寝起きの理性を容赦なく揺さぶってくるのだ。
彼女の細い手首を掴み、少しの抵抗の末、俺はどうにか信子を引き剥がし、再びソファに座らせることに成功した。
「えー。もうちょっとだけ。ね? 俊作の体温、すごく気持ちいいんだもの」
「ダメです。月五十万の仕事、さっそく始めさせてもらいます。まずは、あの部屋の惨状をどうにかしないと」
俺が言うと、信子はピタリと動きを止め、バツの悪そうに視線を泳がせた。
「……あ、あの部屋は、その。見なかったことにして、新居を借りるというのは……」
「敷金礼金が無駄でしょう。それに、あそこを放置したら夏場は虫が湧きますよ。すでにいくつかコバエが飛んでるのを見ましたし、近隣トラブルの元です」
「うっ……」
「俺に任せてください。伊達に六年間、ブラック企業で炎上案件の火消しをやらされてきたわけじゃありませんから」
俺は自室のクローゼットから、ストックしてあった四十五リットルのゴミ袋の束と、掃除用の厚手のゴム手袋、そして使い捨てのマスクを取り出した。
再び足を踏み入れた隣の三〇二号室は、昼間の明るさの中で見ると昨夜以上の絶望感を漂わせていた。
玄関のドアを開けた瞬間、むせ返るような熱気と、食べ残しやホコリが混ざり合った独特の臭気が鼻を突く。
玄関の三和土には、季節外れのロングブーツや脱ぎ散らかされたハイヒールが散乱し、廊下からリビングにかけて、コンビニ弁当の空き容器、飲みかけのペットボトル、丸められたストッキングや衣服、そして通販の段ボールが地層のように積み重なっている。足の踏み場は、文字通りどこにもなかった。さらに、締め切られた空間特有の、埃っぽい重い空気が肌にまとわりついてくる。
「……なるほど。完全な炎上案件だな」
俺はマスク越しに小さく呟き、腕を組んで状況を分析した。
目の前のゴミの山は一見すると圧倒的だが、手を動かせば動かした分だけ確実に減っていく。ゴールが見えない抽象的な仕事に比べれば、物理的に片付ければ終わるこの状況は、極めてシンプルだった。
後ろから、ひょっこりと信子が顔を出した。
「……ごめんなさい」
消え入るような声。今はただ、親に怒られるのを待つ子供のように肩をすくめている。
「謝ることはありませんよ。これが俺の仕事ですから。信子さんは俺の部屋で待機していてください。エアコンも壊れてますし、あの熱中症がぶり返したら元も子もない」
「でも、流石に申し訳ないわ。私、少しだけでも手伝う……」
「不慣れな人間が中途半端に手伝うと、かえって時間がかかります。依頼主は涼しい部屋で待機しているのが一番の協力ですよ」
俺が諭すように言うと、信子は「うぅ……」と唸りながらも大人しく引き下がった。
ドアを閉め、一人になった空間で深く息を吐く。
まずは換気だ。ゴミを踏み越えてベランダに繋がる窓を全開にする。外の生ぬるい風でも、この淀んだ空気よりはマシだ。
頭の中でタスクを細分化し、優先順位をつける。
ボトルネックは「床が見えないこと」だ。動線が確保できなければ清掃用具も持ち込めないし、拭き掃除もできない。
俺は両手にゴミ袋を持ち、手前の玄関からリビングに向かって、ひたすら「分別」と「袋詰め」の作業を開始した。
可燃ごみ、不燃ごみ、ペットボトル。判断に迷うものはとりあえず保留ボックスに入れ、手が止まる時間を極力なくす。処理速度を最優先するのだ。
腰をかがめ、ゴミ袋の口を開いては次々と不要物を放り込んでいく。玉の汗が額から流れ落ち、マスクの中は蒸れて息苦しいが、手を止めることはしない。弁当の容器に残った異臭を放つ汁気はトイレに流し、容器を重ねて体積を減らす。通販の段ボールはカッターで次々と解体し、紐で縛って壁際にまとめていく。
感情を無にし、ひたすら手を動かす。この脳を空っぽにして単純作業に没頭する時間は、目に見えて成果が出るため、案外嫌いではない。
一時間経過。
ゴミ袋が十個ほど積み上がった頃、ようやくリビングのフローリングが姿を現した。
「……いい木材使ってるじゃないか」
床は高級感のあるダークブラウンの無垢材だった。ゴミに埋もれていた家具も、よく見ればイタリア製の高級ソファや、間接照明、大理石のローテーブルなど、彼女の収入に見合った品ばかりだ。これだけのポテンシャルがある部屋をゴミで埋め尽くしていたのかと思うと、逆に感心してしまう。
動線が確保できたところで、水回りの制圧に移る。
キッチンは特に凄惨だった。シンクにはいつからあるのか分からないカップ麺の残り汁や、茶渋の固まったマグカップが山積みになっている。排水口からは微かに腐敗臭が漂い、コンロ周りは油跳ねが完全に固着して琥珀色の染みになっていた。
「これは……物理攻撃だけじゃ無理だな」
俺は自室から、重曹、クエン酸、そして業務用のカビ取り剤を持ち込んだ。
まずはシンクの洗い物を全て取り出し、熱湯と重曹を張った洗い桶に漬け込む。その間に、コンロ周りの油汚れにアルカリ性の洗剤を吹きかけ、キッチンペーパーで湿布する。
汚れが浮き上がるのを待つ間、風呂場とトイレへ。
風呂場はピンクカビと黒カビの温床だった。換気扇を回し、ゴーグルとマスクを装着してカビ取り剤を徹底的に噴射する。
待ち時間をゼロにし、常にどこかの工程を動かし続ける。手順の最適化は、どんな作業においても基本だ。
「俊作……」
キッチンに戻り、焦げ付いた鍋をスポンジで磨き上げていると、背後から声がした。
振り返ると、信子が玄関の入り口からこちらを覗き込んでいた。手には、冷たく冷えた麦茶の入ったグラスが二つ。グラスの表面にはびっしりと水滴がつき、氷がカランと涼しげな音を立てている。
「差し入れ、持ってきたわ。……その、ご苦労様」
「わざわざすみません。ありがとうございます」
手袋を外し、麦茶を受け取る。冷たい液体が、汗だくで火照った身体に染み渡った。
信子は、すっかり床が見えるようになったリビングを見渡し、目を丸くしていた。
「すごい……たった二時間で、こんなに……」
「あとは床の拭き掃除と、細かい部分の磨き上げですね。ゴミは今日の夜と明日の朝に出し切ります」
「本当に、手際がいいのね。……なんだか、私って本当にダメな女ね。自分の生活もまともに管理できないなんて」
彼女はグラスを持ったまま、少し自嘲気味に俯いた。
その横顔は、ただ自信をなくした等身大の女性のものだった。
「いいんですよ」
俺は空になったグラスを置き、彼女の頭にポンと手を乗せかけたが、自分の手が汚れていることに気づいて寸前で止めた。
「え?」
「……いや、汗だくだったんで。とにかく、得意な人が得意なことをやればいいんです。信子さんは稼ぐのが得意で、俺はこういう家事が得意。完璧な分業体制じゃないですか」
俺の言葉に、信子は目を瞬かせた後、小さく吹き出した。
「ふふっ。なにそれ。私を慰めてくれてるの?」
「事実を言ったまでですよ。さあ、ここは埃が舞うんで、部屋に戻っててください。あと一時間で仕上げます」
「……うん。わかったわ。待ってる」
信子は嬉しそうに頷き、俺の部屋へと戻っていった。
そこからの一時間は、文字通りの総仕上げだった。
フローリングワイパーで床の埃を取り、固く絞った雑巾で水拭きをする。窓ガラスを磨き、テーブルの上をアルコールで拭き上げる。
水垢の消えたシンクはステンレス本来の輝きを取り戻し、風呂場もカビ一つない清潔な空間になった。
全ての作業を終え、エアコンの効いていない部屋で一人、腰に手を当てて完成した空間を見回す。
「よし。完全制覇だ」
シャツは汗で肌に張り付き、疲労感はピークに達していたが、それ以上に強烈な達成感があった。
自分の部屋に戻ると、信子はソファでスマホをいじっていた。
「終わりましたよ。確認してもらえますか」
「本当!? 見る見る!」
信子は弾んだ声で立ち上がり、隣の自分の部屋へと駆け込んでいった。俺もその後を追う。
ドアを開けた瞬間、信子は言葉を失い、その場に立ち尽くした。
「これ……本当に私の部屋?」
散乱していたゴミは跡形もなく消え、大理石のテーブルが西日を反射して光っている。空気が淀んでいた空間は、清々しい風が通り抜ける清潔なマンションの一室へと変貌していた。
「大事な書類や貴重品らしきものは、あそこのデスクの上にまとめておきました。服も、とりあえずクローゼットに収納しています。細かい仕分けは後でお願いします」
「俊作……あなた、魔法使いなの?」
「ただの主夫ですよ。さ、俺は汗だくなんで、一回シャワー浴びさせてもらいます」
背を向けようとした瞬間、「あ、待って」と、信子が俺のシャツの裾をちょこんと摘んだ。
「ん?」
「その……管理会社に連絡したんだけど」
信子は少し言い淀みながら、上目遣いで俺を見た。
「エアコンの修理業者、お盆休みで混んでて、来れるの三日後になるって」
「……なるほど」
「あの、だから。その……」
信子はモジモジしながら、顔を真っ赤にして俯いた。
「あと三日は、俊作の部屋に、いさせて……ほしいなって。その……夜も、一緒に」
その言葉の意味を理解し、俺は小さく息を吐いた。
つまり、この絶世の美女との奇妙な同居生活は、あと数日は強制的に続くということだ。
「……月五十万の契約ですからね。もちろん、構いませんよ」
「本当っ!? やった!」
信子はパッと顔を輝かせ、勢いよく俺に抱きついてこようとした。
「ストップ! 今の俺は汗まみれなんで! 触らないでください!」
「えー! いいじゃない、冷やしてあげるから!」
「物理的に冷えても臭いは取れないんです! シャワー浴びてきます!」
押し迫ってくる冷たい美女から逃げるように、俺は自室のバスルームへと駆け込んだ。
シャワーを浴びながら、俺は頭からお湯をかぶりつつ、ふと笑みをこぼした。
会社を辞めて二日目。
先のことは全く見えないが、どうやら俺の無職生活は、想像していたよりもずっと騒がしく、そして悪くないものになりそうだ。
とりあえず、風呂上がりには彼女の胃袋を満たすために、とびきり美味しいものを作ってやろう。冷蔵庫には鶏肉と玉ねぎがあったはずだ。それをみじん切りにしてバターで炒め、ケチャップライスを作る。そして、絶妙な火加減で作った極上の半熟卵でそれを包み込み、特製のデミグラスソースをかければ、完璧なオムライスの完成だ。
あの「氷の女帝」が、湯気を立てるオムライスを前にどんなだらしない笑顔を見せるのか、今から少し楽しみだった。
そんなことを考えながら、俺はシャワーの温度を少しだけ上げた。




