第2話 氷の女帝からの提案
目覚まし時計の鳴らない朝というのは、六年ぶりだった。
遮光カーテンのわずかな隙間から差し込む朝日が、フローリングの床に細い金色の線を引いている。壁掛け時計に目をやると、時刻は午前七時を少し回ったところだった。
ブラック企業に勤めていた頃なら、すでに胃の痛みに耐えながら満員電車に揺られ、今日の理不尽なスケジュールや飛び交う怒号を頭の中でシミュレーションしている時間だ。しかし今の俺には、出社すべきオフィスも、理不尽に頭を下げるべき取引先もない。
「……本当に、辞めたんだな」
天井の木目に向かって小さく呟くと、じわじわと実感が湧いてきた。六年分の垢のように肩に乗っていた目に見えない重りが、すっと溶けて消えたような感覚だ。
ベッドからゆっくりと身を起こし、首や肩を回して筋を伸ばす。バキバキとくぐもった音が鳴った。三日連続の徹夜明けに倒れた身体はまだ鉛のように重いが、睡眠薬もアルコールもなしで五時間以上続けて眠れたのはいつ以来だろうか。
深く息を吸い込み、軽く伸びをしてから、リビングへと向かう。
そこで、自分の見慣れた殺風景な部屋が、昨日から少しだけ「非日常」に侵食されていることを思い出した。
ソファの上には、薄いタオルケットにくるまった人影があった。
昨日まで俺の直属の上司であり、「氷の女帝」と恐れられていた川口だ。
昨夜、俺が作った冷やしうどんを食べ終えた後、彼女は急激な安心感からか、そのままソファに丸くなって眠り込んでしまった。
ゴミ屋敷と化していた隣の三〇二号室は、命の危機に直面するほどの灼熱地獄だった。エアコンは完全に壊れており、雪女である彼女をあの中に放り出すわけにもいかなかった。結果として、退職初日の夜を、元上司と一つ屋根の下で過ごすことになったのだ。
タオルケットの隙間から、透き通るような白い肩が覗いている。
規則正しい寝息を立てる川口の顔は、会社で見せる常に張り詰めたそれとは別人のように幼く、無防備だった。銀色に近いプラチナブロンドの髪は乱れて頬にかかり、形の良い唇がわずかに開いている。
普段の彼女を知る社員がこの姿を見たら、腰を抜かすどころの騒ぎではないだろう。
起こすのは忍びない。俺は足音を忍ばせてキッチンへ向かった。
無職になったとはいえ、長年の習慣で朝食を作らなければどうにも落ち着かない。冷蔵庫を開け、中身を確認する。
卵、ネギ、使いかけのブロックベーコン、それと昨日スーパーで見切り品になっていた豆腐。調味料は一通り揃っている。
手早く米を研ぎ、炊飯器のスイッチを入れる。小鍋に水を張り、昆布と鰹節から出汁を引く。パックの顆粒出汁の手軽さも嫌いではないが、時間に余裕がある時はやはりきちんと出汁を取りたくなる。
沸き立った黄金色の出汁に豆腐とネギを散らし、味噌を溶き入れて味噌汁を仕立てる。次に、ボウルに卵を三つ割り入れ、白だしと少しの砂糖、そして隠し味にほんの少しの醤油を加えて滑らかになるまでかき混ぜる。
卵焼き器をコンロに乗せ、油を薄く引いて熱する。じゅうぶん温まったところに卵液の三分の一を流し込んだ。ジューッという小気味良い音がキッチンに響き、甘く香ばしい匂いが漂い始めた。
手首の返しだけで卵を巻き、空いたスペースに油を足して再び卵液を流す。その作業をリズミカルに繰り返し、ふっくらとした美しい黄色の出し巻き卵を形作っていく。
最後のひと巻きを終え、巻き簀で形を整えようとした時、ふと背中に視線を感じて振り返った。
「……おはようございます。起こしましたか?」
リビングのソファから、川口がひょっこりと顔を出していた。
タオルケットを胸元まで引き上げ、青みがかった瞳でこちらをじっと見つめている。寝起きのせいで少し焦点が合っていないのか、目をこする仕草は警戒心の薄い小動物のようだった。
「……いい匂い」
かすれた声で呟く川口に、俺は手元の卵焼き器を示した。
「だし巻き卵です。あと、ご飯と豆腐の味噌汁。和食でよかったですか。パンの方が良ければ買いに行きますけど」
「うんん。和食がいい」
こくりと頷く姿に、毒気というものが一切ない。
彼女が洗面所で顔を洗い、うがいをしている間に、食卓に向かい合って二人分の朝食を並べた。炊き立ての白いご飯、湯気の立つ豆腐の味噌汁、綺麗な黄色に焼き上がっただし巻き卵、それに大根おろしを少し添える。
洗面所から戻り、テーブルの向かい側に座った川口は、黒のキャミソール姿のまま、出された朝食を食い入るように見つめていた。
「いただきます」
小さく手を合わせ、彼女はまず味噌汁のお椀を両手で包み込むように持ち、一口すする。
その瞬間、ふにゃぁ、と。
昨夜うどんを食べた時と同じ、だらしなく緩んだ笑顔がその完璧な美貌に広がった。
「……おいしい。すごく、ホッとする味」
「それはよかったです。出汁はちゃんと引いてるんで、インスタントよりは腹に優しいはずですよ」
「五十嵐さん、お料理、本当に上手なのね。料亭みたい」
「親が共働きだったんで、小学生の頃から台所に立ってたんですよ。一人暮らし歴も長いですし、これくらいは息をするのと同じです」
大根おろしを乗せただし巻き卵を箸で切り分け、口に運ぶ彼女の表情は、見ているこちらまで満腹になりそうなほど幸せそうだった。
会社では、部下の些細なミスすら氷のような視線で射抜く「女帝」が、俺の作った原価数百円の朝食でここまで喜んでいる。三十二歳の男の自尊心と庇護欲を満たすには、十分すぎる反応だった。
あっという間にご飯をお代わりし、綺麗に平らげた彼女は、食後の冷たい麦茶を飲みながら心底満足そうに息をついた。
「ごちそうさまでした。……本当に、おいしかったわ」
「お粗末様です」
俺が空になった食器を重ね、片付けようと立ち上がった時だった。川口の表情が、ふっと「仕事モード」に近いものに切り替わった。
背筋を伸ばし、青みがかった瞳でまっすぐに俺を見据える。
「五十嵐さん。少し、真面目な話をしてもいいかしら」
「なんでしょう」
「あなたの、これからのことよ」
就職の斡旋だろうか、と俺は警戒しつつ席に座り直した。彼女なら他部署への根回しや、条件の良い取引先への紹介くらいは朝飯前だろう。
「当分は働きませんよ。貯金は少しありますし、とにかく今は何も考えずに休みたいんです。すり減った神経を元に戻すまでは」
「ええ、それは分かっているわ。あんな働き方をしていれば、いつか倒れるのは目に見えていたもの。私だって、営業部の惨状を放置していた上の連中には腹が立っていたのよ」
彼女の口から会社へのストレートな不満が出るとは思わなかった。しかし、次に彼女が口にした言葉は、さらに俺の予想の斜め上をいくものだった。
「だから、私に飼われない?」
「……はい?」
「五十嵐さん。私と契約しましょう」
川口は、会議室で大型コンペのプレゼンをする時のような、真剣で自信に満ちた表情を作った。
「月収五十万。もちろん手取りで。それに加えて、この部屋の家賃、光熱費、食費などの生活費はすべて私が負担するわ」
「ちょっと待ってください。飼うって、どういう……」
「業務内容は以下の通りよ。私の部屋の掃除、片付け、洗濯などの家事全般。そして、三度の食事の用意。出社日はお弁当も作ってほしいわ」
淀みなく条件を提示していた彼女はそこで言葉を区切り、少しだけ視線を逸らした。完璧に作り上げていたキャリアウーマンの表情に、ほんのわずかな亀裂が入る。
「……それと、私が家にいる時は、なるべく私のそばにいること」
「そばに?」
「私、雪女だから、どうしても体温の調節が下手なの。夏は暑くて溶けそうになるし、冬は寒すぎると周りを凍らせてしまう。あなたの体温、ちょうどいいのよ。高すぎず、低すぎず……ずっと触っていたいくらい」
最後の方は消え入るような声だったが、耳の先まで真っ赤に染まっているのを見れば、彼女がどれほど恥を忍んでこの提案をしているかが分かった。
つまり彼女は、生活能力が皆無である自分の面倒をすべて見てくれる「専業主夫」を月五十万で雇いたいということだ。
さらに言えば、都合の良い「湯たんぽ(あるいは冷却材)」として俺を物理的にそばに置いておきたい、と。
「……あの部屋、昨日の今日で直せるような状態じゃないでしょう? 私、業者を入れるのも嫌なの。自分のプライベートな空間を見られるのが」
「まあ、あの惨状を見せたら、間違いなく会社での氷の女帝のイメージは崩壊しますね」
「だから、あなたにお願いしたいの。秘密を知られたのはあなただけだし、あなたの作るご飯は……その、とても美味しいから。一生食べていたいって思ったのよ」
リビングに静かな沈黙が落ちる。
俺は腕を組み、頭の中で計算を回した。
月五十万の手取り。ブラック企業で連日徹夜し、身を粉にして働いていた時の倍近い金額だ。しかも生活費はすべて彼女持ち。
業務内容は家事全般。料理も掃除も、俺にとっては趣味の延長のようなものだ。ストレスは皆無に等しい。
そして「そばにいること」。これほどの絶世の美女からスキンシップを求められることを、苦痛だと感じる男がこの世にいるだろうか。
どう考えても、俺にとって都合が良すぎる条件だった。
「部長」
「な、なに。金額が不満なら、もう少し上げることもできるわよ。私、お金だけは使う暇がなかったから結構あるの」
「いえ、金額は十分すぎます。ただ、確認ですが」
俺は彼女の揺れる青い瞳を真っ直ぐに見返した。
「本当に俺でいいんですか? 俺は三十二歳の、ただのくたびれた無職の男ですよ」
「あなたがいいの」
川口の返答は、一切の迷いがなく、即答だった。
「あなたが作ってくれたうどんを食べた時、大げさじゃなく、生き返った気がしたの。私には、あなたが必要なのよ。だから……お願い」
最後は、上司としての高圧的な命令でも、エリートとしての理詰めの交渉でもなく。ただの一人の不器用な女性としての、切実な懇願だった。
その顔を見て、俺の心は完全に決まった。
長年の社畜生活で骨の髄まで染み付いた「頼られると断れない」という業の深さを内心で自嘲しつつ、俺は小さく息を吐いた。
「分かりました。その契約、受けましょう」
「本当っ!?」
「ええ。ただし、今日から俺のことは『五十嵐さん』じゃなくて『俊作』と呼んでください。あと、敬語もなしで。ヒモになる男が、飼い主に敬語を使われるのは座りが悪いですから」
「しゅん、さく……」
川口は俺の名前を、飴玉を転がすように口の中で何度か呟いた。
「わかったわ、俊作。私は信子でいいわよ。家では、部長って呼ばないで」
「了解です、信子さん」
信子はパッと花が咲いたような心からの笑顔を見せたかと思うと、ソファから立ち上がり、そのまま俺の首に腕を回して抱きついてきた。
「ちょっ、信子さん!?」
「んん……やっぱり、俊作の体温、すごく気持ちいい……」
キャミソール越しに伝わってくる信子の身体は、相変わらずひんやりと冷たくて、そして信じられないほど柔らかかった。
プラチナブロンドの髪から、微かに冷たい雪のような、澄んだ香りがする。
「あの、とりあえず離れてもらえますか。さっそく掃除の計画を立てたいんですけど」
「えー。もうちょっとだけ。ね?」
甘えた声で胸に顔をすり寄せてくる彼女を見て、俺は早くも頭を抱えたくなった。




