第1話 ブラック企業を辞めた日、隣室の「氷の女帝」が溶けかけていた
アスファルトが陽炎で歪む、八月の午後二時。
五十嵐俊作は、段ボール箱を一つ脇に抱えてマンションの薄暗い廊下を歩いていた。
額から流れ落ちる汗を拭う気力すらない。ジリジリと耳をつんざくセミの鳴き声が脳を揺らしているが、今の彼にとってはひたすらに現実感が希薄だった。
今日、会社を辞めた。
正確に言えば、三日連続の徹夜明けに給湯室で倒れ、病院の点滴室で目を覚ました後、そのまま直属の部長に退職届を叩きつけてきたのだ。
有給の消化だとか、後任への引き継ぎだとか、そんな社会人としての建前はどうでもよかった。三十代に突入してからというもの、営業と雑用を兼任させられる都合のいい中堅社員として、五十嵐はブラック企業の歯車を完璧にこなしすぎていた。心身の限界を超えていることに、文字通り物理的に倒れるまで気づかなかったのだ。
「終わったんだな」
自分の部屋である三〇一号室のドアノブに手をかけ、ぽつりと呟く。
六年勤めた会社だったが、持ち帰る私物はひどく少なく、この段ボール一つに収まってしまった。底知れない虚無感と、それとは裏腹に少しだけ鼻腔を抜けるような解放感が入り混じる。
鍵を開けようとしたその時、背後——隣の三〇二号室から、かすかな音が聞こえた。
「ぁ……」
最初は気のせいかと思った。しかし、耳を澄ますと確かに聞こえる。
苦しげな、押し殺したようなうめき声だ。
見れば、三〇二号室の重厚な鉄のドアが、ほんの数センチだけ開いている。そこから、妙に生ぬるい、いや、むわっとするような不快な熱気が廊下へと漏れ出していた。
鍵を差したまま立ち止まる。
隣人の顔は知らない。家賃の安さと壁の厚さだけで選んだこのマンションで、顔を合わせたことが一度もなかった。
普通なら関わらないのが正解だ。面倒事の匂いしかしない。
しかし。
「すいません、大丈夫ですか?」
長年の社畜生活で骨の髄まで染み付いた「誰かのトラブルを放置できない」という業が、足の向きを隣室へと変えさせていた。
返事はない。ただ、うめき声だけが微かに続く。
意を決して、ドアをゆっくりと押し開けた。
「失礼しま……うおっ」
玄関に足を踏み入れた瞬間、思わず声を漏らした。
ゴミだ。
コンビニ弁当の空き容器、飲みかけのペットボトル、丸められた衣服、解体されていない通販の段ボール。それらが地層のように積み重なり、足の踏み場もない。
そして何より、異常なほど暑い。サウナの中にいるような錯覚を覚えるほど、部屋の中の空気が淀み、重苦しい熱を持っていた。
「あつい……」
声はリビングから聞こえた。
散乱するゴミを避けながらリビングへと進む。そこも玄関に負けず劣らず酷い有様だったが、視線はゴミ山の中腹で倒れている人影に釘付けになった。
「え……」
倒れていたのは女性だった。
銀色に近い、透き通るようなプラチナブロンドの髪。
その髪色を知っている。いや、髪だけではない。その完璧な造形の横顔を、つい数時間前まで嫌というほど見ていた。
川口信子。
勤めていた会社の営業部長であり、二十六歳という若さでその地位に上り詰めた異例の存在。
仕事のミスは絶対に許さず、常に冷徹な判断を下す。誰もが畏怖を込めて「氷の女帝」と呼ぶ、つい先ほどまで直属の上司だった女性だ。
その川口がなぜ、こんな惨状のゴミ屋敷で倒れているのか。
疲労した脳が状況の処理に追いつかない。
「川口部長……?」
声をかけるが、川口は焦点の合わない目でぼんやりと天井を見つめている。
普段は隙のないタイトなスーツを身に纏っている彼女が、今は黒の薄いキャミソールとショートパンツという、およそ彼女らしくない無防備な格好だった。
しかし、本当に驚いたのはそこではない。
川口の身体が、透けていたのだ。
比喩ではない。汗に濡れた白い肌の輪郭が曖昧にブレて、まるで水滴に変わって空気中に溶け出していくかのような、物理的な異常事態。
「っ……熱中症か!」
考えるのをやめた。状況の不可解さよりも、目の前で命の危機に瀕している人間を優先する。
川口の側に膝をつき、肩を揺する。肌に触れた瞬間、ゾッとした。
極端に冷たい。いや、氷のように冷たいのに、恐ろしいほどの熱を発しているような、完全に矛盾した感覚だった。
「とける……いやだ……とけちゃう……」
「しっかりしてください! エアコンは……クソ、動いてないのか」
壁掛けのエアコンは完全に沈黙している。近くに落ちていたリモコンのボタンを叩いても反応がない。故障だ。
この灼熱の密室で、彼女は倒れたのだ。
立ち上がってキッチンのシンクへ向かう。水道の蛇口を捻るが、出てくるのは生ぬるい水だけだった。ふと、シンクの正面に備え付けられた小さな鏡に自分の顔が映った。少しウェーブのかかった髪は汗で額に張り付き、無精髭が伸び放題になっている。優しげだとよく言われたタレ目には、色濃い疲労の隈がはっきりと刻まれていた。三十代の、くたびれ果てた男の顔だ。
自嘲する間もなく冷蔵庫を開けたが、中には賞味期限の切れたドレッシングと、いつからあるのか分からないビールの空き缶しかなかった。
「使えねえ……!」
舌打ちをして、川口を見下ろした。
このままでは不味い。救急車を呼ぶべきか。いや、あの「透けている」身体を救急隊員に見せていいのか。そもそも、彼女は本当にただの人間なのか?
迷っている暇はなかった。
「部長、ちょっと失礼しますよ」
川口の身体を抱き上げた。見た目以上に軽く、そして冷たい。
そのまま彼女を抱えて散乱するゴミを踏み越え、自分の部屋である三〇一号室へと駆け込んだ。
自室に入り、エアコンのスイッチを最低温度の十六度、強風に設定する。
川口を清潔なソファに寝かせると、台所へ飛び込んだ。
冷凍庫から保冷剤をありったけ掴み出し、タオルで巻く。それを川口の首の付け根、両脇の下、そけい部にあてがった。太い血管が通っている場所を冷やすのは熱中症対策の基本だ。
さらに、冷蔵庫にあった経口補水液をグラスに注ぎ、彼女の口元へ運ぶ。
「川口部長。飲めますか。少しずつでいいんで」
呼びかけに反応し、川口がわずかに口を開いた。
慎重に液体を流し込む。彼女は何度かむせながらも、こくり、こくりと喉を鳴らしてそれを飲み込んだ。
五分、十分。
冷風が部屋を満たし、保冷剤が効果を発揮し始めると、川口の荒い呼吸が少しずつ落ち着いてきた。
何より、水滴のように透けかけていた肌が、元の陶器のような白さと質感を取り戻していた。
「……ここは」
やがて、川口がゆっくりと青みがかった瞳を開いた。
視界のピントが合い、目の前にいる無精髭を生やした男――五十嵐の姿を認識すると、彼女の目が大きく見開かれた。
「五十嵐、さん……? なぜ、あなたが」
「俺の部屋です。あなたの隣の。ドアが開いてて、倒れてるのが見えたんで運び込みました。エアコン、壊れてたみたいですね」
事もなげに言いながら、新しく絞った冷たいおしぼりを川口の額に乗せる。
川口はひどく混乱しているようだった。
周囲を見渡し、自分がキャミソール姿であること、そして五十嵐の部屋のソファで寝かされていることを理解すると、みるみるうちに耳の先まで赤く染まった。
「な……っ」
「熱中症です。あと一歩遅かったら危なかったですよ。というか、物理的に『溶けかけて』ましたけど」
あえて核心を突くと、川口の動きがピタリと止まった。
普段の「氷の女帝」としての威厳を取り繕おうとしているようだが、プラチナブロンドの髪は乱れ、服は汗で張り付き、保冷剤を大切そうに抱え込んでいる今の姿では、何の説得力もなかった。
「見られたのね」
「ええ、まあ」
「……私、雪女なの」
あまりにも唐突なカミングアウトだった。
しかし、不思議なほど心は凪いでいた。ブラック企業での理不尽な要求の数々や、連日の徹夜に比べれば、上司が妖怪だったという事実など、些細なことに思えた。
三十二歳の疲労しきった脳は、異常事態をあっさりと許容した。
「なるほど。だからあんなに部屋が冷えてないとダメなんですね。納得しました」
「それだけ? 驚かないの?」
「驚いてますよ。でも、命があってよかった。それに、部長が俺の隣に住んでたことの方が驚きです」
苦笑して見せると、川口は毒気を抜かれたように息を吐き、ソファに深く沈み込んだ。
「管理会社に電話しようとしたんだけど、スマホの充電が切れてて。暑さで力が入らなくなって、ドアを開けて助けを呼ぼうとしたところで、意識が飛んだわ」
「災難でしたね。とりあえず、体温は下がったみたいで安心しました」
そう言って保冷剤を回収しようとした時。
きゅるるる、と。
静かな部屋に、可愛らしい音が響いた。
川口が両手でお腹を押さえ、顔を伏せた。
わざと聞こえなかったふりをして、立ち上がる。
「部長、最後に何か食べたのはいつですか?」
「きのうの、お昼」
「あのゴミ屋敷じゃ、料理もしてないでしょう。何か作りますよ」
「いいわ。そんな、部下に……」
「俺、今日会社辞めたんで。もう部下じゃないですよ」
台所へ向かいながら言った。
背後で川口が小さく肩を跳ねさせる気配がしたが、構わず冷蔵庫を開ける。
中にあるのは、冷凍の讃岐うどん、卵、ネギ、それに常備している調味料くらいだ。
手際よく調理を始めた。幼い頃から両親が共働きだったため、冷蔵庫の残り物から食事を作るのは息をするのと同じくらい自然なことだった。
冷凍うどんをレンジで解凍している間に、小鍋で白だしと水を沸かし、氷を入れて急冷する。解凍されたうどんを冷水でしっかりと締め、器に盛る。
上から冷たい出汁をかけ、ごま油をひと回し。小ねぎを散らし、中央に卵黄を落とし、白ごまを指で捻りながら振りかける。
所要時間、わずか五分。
「はい、お待たせしました。冷やし出汁うどんです。消化にいいんで、胃もびっくりしないと思います」
ローテーブルに置かれた器から、ごま油と出汁の香りがふわりと漂う。
川口は起き上がり、信じられないものを見るような目でうどんを見つめた。
「これ、あなたが作ったの……?」
「ええ。たいしたものじゃないですけど。どうぞ、伸びないうちに」
箸を差し出すと、川口はおずおずとそれを受け取った。
卵黄を崩し、うどんに絡めてから、一口すする。
その瞬間。
「…………っ」
川口の目が大きく見開かれた。
そして、次の瞬間。
会社では絶対に、一度たりとも見せたことのない表情が、彼女の顔に浮かんだ。
目尻が下がり、口元がだらしなく緩む。完璧な造形の美貌が、「美味しい」という原始的な感情によって、あどけない子供のように崩れたのだ。
「おいしい……すごく、おいしい……」
呟く声は甘く、とろけるようだった。
川口は無言で、しかし恐ろしい勢いでうどんをすすり始めた。あっという間に器が空になり、冷たい出汁も最後の一滴まで飲み干した。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様です」
満足そうに息をつく川口を見て、心の底にあった淀みが少しだけ晴れるのを感じた。
自分が作ったもので、誰かがここまで無防備に喜んでくれる。それは、会社での無意味な資料作りや理不尽な謝罪行脚では決して得られない、確かな実感だった。
「ねえ、五十嵐さん」
川口が、空になった器を見つめながら口を開いた。
「会社、辞めたって言ったわね」
「はい。限界だったんで」
「これから、どうするの」
「さあ。貯金も少しはあるんで、しばらくはゆっくりしますよ。とりあえず、たっぷり寝たいですね」
伸びをしながら答えると、川口は少しだけ躊躇うような素振りを見せた後、五十嵐の服の裾を、指先で小さく摘んだ。
「私、何もできないの。見ての通り」
「まあ、あの部屋を見ればわかります」
「料理も、掃除も、洗濯も、できない。いつもコンビニのご飯ばっかりで……」
川口が顔を上げる。
そこにあったのは、氷の女帝ではなく、ただの一人の、不器用で寂しがり屋な女性の顔だった。
「明日も……ご飯、作ってくれる?」
上目遣いでそう尋ねる川口の姿に、思わず苦笑が漏れた。
「ええ、まあ。俺なら、時間だけは腐るほどありますから」
窓の外では、相変わらずセミが騒がしく鳴き続けている。
明日からどうなるのか、正直まだ何のビジョンもない。だが、空っぽになった胃袋を満たして幸せそうにしている隣人を見ていると、不思議と焦りはなかった。
無職と雪女。奇妙な隣人生活がどう転ぶかは分からないが、まあ、当分は退屈しなさそうだ。
五十嵐は空になった器を手に取り、ゆっくりと台所へ向かった。




