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過労で退職したら、隣に住む雪女上司に拾われてヒモになりました  作者: 伊達ジン


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10/15

第10話 初任給と四谷の夜

 黒田課長が自らの失態で自滅し、古巣のブラック企業からの干渉が完全に途絶えてから数日が過ぎた。


 八月も下旬に差し掛かろうとしているが、暴力的なまでの猛暑は一向に衰える気配を見せない。しかし、エアコンの設定温度が常に十六度で固定されている我が家においては、季節感などとうに消失していた。


「俊作、お給料、ちゃんと振り込まれてたかしら」


 昼下がり。極寒のリビングで、厚手のブランケットにくるまりながらタブレットを見ていた信子が、ふと思い出したように顔を上げた。足元では、すっかりこの冷気にも慣れた茶色い毛玉――モカが、彼女の冷たい足首を枕にしてスヤスヤと眠っている。


 俺はキッチンで夕食の仕込みをしていた手を止め、ポケットからスマートフォンを取り出した。ネットバンキングのアプリを開き、入出金明細を確認する。


 そこには、燦然と輝く数字が印字されていた。


 振込元:カワグチ ノブコ

 金額:500,000円


 俺が長年勤めていたブラック企業で、月に百時間近い残業をしてようやく手にしていた手取り額の、およそ倍近い金額だ。無職のヒモとして再出発した俺にとっての、最初の報酬だった。


「……ええ、確認しました。しかし、何度見ても現実味がありませんね。俺はただ、三度の飯を作って部屋の掃除をしているだけなんですが」

「何言ってるの。俊作の料理と家事のクオリティを考えたら、これでも安いくらいよ」


 信子は当然のように言い放ち、ブランケットから白い腕を伸ばしてモカの背中を撫でた。


「それに、美味しいご飯だけじゃないわ。俊作がそばにいてくれるだけで、私、すごく安心して眠れるんだから。……私の命と平穏を守るための、正当な対価よ」


 後半は少し照れ隠しのように早口になり、信子は視線をタブレットへと戻した。耳の先がほんのりと赤く染まっているのが、透き通るような肌のせいでよく分かる。


 俺はスマホをしまい、小さく息を吐いた。

 長年の社畜生活でひどく低く見積もっていた自分の価値を、彼女はこうして絶対的な肯定と共に引き上げてくれる。


「ありがとうございます。……それで、今日はこの初任給の使い道について、一つ提案があるんですが」

「提案?」

「ええ。いつも家で俺のご飯ばかり食べているので、たまには外で美味しいものでも食べに行きませんか。元々は信子さんからいただいたお給料で恐縮なんですが……今日は俺に夕食代を出させてください」


 俺の言葉に、信子はパッと顔を上げた。青みがかった瞳が、期待で大きく見開かれている。


「えっ……! 外食? 俊作と?」

「外はまだ暑いですけど、日が落ちてからタクシーでドア・ツー・ドアで向かえば、なんとか耐えられませんか。クーラーがしっかり効いた店を手配します」

「行くっ!」


 信子は被っていたブランケットを跳ね除け、弾かれたように立ち上がった。


「すぐ着替えてくる! 俊作のエスコートなら、外がサウナでも行くわ!」


 モカが「キャン?」と不思議そうに首を傾げるのを尻目に、信子は足音を立てて隣の自室へと駆け込んでいった。よほど嬉しかったのだろう。俺も少しだけ胸の奥が温かくなるのを感じながら、予約の電話を入れるためにスマホを手に取った。


★★★★★★★★★★★


 夕方六時。タクシーが停まったのは、四谷の荒木町付近だった。


 大通りから一歩路地に入ると、昔ながらの石畳や風情ある小料理屋が軒を連ねる、都会の喧騒から少し切り離されたような空間が広がっている。


 信子は、シックな黒のサマードレスを身に纏っていた。ノースリーブで肩のラインが露わになり、プラチナブロンドの髪が美しく映える。派手さを抑えた装いだからこそ、彼女の持つ圧倒的な華やかさと色気が嫌でも際立っていた。タクシーを降りて数歩歩くだけで、すれ違うサラリーマンたちが思わず振り返るのが分かる。


「あっつい……。俊作、早く涼しいところへ……」

「もう少しです。ほら、あそこですよ」


 俺は信子の背中に手を添え、目的の店へと急いだ。


 白木の引き戸を開け、暖簾をくぐる。そこは、カウンターと小さな個室がいくつかあるだけの、こぢんまりとした鮨屋だ。


「いらっしゃい。……おお、五十嵐さん! 久しぶりだねえ!」


 カウンターの奥から、ねじり鉢巻をした恰幅の良い大将が声を張り上げた。


「ご無沙汰してます、大将。今日は個室、空けてもらってすみません」

「気にすんなって。会社辞めたって聞いて心配してたけど、元気そうで何よりだよ。……それにしても」


 大将の視線が、俺の隣に立つ信子へと移った。百戦錬磨の職人である彼も、信子の放つオーラに一瞬だけ目を奪われたようだった。


「今日はまた、随分と綺麗な……奥さん?」

「いえ、俺の新しい雇用主です」


 俺が淡々と答えると、大将は「ははっ、相変わらず冗談が上手いね」と豪快に笑った。信子は少しだけ頬を染めながら、「こんばんは」と上品に頭を下げた。


 通された個室は、俺の事前のお願い通り、冷房がガンガンに効いていた。信子は席に座るなり「はぁ……生き返るわ」と小さく吐息を漏らし、俺の隣にぴったりとすり寄ってきた。


「さて、まずは乾杯しましょうか。生ビールでいいですか?」

「うん、お願い」


 冷えたジョッキに注がれた生ビールで、グラスを合わせる。きめ細かい泡と麦の香りが、夏の渇いた喉に染み渡っていく。


 ここから先は、大将のお任せだ。

 まずは酒のつまみが次々と運ばれてくる。


 じっくりと煮込まれて驚くほど柔らかくなったタコの桜煮。ねっとりとした旨味が引き出された真鯛の昆布締め。そして、肝のソースが添えられたアワビの酒蒸し。


「んんっ……!」


 アワビを口に運んだ瞬間、信子の目尻がとろけるように下がった。会社で見せる「氷の女帝」の面影はそこには一切なく、ただ美味しいものに屈服した無防備な女性の顔がある。


「肝のソースがすごく濃厚……。ビールが進んじゃうわ」

「気に入ってもらえてよかったです。ここは昔、営業の接待や、どうしても行き詰まった時の自分へのご褒美で使っていたんです。大将の腕は確かですよ」


 つまみが一段落したところで、飲み物を日本酒に切り替える。キリッと冷えた辛口の純米吟醸を、竹の徳利から注ぎ合う。


「信子さん、お酒は大丈夫ですか? 酔いが回ると体温が上がりますよ」

「平気よ。雪女だから、アルコールで少し体が火照るくらいが、ちょうどいい暖房代わりになるの。……それに、俊作が隣にいるし」


 そう言って、テーブルの下で俺の太ももに冷たい指先を這わせてくる。俺は内心で動揺を抑え込みながら、涼しい顔で日本酒を煽った。


 そして、メインの鮨が始まる。


 包丁の細かい細工が施されたアオリイカから始まり、美しいグラデーションを描く中トロ、酢締めの塩梅が絶妙なコハダ。さらに、濃厚な甘みが口いっぱいに広がる車海老、海苔を使わずに握られたバフンウニ、そして口の中でフワッと溶ける煮穴子。


 多数の鮨がテンポ良く運ばれてくるが、信子の胃袋は底なしだった。俺の作った料理を食べる時もそうだが、彼女のエネルギー消費量はどうなっているのか、出されたものを次々と、そして心底幸せそうに平らげていく。


 俺は途中で飲み物を芋焼酎のロックに切り替え、氷がグラスに当たる涼しげな音と共に、久々の美酒と極上の鮨を自分のペースで堪能した。


 一通りの握りが終わり、熱いお茶が出される。


「ふう……もうお腹いっぱい。こんなに美味しいお鮨、初めて食べたかもしれないわ」


 信子が満足そうにお腹を押さえていると、襖が開き、大将が小鉢を二つ運んできた。


「はいよ。五十嵐さんに頼まれてたやつ」

「大将、無理言ってすみません」


 俺が小鉢を信子の前に置くと、彼女は不思議そうに中を覗き込んだ。


「これ……」

「デザートです。大将にお願いして、アイスクリームを二種類用意してもらったんですよ。バニラと、濃いめの抹茶です」

「あっ!」


 信子の顔が、今日一番の輝きを見せた。雪女の彼女にとって、どれだけお腹がいっぱいでも、冷たいアイスクリームは別腹中の別腹なのだ。


「俊作、最高! 大将さんもありがとうございます!」


 小さなスプーンを手に取り、嬉々としてアイスクリームをすくう信子を見つめながら、俺は焼酎の残りを飲み干した。彼女が喜ぶ顔を見るのが、今の俺にとっては何よりの酒のつまみだった。


★★★★★★★★★★★


 鮨屋を出ると、夜の四谷の街は少しだけ暑さが和らいでいた。


「ああ、美味しかった。なんだか身体の芯から満たされた気分だわ」


 満足そうに、嬉しげな足取りで俺の隣を歩く信子をリードしながら、俺はあらかじめ決めていた次の目的地へと歩を進めた。


「信子さん、実はもう一軒、寄りたい店があるんですが。いいですか?」

「もちろん。今日は俊作のエスコートに全部お任せするって決めたんだから」


 鮨屋から数分歩き、少し開けた通りに出る。そこにあったのは、赤と黄色の装飾が目を引く、こぢんまりとしたスペイン・レストランだった。ドアの隙間からは、陽気なラテン音楽と、微かにガーリックの香りが漏れ聞こえてくる。


 ドアを開けると、恰幅の良いスペイン人のオーナーが「オラ!」と満面の笑みで迎えてくれた。


 カウンターの隅に腰を下ろし、俺はオーナーにメニューを見ることなく注文を告げた。


「オロホをストレートで一つ。それから、カフェ・コン・レッチェを一つお願いします」

「オロホって何?」


 不思議そうに首を傾げる信子に、俺は説明する。


「スペインの蒸留酒です。ワインの絞りかすから作る食後酒で、アルコール度数は四十度以上あるんですが……脂の乗った鮨の後に飲むと、胃の中をスッキリと洗い流してくれるんですよ。信子さんには、スペイン風のカフェオレです」


 やがて、俺の前には透明な液体が注がれた小さなショットグラスが、信子の前には泡立った温かいカフェ・コン・レッチェが置かれた。


 信子はカップを両手で持ち、少しだけフーフーと息を吹きかけて冷ましてから、一口飲んだ。


「ん……美味しい。スペインレストランで食後のコーヒーなんて、なんだかお洒落ね」


 俺はオロホを口に含む。喉を焼くような強烈なアルコールの刺激の後に、葡萄の豊かな香りが鼻腔を抜けていく。確かに、鮨と日本酒で満たされた胃がリセットされるような感覚があった。


「信子さん」


 俺はグラスを置き、ポケットに入れていた小さな箱を取り出した。


「これ、受け取ってください」

「え……?」


 テーブルの上に置かれた箱を見て、信子は目を丸くした。


「開けてみてください」


 促されるまま、信子はおずおずと箱の蓋を開けた。


 中に入っていたのは、濃い青色のガラス玉があしらわれた、涼しげなヘアゴムだった。繊細なカットが施されたガラス細工は、店内の間接照明を反射してキラキラと光っている。


「初任給のプレゼントです。……まあ、これも元を正せば信子さんのお金なんですけどね」


 俺は少し照れくささを感じながら、言葉を続けた。


「いつも俺を拾ってくれて、頼ってくれて、ありがとうございますっていう気持ちです。家でくつろぐ時にでも、髪をまとめるのに使えればと思って。そのガラスの色、信子さんの瞳の色と同じだなって思ったので」


 信子は箱の中のガラス玉をじっと見つめたまま、動かなくなった。


 やがて、彼女の青みがかった瞳の縁に、じんわりと涙が浮かび上がってきた。


「俊作……」

「……すみません。もしかして、あんまり趣味じゃなかったですか?」

「ううん、違うの。違う」


 信子は首を横に振り、箱からヘアゴムを取り出すと、それを両手で包み込むようにして大切に胸に抱きしめた。


「すっごく、嬉しい……」


 ポロリと、一つだけ涙がこぼれ落ちる。それは、冷たい雪女の涙とは思えないほど、温かな感情に満ちていた。


「……こんなの、ずるいわ。一生大事にしたくなっちゃうじゃない……バカ」


 少し鼻声になった彼女は、涙をごまかすように笑った。


 俺も釣られて笑い、残っていたオロホを一気に飲み干した。強いアルコールが、胸の奥の照れくささを溶かしていくようだった。


★★★★★★★★★★★


 帰りのタクシーの中。


 信子は早速、もらったばかりの青いガラス玉のヘアゴムで、プラチナブロンドの髪を緩く後ろでまとめていた。


「似合ってますよ」

「本当? えへへ……」


 タクシーの冷房の中で、信子はごく自然な動作で俺の左腕に両腕を絡ませ、身を預けてきた。彼女の冷たい体温と、俺の三十六度の体温が混ざり合う。それはもう、俺たちにとって一番落ち着く定位置になっていた。


 マンションのドアを開けると、十六度の極寒の空気が俺たちを出迎えた。


「キャン!」


 サークルの中から、モカが短い尻尾をちぎれんばかりに振って歓迎してくれる。


「ただいま、モカ。お留守番えらかったわね」


 信子はヒールを脱ぎ捨ててリビングへ向かい、モカを抱き上げた。


 その背中を見つめながら、俺は小さく息を吐いた。


 世間一般から見れば、俺の生活はただの異端かもしれない。だが、モカを抱き上げ、髪に飾られた青いガラス玉を愛おしそうに撫でる彼女の背中を見つめていると、冷気で満ちたこの部屋こそが、俺の帰るべき唯一の場所なのだと確信できた。

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