第11話 冷たくて甘い夜の密着
俺が初任給の記念に贈った青いガラス玉のヘアゴムを、信子はよほど気に入ってくれたらしかった。
朝、十六度に冷え切ったリビングに起きてくる時も。
俺の作った朝食の和定食を、だらしなく目尻を下げて頬張る時も。
ソファで茶色い毛玉のようなモカを抱きかかえながら、タブレットで海外ドラマを見ている時も。
彼女の透き通るようなプラチナブロンドの髪は、常にその青いガラス玉によって緩く後ろにまとめられていた。蛍光灯の光を反射してキラキラと光るその小さな青色は、彼女の青みがかった瞳の色と実によく似合っている。
「信子さん、そんなに毎日使ってると、ゴムが伸びちゃいますよ」
金曜日の午後。キッチンで夕食の下ごしらえをしながら俺が指摘すると、ソファでくつろいでいた信子は、髪をまとめているガラス玉にそっと触れた。
まな板の上では、色鮮やかな夏野菜を均等な大きさに切り揃えている。オクラを等間隔に刻み、隣のコンロでは出汁を張った小鍋で豆腐とワカメの味噌汁が静かに湯気を立てている。月給五十万で雇われた専業主夫としての俺の日常は、こうした穏やかな家事の反復で構成されていた。
「いいの。もしゴムが切れたら、俊作に直してもらうから」
「俺はアクセサリー職人じゃありませんよ」
「でも、直せるでしょ?」
「まあ、百均で替えのゴムを買ってくれば、それくらいは」
「ほらね。だからずっとつけてるの」
ふにゃりと笑う信子の顔には、会社で『氷の女帝』として君臨していた頃の威厳など微塵も残っていない。ただの、少しわがままで甘えん坊な二十六歳の女性だ。
俺は苦笑して首を振り、まな板の上の作業に戻った。
「そういえば、俊作」
信子がソファから身を乗り出し、キッチンのカウンターに肘をついた。黒のキャミソールから伸びる白い腕が、冷たい大理石の天板に押し付けられている。
「はい。なんでしょうか」
「明日の夜って、空いてる?」
「俺は毎日空いてますよ。月給五十万で雇われている専業主夫ですからね。何か特別な予定でも入れたいんですか」
俺の言葉に、信子は少しだけ得意げに胸を張った。
「この前の四谷の夜、すごく楽しかったから。明日は、私がお返しに俊作をエスコートしてあげる」
「エスコート、ですか。俺は別に、外食がしたいわけじゃないですよ。家で食べるのが一番落ち着きますし」
「ご飯じゃないわ。……少し、私に付き合ってほしいの」
少しだけ声のトーンを落とし、信子が上目遣いでこちらを見た。青みがかった瞳が、かすかな緊張と期待で揺れている。普段の彼女なら強気に言い切るところだが、今はどこか探るような、俺の反応をうかがうような気配があった。
言葉の裏に込められた特別なニュアンスを感じ取り、俺は少しだけ姿勢を正した。
「……喜んで。行き先は?」
「品川の水族館。あそこなら、夜遅くまでやってるし、館内は冷房がしっかり効いてるから、私でも大丈夫でしょ? 駐車場から入り口までもすぐだし」
確かに、今の時期の日中に外出するのは、雪女である彼女にとっては自殺行為だ。日が落ちてからの水族館なら、直射日光もなく、快適な温度が保たれている。よく考えられたプランだった。
何より、彼女が自分のためにそこまで考えて提案してくれたという事実が、素直に嬉しかった。
「分かりました。明日の夜ですね。楽しみにしています」
俺が微笑んで答えると、信子はパッと顔を輝かせ、「やった!」と子供のように両手を上げて喜んだ。足元で寝ていたモカが、何事かと首を傾げて「キャン?」と小さく鳴いた。
★★★★★★★★★★★
翌日の土曜日、午後七時。
マンションのエントランス前に手配したタクシーに乗り込むと、信子は「はぁ……」と安堵の息を吐いた。
「夜になっても、やっぱり外は暑いわね……。アスファルトの熱がまだ残ってるみたい」
「今日は特に熱帯夜みたいですからね。タクシーの冷房、強めてもらいましょうか」
「ううん、大丈夫。俊作にくっついていれば冷えるから」
信子はごく自然な動作で、俺の左腕に両腕を絡ませてきた。
今日の彼女は、薄いシフォン素材の黒いブラウスに、アイボリーのロングスカートという、大人びたシックな装いだった。耳元には小ぶりなシルバーのピアスが光り、プラチナブロンドの髪は例の青いガラス玉のヘアゴムでハーフアップにまとめられている。歩くたびにふわりと揺れるスカートが、涼しげでありながら彼女の洗練されたプロポーションを際立たせていた。
窓の外では、東京の夜景が次々と後ろへ流れていく。タクシーの冷房と、信子から伝わってくる雪のような冷たい体温。ほのかに香るフローラル系の香水が密閉された車内に漂い、俺は静かに息を吸い込んで心拍数を落ち着かせた。
隣に絶世の美女が密着している状況は、何度経験しても完全に慣れるということはない。三十二歳の男として、平静を装うスキルだけが日々磨かれているような気がする。
品川の水族館に到着すると、館内は家族連れよりもカップルの姿が目立った。
薄暗い照明の中、巨大な水槽から放たれる青い光が、幻想的な空間を作り出している。空調はしっかりと効いており、肌寒いほどだが、信子も快適そうに周囲を見渡していた。
「わぁ……綺麗」
巨大なトンネル型の水槽を見上げ、信子が歓声を上げる。
頭上をエイやマンタが悠々と泳ぎ去り、無数の小さな魚たちが銀色の群れを作って渦を巻いている。照明は海中の深さを表現するように青く落とされ、水底を模した岩肌にはイソギンチャクが静かに揺れていた。水槽の青い光を浴びた信子の横顔は、まるで彼女自身が水の中から現れた精霊のように美しく、俺は思わず足を止めて見入ってしまった。
「俊作? どうしたの?」
「いや。……魚より、信子さんの方が綺麗だなと思って」
思ったことがそのまま口に出てしまった。長年の社畜生活で染み付いた建前も、この幻想的な空間ではうまく機能しないらしい。
信子は一瞬きょとんとした後、みるみるうちに頬を上気させて、慌てて視線を逸らした。
「ば、ばか……っ。急に何言ってるのよ。からかわないで」
「からかってませんよ。本当のことですから」
「もうっ……ほら、次行くわよ!」
信子は誤魔化すように俺の手首を掴み、ずんずんと前を歩き出した。少し早足になったその後ろ姿を見つめながら、俺は小さく笑みをこぼして後を追った。
クラゲの展示エリアは、さらに照明が落とされ、円柱型の水槽がいくつも並んでいた。
暗闇の中に浮かび上がるように、様々な色のライトに照らされたクラゲたちが、宇宙空間を漂うようにゆっくりと浮き沈みを繰り返している。青、紫、そして淡いピンク。変幻自在に色を変えるミズクラゲの群れは、時間を忘れさせるような神秘的な美しさがあった。静かで、時間の流れが遅くなったような錯覚を覚える空間だ。
信子は一つの水槽の前に立ち止まり、青い光に照らされたミズクラゲをじっと見つめていた。
「……私ね」
ぽつりと、信子が口を開いた。
「昔から、こういう場所に来るのが少し怖かったの」
「怖い? 水族館がですか?」
「うん。……水族館に限らず、人がたくさん集まる場所が」
信子は水槽から視線を外し、自分の白い手のひらを見つめた。
「私、体温が普通じゃないでしょ。誰かとぶつかったり、手が触れたりした時に、『冷たっ!』って驚かれるのが、すごく嫌だったの。自分が周りの人間とは違う『異質』なものだって、突きつけられるみたいで」
青い照明のせいか、彼女の顔はひどく寂しそうに見えた。
「だから、会社でも誰とも触れ合わないように、わざと冷たくて厳しい『氷の女帝』を演じてたのかもしれない。私が誰かを傷つけたり、不気味に思われたりしないように……って。誰も私に近づかないように壁を作って、仕事に打ち込んで、完璧な自分を演じることでしか、自分の居場所を守れなかったから」
彼女がこれまで抱えてきた孤独の深さが、その静かな声から伝わってきた。
完璧なキャリアウーマンとして武装し、他者を寄せ付けず、ゴミ屋敷のようになった部屋で一人、熱中症で溶けかけていた彼女。その裏側にあったのは、雪女という種族に生まれたことによる、どうしようもない疎外感だったのだ。
「……信子さん」
俺は一歩近づき、彼女の隣に並んだ。
そして、彼女の冷たい右手を、自分の左手でそっと包み込んだ。
「あっ……」
信子が小さく息を呑み、俺の顔を見上げた。
「冷たいですか?」
俺が尋ねると、信子は首を横に振った。
「ううん。俊作の手……すごく、温かい」
「俺の体温は三十六度ありますからね。信子さんにとっては、ちょうどいい暖房でしょうし、俺にとっては、真夏の夜の最高の冷却材です」
俺は彼女の手をしっかりと握り、少しだけ力を込めた。
「信子さんの冷たさは、俺には心地いいですよ。不気味だなんて、一度も思ったことはありません。だから……そんな風に、自分を異質だなんて思わないでください」
信子は目を丸くして俺を見つめ、やがて、その青みがかった瞳の縁に、じわりと涙を浮かべた。
「……俊作は、ずるい」
「え?」
「そういうこと、平気な顔して言うんだから。……私のこと、ただの雇い主だと思ってるくせに」
信子は少しだけ拗ねたように唇を尖らせたが、繋いだ手を振り払うことはしなかった。むしろ、俺の指の間に自分の指を絡ませ、しっかりと握り返してきた。
雪のように冷たい指先から、不器用で真っ直ぐな感情が伝わってくるようだった。
「……行きましょうか。まだ見てないエリアがたくさんありますよ」
「うん」
俺たちは手を繋いだまま、青い光に満ちた水族館を歩き続けた。
他人の目など気にならなかった。ただ、隣を歩く彼女の冷たい手の感触だけが、世界の何よりも確かなものに感じられた。
★★★★★★★★★★★
タクシーでマンションに戻り、玄関のドアを開けると、設定温度十六度の強風が俺たちを出迎えた。
「キャン!」
サークルの中から、モカが短い尻尾をちぎれんばかりに振って歓迎してくれる。
「ただいま、モカ。お利口にしてた?」
信子はヒールを脱ぎ捨ててリビングへ向かい、モカを抱き上げた。モカは短い尻尾を振りながら、信子の冷たい頬をペロペロと舐めている。
俺は洗面所で手を洗い、キッチンに向かって冷たい麦茶を二つのグラスに注いだ。氷がグラスにぶつかり、カランと涼しげな音を立てる。
「信子さん、麦茶です」
「ありがとう。……はぁ、やっぱり自分の部屋が一番落ち着くわね」
信子はモカをソファに下ろし、グラスを受け取って一口飲んだ。
外の暑さと水族館での緊張感から解放されたのか、彼女の顔にはいつもの無防備な柔らかさが戻っていた。グラスの表面についた水滴が、彼女の白い指先を濡らしている。
「楽しかったですね、水族館」
俺もグラスに口をつけながら言うと、信子は嬉しそうに頷いた。
「うん。……俊作と一緒だったから、全然怖くなかった。手を繋いでくれたから」
最後の一言は、聞き取れないほど小さな声だった。
信子は空になったグラスをローテーブルに置き、ソファの端に座った俺のすぐ隣に、身を寄せてきた。
そして、俺の右肩に、こてんと頭を乗せる。
「信子さん?」
「……今日はね」
信子は俺のシャツの袖口をきゅっと掴み、ぽつりと呟いた。
「今日は、溶けそうだから中和するわけじゃないの」
「……じゃあ、どうしてですか」
「ただ、俊作にくっついていたいだけ。……だめ?」
上目遣いで見つめてくる彼女の瞳には、いつものような強引な言い訳も、子供のようなわがままもない。
ただ、一人の女性としての、静かで切実な好意があった。
俺は小さく息を吐き、右腕の力を抜いて、彼女の体重を受け入れた。
「……だめじゃありませんよ。俺の心拍数が保つ限りは」
「ふふっ。俊作、大げさ」
信子は嬉しそうにふにゃりと微笑み、俺の肩にさらに深く顔を埋めた。
ブラウス越しに伝わってくる彼女の体温は、相変わらずひんやりとしていて冷たい。
だが、腕の中から伝わってくるその存在は、不思議なほどに熱を帯びていて、俺の胸の奥を甘く焦がしていくようだった。
エアコンの駆動音と、足元で丸くなって眠るモカの寝息。
そして、隣から聞こえる、信子の規則正しい呼吸の音。
距離が縮まった夜。ただの「雇用主とヒモ」という関係から、ほんの少しだけ、踏み込んではいけない領域に足を踏み入れてしまったような気がした。
だが、後悔はなかった。
俺は空いている左手を伸ばし、青いガラス玉でまとめられた彼女のプラチナブロンドの髪を、そっと撫でた。
「……おやすみなさい、信子さん」
返事はなかった。
すでに彼女は、俺の腕の中で安心しきったように、深い眠りに落ちていた。
その安らかな寝顔を見つめながら、俺は、この冷たくて甘い夜が、ずっと続けばいいと心から願っていた。




