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過労で退職したら、隣に住む雪女上司に拾われてヒモになりました  作者: 伊達ジン


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第12話 ひだまりと見えない隣人

 水族館での特別な時間を経てから、数日が過ぎた。


 あの夜を境界線として、信子との距離は確実に一歩、内側へと踏み込んだような感覚があった。目に見える変化として、彼女は俺が初任給のプレゼントとして贈った青いガラス玉のヘアゴムを、家にいる時も外出する時も、片時も離さず身につけてくれている。つややかなプラチナブロンドの髪にきらりと光るその涼しげな青色は、彼女の瞳の色とよく似合っていて、視線を向けるたびに俺の胸の奥を少しだけくすぐったくさせた。


 休日の朝。目覚まし時計の無機質なアラームに追われることのない、穏やかな目覚めだった。


 設定温度16度の強風が絶え間なく吹き荒れるリビングへ足を踏み入れると、すでに信子がソファで小さく丸くなっていた。彼女の冷え切った足元では、茶色い毛玉――モカが気持ちよさそうに身を丸め、彼女の足首に寄り添って静かな寝息を立てていた。


「おはようございます、信子さん」

「ん……おはよう、俊作」


 薄く目を開けた信子は、相変わらず黒のキャミソールとショートパンツという無防備な装いだ。しかし、その髪だけはあの青いガラス玉で丁寧にまとめられている。


「朝食、すぐに準備しますね。今日は新鮮なアジの開きがありますけど、和食の献立でよろしいですか」

「食べる! 俊作のお味噌汁、すごく美味しいから飲みたい」


 ぱっと表情を明るくさせた彼女を残し、俺はキッチンへと向かった。


 長年の自炊生活で身についた手際で、小鍋に張った水へ昆布と鰹節を投入し、丁寧に豊かな出汁を引いていく。大根をいちょう切りにし、油揚げを細切りにして鍋にくわえ、柔らかくなったところで創業百年の老舗味噌をゆるりと溶き入れる。隣のコンロでは、魚焼きグリルの網にあらかじめ薄く油を塗り、脂の乗ったアジの開きをじっくりと焼き上げていく。皮目がパリッと香ばしく爆ぜ、ジュワジュワと脂が滴る良い音が立ち上った。大根おろしをたっぷりとすりおろし、軽く水分を切ってから少しだけ醤油を垂らす。さらに、小鉢に盛り付けた納豆に刻みネギと新鮮な卵黄を混ぜ合わせれば、完璧な和の朝食の完成だ。


「お待たせいたしました」


 お盆に載せて食卓へ運ぶと、信子は「いただきます」と嬉しそうに手を合わせ、まっ先にアジの開きへと箸を伸ばした。


 焼き立ての白身をすくい取り、大根おろしとともに口へと運ぶ。その瞬間、会社では「氷の女帝」として恐れられている完璧な美貌が、なんとも幸せそうに和らいだ。


「んん……美味しい! お魚の脂の旨味と、大根おろしのさっぱりした風味がすごく合ってる……!」

「小骨には気をつけて召し上がってくださいね」

「うん」


 かつて職場を凍りつかせていた厳格な上司が、こうして自分の作った素朴な料理一つで無邪気に表情を綻ばせてくれる。破格の待遇を考慮したとしても、この心からの反応を見られるだけで、プロの主夫としての俺の自尊心は十分に満たされていた。


 食後、丁寧に豆を挽いて淹れた深煎りコーヒーを出し、ソファに並んで腰を下ろす。


 モカが「くぅん」と可愛らしい声を漏らしながら、俺のスリッパの先につんと鼻を寄せ、じゃれついてきた。その愛くるしい様子を和やかに眺めていると、信子がそっと身を寄せてきた。


「ねえ、俊作」

「はい、なんでしょうか」

「今日、午後からお出かけしない? ……少し、あなたと出かけたいの」

「お出かけ、ですか」

「うん。モカも一緒に連れて行ける場所がいいわ。外は日差しが強いから、涼しくて、冷たくて美味しい飲み物があるようなカフェ……どこか知らないかしら」


 上目遣いで覗き込んでくる青みがかった瞳。あの水族館でのひとときがよほど楽しかったのだろう。俺はポケットからスマートフォンを取り出し、近隣のエリア情報を手早く検索した。


「タクシーでワンメーターほどの距離に、ペット同伴可能で、店内の冷房設備もしっかりしたテラス付きカフェがありますね。そこなら信子さんでも快適に過ごせると思います」

「そこに行きたい! すぐ準備するわね」


 信子はコーヒーを飲み干すと、軽やかな足取りで自室へと着替えに向かった。


 午後三時。西日が少しずつ傾き始めた頃。


 部屋から出てきた信子は、清涼感のある真っ白なサマードレスを身に纏っていた。上品でありながら、彼女のしなやかな身のこなしを引き立てる上質なシルク生地。プラチナブロンドの髪には、当然のように青いガラス玉が留められている。


「どうかしら……変じゃない?」

「いえ、とても綺麗です。よくお似合いですよ」


 素直な称賛を口にすると、信子は「ふふ」と満足そうに微笑み、モカの入ったキャリーバッグを優しく覗き込んだ。


「モカ、初めてのお出かけね。良い子にしていてね」


 玄関のドアを開け、外の廊下へと足を踏み出す。夏の盛り特有のまとわりつくような湿った熱気が押し寄せると、信子は小さく「うぅ……」と眉をひそめ、俺のシャツの袖口をきゅっと掴んで、ぴったりと身を寄せてきた。


「やっぱり外は暑いわね……俊作、冷やして」

「俺の体温は平均的な36度ほどありますけれどね」

「外の生暖かい空気よりは、ずっと心地いいの」


 すっかりお馴染みとなった会話を交わしながら、内廊下を進んでエレベーターホールを目指す。


 到着を告げる澄んだ電子音が響き、最上階から降りてきたエレベーターの扉が滑らかに開いた。


 箱の中には誰も乗っていなかった。しかし、一歩足を踏み入れた瞬間、むせ返るような濃密な香りが空気を満たしていることに気づいた。


 甘く、どこか退廃的で、官能的な外国製の上質な香水の余韻。


「……随分と華やかな香りが残っていますね」


 俺が呟くと、信子は鼻の頭にシワを寄せ、パタパタと手で空気を払うような仕草を見せた。


「最上階に住んでいるアメリカ人よ。エレベーターで顔を合わせるたびに妙に色目を使いつつ、マウントを取ってくるというか……とにかく、あまり関わりたくないタイプね」

「そうなんですか」

「ええ。匂いだけでもクラクラしちゃうわ」


 不満げに小さく息を吐く信子。俺はその強烈な残り香を感じつつ、一階のボタンを押した。最上階のペントハウスに住む住人というのも、なかなかに個性が強そうだ。


 エントランスホールへ降り立つと、今度はフロント付近で別の光景に行き当たった。


 管理人の男性が、大型の台車を押してゴミ集積場から出てくるところだった。その台車の上には、透過性の高い大きなゴミ袋がうずたかく積まれており、中には空になった高級ワインのボトルや一升瓶が、隙間なく詰め込まれている。台車が揺れるたびに、重厚なガラス瓶同士が重なり合って甲高い音を奏でていた。


「すごい酒量ですね。どこかの飲食店でも入っているのでしょうか」


 疑問を口にすると、信子は呆れたように肩をすくめて溜息をついた。


「あーあ。夏見のやつ、またこんなに飲んで……」

「夏見さん、ですか?」

「私の昔からの親友よ。近くでフリーランスのデザイナーをやっているんだけど、暇さえあればこのマンションに来ては飲むの。酒豪なんてレベルじゃなくて、底なし沼みたいに飲むのよ。……近いうちにうちにも押しかけてくるかもしれないから、その時は俊作の手料理でおもてなししてあげてね」

「承知しました。お酒に合うおつまみの献立も考案しておきます」


 苦笑しながら答える。


 甘く妖艶な香水を漂わせる謎のアメリカ人に、一升瓶の山を作り出す酒豪の親友。このハイグレードマンションには、どうやら一筋縄ではいかない住人たちが集まっているらしい。


 もっとも、俺のすぐ隣でシャツの袖を掴んでいるこの絶世の美女自体が「雪女」なのだから、周囲にどんな人物が住んでいようと、今さら驚くようなことでもないのだが。


 迎えのタクシーに乗り込み、目的地のカフェへと向かった。


 しっかりと冷房が効き渡ったカフェの店内は、愛犬を連れた客たちで適度なにぎわいを見せていた。奥の落ち着いたソファ席へと案内され、キャリーバッグからモカを出してやる。


 信子は季節のフルーツティーを、俺はアイスコーヒーを注文した。モカには、お店特製のヤギミルクと無添加の小さなボーロが用意された。


 運ばれてきたヤギミルクを、モカは小さなピンク色の舌を忙しく動かして、夢中で味わっている。その愛くるしい横顔を、信子は目を細めて愛おしそうに見つめていた。


「可愛い……。俊作、モカをこの家に迎えてくれて、本当にありがとうね」

「いえ。俺にとっても大切な家族ですから」


 信子はフルーツティーのストローから冷たい液体を喉へと流し込み、グラスの表面に結露した水滴を細い指先でなぞりながら、ぽつりと呟いた。


「ねえ、俊作」

「はい」

「なんだか……本当に夢みたい」


 静かな声だった。そこには、彼女がこれまで人知れず抱えてきたであろう、深い孤独の影が透けて見えた。


「少し前までの私は、休みのたびに荒れ果てた部屋の中で、自分の冷気と暑さに苦しみながら、ただ一人で死んだように眠るだけだった。なのに今は、俊作がいてくれて、モカがいて、こうして涼しい場所で穏やかな時間を過ごせている。……私みたいな人間が、こんな風に満たされていいなんて、思ってもみなかったわ」

「夢などではありませんよ」


 俺はグラスをコースターへと戻し、静かに彼女の目を見つめて言った。


「これも立派な、俺の仕事の一環ですから。俺は信子さんに、毎日快適に過ごしてほしいと思っているだけですよ」


 言葉を選んでそう伝えると、信子は少しだけ口元を緩め、照れくさそうに瞳を揺らした。


「……もう。そういう言い方ばかりして」


 言いながら、テーブルの下で、信子の素足が俺の足首にそっと触れてきた。


 ひんやりとした、氷のように澄んだ冷たさ。それが、俺の身体の温もりを求めるように、静かにすり寄ってくる。


「冷たくないかしら?」

「いいえ。とても心地よい冷たさです」


 俺がそう答えると、信子はどこか満足そうに微笑んだ。


「俊作は、いつでも温かいのね。……だから、ずっと私のそばにいてほしいわ」


 冗談めかした口調の裏側に、彼女の切実な心が込められているのが分かった。


 俺は言葉で返す代わりに、テーブルの下で彼女の冷たい足先に自分の足をそっと重ね、温もりを分かち合うように優しく寄り添わせた。信子は嬉しそうに目を細め、再びモカの柔らかな毛並みを優しく撫で始めた。


 夕方。マンションの自室へと戻ると、変わらぬ16度の心地よい冷風が俺たちを迎えてくれた。


「ふう……やっぱり、自分の家が一番落ち着くわね」


 信子はヒールを脱ぎ捨てるとソファへと体を預け、膝の上にモカを乗せてくつろぎ始めた。


 俺はエプロンを身につけ、台所で夕食の仕込みに取りかかる。今夜の献立は、信子の好物である特製タツタ揚げだ。にんにくと生姜、醤油とみりんでじっくり漬け込んだ大ぶりの鶏もも肉に、たっぷりと片栗粉を叩き、適温に熱した油へと投入する。


 パチパチと軽快な油の音が静かな部屋に響き渡り、香ばしい醤油の香りが冷えた空気を包み込んでいく。


 ふとソファの方へ視線を向けると、信子がモカを抱きしめたまま、じっとこちらの様子を眺めていた。その深い青色の瞳には、穏やかな安心感と、俺に対する確かな信頼が満ちていた。


 理不尽な怒号も、終わりの見えない残業もない。ただ、目の前にいる大切な女性と小さな命のために、心を込めて温かい料理を作る。


 プロの主夫として選択した、この生活。俺の居場所は、間違いなくここにある。


 そう、確信できる平穏が、そこにはあった。

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