第13話 鬼娘と突発デート
八月も終わりに近づいているというのに、太陽の暴力的な熱量は一向に衰える気配を見せない。
マンションのエントランスを出た瞬間、アスファルトから立ち上る陽炎と強烈な熱風が全身を包み込んだ。耳をつんざくような蝉時雨が、暴力的な夏をさらに強調している。設定温度十六度で固定された、冷蔵庫のように冷え切った部屋に慣れきった俺の体には、まるで稼働中のサウナ室に無理やり放り込まれたような錯覚すら覚えた。
「さて、アイスが溶ける前に急いで帰らないとな」
首筋にじわりと浮かんだ汗をハンカチで拭いながら小さく呟き、俺は少しでも日陰になっている場所を選びながら歩き出した。
今頃、信子は涼しいリビングのソファで、丸まったモカを抱きしめるようにして深い昼寝に落ちているはずだ。あの隙だらけで無防備な寝顔を思い出すと、自然と口元が緩む。俺は彼女たちが目を覚ます前に、今夜の夕食の食材と、信子の生命線であり主食の一部とも言えるハーゲンダッツの補充に向かう途中だった。
エントランスホールの外、少し先の曲がり角に差し掛かったところで、ガチャンという硬く嫌な音が響いた。
見ると、小柄な女性が抱えていた大きな紙袋の底が見事に破れ、中から数本の瓶がアスファルトの歩道に転がり出ているところだった。
幸い割れてはいないようだが、茶色い一升瓶やワインボトル、さらには焼酎の瓶までがごちゃ混ぜになって転がっている。とても女性一人が手で持ち運ぶような重量ではない。
「大丈夫ですか。手伝いますよ」
俺は小走りで駆け寄り、足元に転がった一升瓶を拾い上げた。ずっしりとした重みがある。純米大吟醸の高級そうなラベルが見えた。
「うわっ、助かったー! ありがとう、お兄さん。さすがに紙袋、限界だったみたいでさ。下から抜けちゃった」
振り返った女性を見て、俺は少しだけ目を瞠った。
ゆるいウェーブのかかった豊かな黒髪に、少し褐色がかった健康的な肌。くるくるとよく動く大きな瞳が特徴的な、どこか南国を思わせるエキゾチックな顔立ちの美女だった。ショート丈のタンクトップにデニムのショートパンツというラフで露出の多い格好だが、小柄ながらもメリハリのある引き締まったスタイルが際立っている。
どこか小悪魔的な愛嬌があり、彼女がいるだけで周囲の空気をパッと明るくするような、底抜けに陽気なオーラを放っていた。信子の持つ「触れれば凍りつくような冷徹さ」とは完全に対極にある、太陽のような存在感だ。
「すごいお酒の量ですね。近くでパーティーでも?」
俺が拾い集めた瓶を、持っていた大きめのエコバッグに入れ替えながら尋ねると、彼女はからからと快活に笑った。
「んーん、全部アタシの胃袋に入る予定。今日から数日、親友の家に入り浸ろうと思ってさ。あいつ、家だと全然ダメダメだから、アタシが遊びに行ってやらないと干からびちゃうんだよね」
「なるほど。それは頼もしい親友ですね」
俺がエコバッグにすべての瓶を収め、手渡そうとした時だった。
彼女の大きな瞳が、俺の顔をじっと見つめ、ピタリと動きを止めた。
「……あれ?」
彼女は俺の顔と、俺が着ているシンプルなシャツ、そしてマンションのエントランスを交互に見比べた。
「お兄さん、もしかして……三〇二号室の川口信子のとこに住んでる?」
「え?」
どうして彼女が信子の名前を知っているのか。警戒しかけた俺の顔を見て、彼女は合点がいったようにポンと手を打った。
「やっぱり! アンタが信子の噂のヒモ君か!」
「ヒモというか、専属主夫として雇用契約を結んでいるんですが……」
「あははっ! 自分で雇用契約とか言っちゃうんだ、ウケる!」
彼女は腹を抱えて笑い、それから気さくに右手を差し出してきた。
「アタシは関夏見。信子の昔からの親友で、悪友。よろしくね、主夫さん」
この人が、信子が言っていた「底なし沼みたいに飲む親友」か。数日前に管理人が大量の空き瓶を苦労して片付けていた光景が脳裏に蘇る。
「五十嵐俊作です。信子さんにはいつもお世話になっています」
「堅いなぁ。俊作さん、でいい? ねえ俊作さん、これも何かの縁だしさ」
夏見は俺の腕をぐいっと引っ張った。
「アタシも今から信子の家に行く途中なんだけど、買い出し、付き合ってあげるよ! 荷物持ってもらったお礼に、アタシが荷物持ちしてあげる」
「いいんですか? このお酒だけでも相当な重さだと思いますが」
「余裕余裕! これでも結構力持ちなんだから。それに、こんなイイ男とスーパーでお買い物なんて、テンション上がるしね」
有無を言わさぬ腕力だった。小柄な身体のどこにそんな力があるのかと思うほど、強引に歩き出される。鬼の血を引いているという話は信子から聞いていなかったが、このバイタリティは只者ではない。
結局、俺は彼女の陽気なペースに巻き込まれる形で、一緒に近くのスーパーへと向かうことになった。
スーパーに入ると、肌を刺すような冷房の空気が心地よかった。
買い出し中、夏見は俺の主夫スキルにいちいち感嘆の声を上げた。
「え、ナスってヘタの切り口で見分けるの?」
「ええ、切り口が新しくて、ガクのトゲが痛いくらい尖っているのが新鮮な証拠です。それから、持った時にずっしりと水分を含んだ重みがあって、皮にハリとツヤがあるものを選びます。しなびていると、油を吸いすぎて食感が悪くなりますからね」
俺がカゴに艶やかなナスを入れながら答えると、夏見は目を丸くして何度も頷いた。
「へえー! アタシ、野菜なんて適当に袋に入ってるやつ買ってたよ。今日のご飯は何にするの?」
「今日はこのナスと、オクラやミョウガを使って、冷たい揚げ浸しを作りますよ。夏見さんが買ってこられた日本酒にも合うように、少し出汁を濃いめに効かせておきます。それから、冷しゃぶも用意しましょうか」
「うわー、最高。俊作さん、マジでうちに来ない?」
夏見は冗談めかして笑いながら、カゴを覗き込んだ。
「あの信子が、男を家に住まわせてるって聞いた時は耳を疑ったよ。昔から他人に隙を見せないし、潔癖気味だし。でも、部屋に行ってみたら納得した。あの子、家事スキルゼロのぽんこつだもんね」
「まあ、俺が来る前は少し荒れていましたね」
「少し? ゴミ屋敷一歩手前だったでしょ。アタシが何度片付けろって言っても聞かなくてさ。俊作さんが来てくれて、本当に助かったよ」
彼女の言葉には、親友を心から心配していた響きがあった。ただ酒を持ち込んで騒ぐだけの悪友というわけではなく、信子の不器用さをよく理解し、放っておけないのだろう。
買い物を終え、エコバッグを両手に下げてマンションへの帰り道を歩いている時だった。
西に傾きかけた夕陽が、二人の影を長くアスファルトに伸ばしている。少し前を歩いていた夏見がふと立ち止まり、振り返って俺を見上げた。
ショート丈のタンクトップから覗く健康的な谷間が夕陽に照らされ、エキゾチックな香水の匂いが、夏の熱気と混ざってふわりと鼻腔をくすぐった。
「ねえ、俊作さん」
潤んだ瞳で上目遣いに見つめ、彼女は少しだけ距離を詰めてくる。
「俊作さんみたいなイイ男が、ずっとあんな堅物のヒモやってて退屈しない? アタシのところに来たら、もっと……楽しいこと、教えてあげるけど?」
明らかな挑発であり、俺の度胸を試しているのだろう。二十四歳という若さらしからぬ、男を転がすような小悪魔的な仕草だった。
普通の男なら、この至近距離でこんな美女に誘惑されれば、動揺して顔を赤くするか、あるいは調子に乗って鼻の下を伸ばすかのどちらかだ。
俺は歩みを止めることなく、柔らかく微笑んで彼女の視線を受け流した。
「楽しい提案ですが、お断りします。俺の雇用主は信子さんだけですから」
「えー。信子よりアタシの方が、愛想もいいし一緒にいて楽しいと思うけど?」
「そうかもしれませんね。でも、これほど俺のことを必要としてくれて、甘やかしてくれる素晴らしい雇用主を手放す気はありませんから。それに、俺みたいな三十過ぎのくたびれた男をからかっても、面白くないですよ」
さらりと答えると、夏見は一瞬だけ目を丸くし、それから「ぷっ」と吹き出した。
「……あーあ。つまんないの。全然動じないじゃん」
口ではそう言いながらも、彼女の瞳には明確な好意と感心が浮かんでいた。
「信子のやつ、こんないい物件どこで拾ったのさ。ルックスも良いし、家事も完璧で、おまけに大人の余裕まである。これは、アタシもちょっと本気で奪いにいきたくなっちゃうな」
「勘弁してください。これ以上の厄介事は御免ですよ。ほら、アイスが溶けますから急ぎましょう」
「あはは、かわされた!」
そんな軽口を叩きながら、俺たちはマンションへと戻った。
俺の両手には大量の食材とハーゲンダッツ、夏見の手には先ほど俺が拾い集めた一升瓶の入ったエコバッグ。
エレベーターを降り、三〇二号室の前に立つ。
「お邪魔しまーす!」
夏見が陽気に声を上げながら、俺の背後からひょっこりと顔を出した状態で、玄関のドアを開けた。
瞬間。
いつもなら心地よい冷気で満たされているはずの我が家から、それよりも遥かに低く、肌を刺すような重い空気が漏れ出してきた。
ただ冷たいだけではない。空気がピリッと張り詰め、息苦しさすら覚えるほどの絶対零度のプレッシャーが、玄関の三和土にまで押し寄せている。
「……遅かったわね、俊作」
リビングの奥、間接照明だけが点いた薄暗い空間に、信子が立っていた。
プラチナブロンドの髪を俺が贈った青いガラス玉のヘアゴムでまとめた彼女は、その青みがかった瞳から一切の感情を排し、じっとこちらを見据えている。足元ではモカが、そのただならぬ気配に完全に怯えきり、サークルの毛布の奥深くに潜り込んで震えていた。
「信子さん、起きていたんですね。アイス買ってきま……」
俺の言葉を遮るように、信子の視線が俺の背後の夏見へと真っ直ぐに突き刺さった。
「夏見。あんた、なんで俊作と一緒にいるの。……しかも、なんかすごく楽しそうに話しながら帰ってきたわね」
地を這うような、静かで冷たい声だった。
信子の機嫌が著しく損なわれているのがわかる。部屋の温度がさらに二度ほど下がり、皮膚の表面が粟立った。
「あはは、エントランスで偶然会ってさ。荷物持ってもらったお礼に、ちょっとスーパーまで買い出しに付き合ってもらったの」
夏見は全く悪びれる様子もなく、むしろ火に油を注ぐようなことを平然と言い放った。
「俊作さん、イイ男じゃん。アタシ、本気で惚れちゃったかも」
信子の瞳の奥で、青い炎のようなものが揺れた。
「……二人で出かけていたの? 惚れた。……私の、俊作に?」
「ちょ、信子さん、誤解です。ただ下で会って、一緒に買い出しに行っただけで……」
俺の弁明も虚しく、信子はゆっくりと一歩前に出た。
「夏見。あんた、また私から大切なものを奪おうとするのね」
「いやいや、奪うっていうか、シェアの精神でしょ? 俊作さんもまんざらじゃなかったし」
「言ってませんよそんなこと!」
信子の周囲の空気が、微かに白く濁り始める。吹雪のように派手な現象ではない。ただ、逃げ場のない圧倒的な冷気が、じわじわと空間を支配していく。
「問答無用よ」
信子は低い声で宣告し、無言のジト目で夏見を睨みつけた。
「私の大切な主夫に余計なちょっかいを出すなら、その熱い頭ごと凍らせてあげるわ」
「うわっ、怖っ! ちょっと信子、目がマジなんだけど!」
「……俊作は、私のご飯を作って、私を温めるための、私だけの主夫よ。あんたには一ミリだって渡さないから」
その日の夕食は、静かに怒りの冷気を放ち続ける信子と、そんな親友の様子をどこか面白がっている夏見の間に挟まれながら、俺が作った冷たい揚げ浸しと日本酒を並べるところから始まることになった。
どうやら、俺の心拍数を削る新しい厄介な住人が、また一人増えたらしい。




