第14話 鬼娘と美食の夜
「――それで、この冷たいナスの揚げ浸しが最高に美味しいってわけ。信子、あんた本当にこんないい物件をどこで拾ったの?」
十六度に設定された極寒のリビングで、関夏見は自分の家のようにソファに胡座をかき、日本酒の入ったグラスを片手に上機嫌で笑っていた。
買ってきたばかりの純米大吟醸の一升瓶は、すでに三分の一ほど空になっている。俺が急ごしらえで作った夏野菜の揚げ浸しは、出汁がよく染み込んでいて酒のつまみにぴったりだったらしい。夏見は信子の氷点下の睨みを全く意に介さず、次々と箸を進めていた。
「美味しいのは当然よ。私の俊作が作ったんだから」
信子はダイニングテーブルの向かい側で腕を組み、冷たい声を放ちながらも、ちゃっかりと自分の分のナスを頬張っていた。怒ってはいるが、食欲には抗えないのが彼女らしい。
「でもさ、俊作さん。これだけじゃアタシの胃袋は全然満たされないよ。もっとガツンとしたお肉とか、アヒージョとか食べたいなー」
夏見は空になった小鉢を揺らしながら、俺に向かって悪戯っぽくウインクをした。すでに一升瓶を空け始めているにも関わらず、まだまだ食べる気満々のようだ。
「……信子さん。夏見さんは、その」
俺が少し呆気にとられながら視線を向けると、信子は小さくため息をついて額を押さえた。
「言ってなかったかしら。この底なし沼、ただの人間じゃないわよ。『酒呑童子』……いわゆる、鬼の血を引いているの。だからお酒もご飯も、人間の規格外なのよ」
「なるほど。鬼、ですか。……この信じられないバイタリティとアルコール耐性にも納得がいきました」
「そういうこと! だからアタシの胃袋を満たすには、普通の量じゃ足りないってわけ!」
底なし沼と呼ばれる鬼娘の酒量と食欲を、冷蔵庫のあり合わせの食材だけで満たすのは不可能に近い。俺は時計を見た。時刻は午後六時を回ったところだ。
「冷蔵庫のストックだけでは、夏見さんのお酒のペースに合わせるのが難しそうです。それに、せっかく親友が遊びに来てくれたんですから、今日は外で美味しいものを食べに行きませんか。日が落ちてきたので、タクシーを使えば外の暑さも耐えられますよ」
「ええ……。外、まだ暑いし」
不満げに唇を尖らせる信子に、俺は少しだけ声を潜めて続けた。
「俺の料理を褒めてもらえるのは嬉しいですが、このままだと俺が明日の朝食に使う予定だったベーコンや卵まで、全て夏見さんの胃袋に消えてしまいますよ」
その言葉に、信子はハッとして夏見の底なしの胃袋を睨みつけた。
「……わかったわ。行く。俊作がそういうなら行くわよ」
「やった! さすが俊作さん、話がわかる!」
夏見が諸手を挙げて喜んだ。こうして、俺たちは夕暮れの街へと繰り出すことになった。
★★★★★★★★★★★
タクシーで向かったのは、神楽坂の裏通りにあるスペイン料理の店だった。
隠れ家的なバルで、俺が会社員時代に取引先の接待や、どうしても大きな案件を乗り切った後の自分へのご褒美として使っていた場所だ。適度な喧騒と、温かみのあるオレンジ色の照明、そして何より料理の味が確かな店である。
奥の落ち着いたテーブル席に通されると、俺はまずドリンクを注文した。
「とりあえず、カバをボトルでお願いします。しっかり冷やしたもので」
「カバって?」
首を傾げる夏見に、俺は手拭きを渡しながら説明した。
「スペインのスパークリングワインです。シャンパンと同じ製法で作られているので、きめ細かい泡とすっきりした酸味があります。最初の乾杯にはぴったりですよ」
冷えたフルートグラスに注がれた黄金色のカバで乾杯する。
「うわっ、これ美味しい! 炭酸が細かくて飲みやすいね」
夏見が目を輝かせ、一気にグラスの半分を飲み干した。信子も、冷たい炭酸が心地よいのか、満足そうに小さく息を吐いている。
すぐに、最初の一皿が運ばれてきた。
「ハモン・イベリコです。どんぐりを食べて育った最高級のイベリコ豚の生ハムですね」
艶やかな赤身と、透き通るような白い脂身。夏見は迷わずそれを口に運んだ。
「んんーっ! なにこれ、脂が舌の上で溶ける! 噛めば噛むほど味が濃い!」
「常温で少し脂が溶け出した頃が一番美味しいんです。カバの酸味が、脂の甘みをすっきりと洗い流してくれますよ」
俺が言うと、夏見は「なるほど」と頷き、生ハムとカバの無限ループに突入し始めた。
続いて、小エビのガーリック風味が運ばれてくる。いわゆるアヒージョだ。素焼きの小さな鍋の中で、ニンニクの香りをたっぷりと移したオリーブオイルがぐつぐつと煮えたぎっている。
「熱いので気をつけてください」
俺は火傷しないよう、小皿にエビとオイルを取り分けた。少しだけフーフーと息を吹きかけて熱を逃がしてから信子へ渡すと、彼女は「ありがとう」と嬉しそうに微笑み、エビを口に含んだ。
「美味しい。エビがプリプリで、ニンニクの風味がすごく食欲をそそるわ」
「バゲットにオイルをつけて食べるのも最高だね! 俊作さん、この店すごくいい!」
さらに、パプリカのマリネがテーブルを彩る。じっくりとローストして甘みを引き出した赤と黄色のパプリカを、ビネガーとオリーブオイルでさっぱりと仕上げた一品だ。アヒージョの濃厚な油の後には、この心地よい酸味が見事に調和する。
俺は二人のグラスが空になる絶妙なタイミングでカバを注ぎ足し、空いた皿をさりげなくテーブルの端へ寄せて店員が下げやすいように配慮した。長年の接待で染み付いた、完全に無意識の動作だった。
「俊作さんってさ」
パプリカのマリネを頬張りながら、夏見が俺の顔をじっと見つめた。
「手際が良すぎるっていうか、めちゃくちゃ気が利くよね。グラス空くタイミングとか、料理の取り分けとか。なんか、すごく居心地がいい」
「仕事柄、こういう席の立ち回りは嫌というほど叩き込まれましたから。今はただの癖みたいなものです」
「へえ。……ねえ、やっぱり信子みたいな堅物より、アタシのところ来ない? 俊作さんなら、毎日こんな美味しい店で一緒に飲んであげてもいいよ」
夏見はグラスを持ったまま上半身を乗り出し、タンクトップの胸元を無防備に晒しながら上目遣いで挑発してきた。アルコールが回り始めているのか、褐色の肌がほんのりと赤く染まり、エキゾチックな魅力がさらに増している。
普通の男なら確実に動揺する距離と色気だ。
だが、俺は動じることなく柔らかく微笑み返した。
「お誘いは光栄ですが、俺は今の生活に十分満足していますので。それに、信子さんは堅物じゃありませんよ。ただ、不器用なだけです」
俺がはっきりとそう答えると、隣に座っていた信子の肩がピクリと揺れた。彼女はグラスを見つめたまま、耳の先を真っ赤に染めて黙り込んでいる。
「あーあ。俊作さん、本当に隙がないな。信子、愛されてんね」
夏見はつまらなそうに唇を尖らせたが、その瞳には俺への好意的な感心がはっきりと浮かんでいた。
料理は中盤戦に差し掛かった。
俺はドリンクを重めの赤ワインに切り替え、イカ墨煮とマッシュルームの煮物を注文した。
真っ黒なソースの中で柔らかく煮込まれたイカは、見た目に反して非常に繊細で奥深い海鮮の旨味を主張する。マッシュルームは噛むと中から熱いスープがジュワッと溢れ出し、赤ワインの豊かな果実味と完璧なマリアージュを果たしていた。
そして、俺があえて夏見のために頼んだ一皿が運ばれてきた。
「豚の血の腸詰めの揚げ物……モルシージャです」
黒茶色に揚がった一口大のそれを指し示すと、夏見は「血?」と興味深そうに目を丸くした。
「鬼のアタシにぴったりじゃん。いただきます」
夏見がモルシージャを口に放り込む。
その瞬間、彼女の大きな瞳がさらに見開かれた。
「うまっ! なにこれ、全然生臭くない。スパイスが効いてて、レバーみたいな濃厚なコクがあるのに、外側はサクッとしてる……! これ、赤ワイン泥棒だわ!」
「気に入ってもらえてよかったです。豚の血と脂、玉ねぎやスパイスを腸詰めにしたものなんですが、この店の揚げ具合は絶妙なんですよ」
夏見はモルシージャを絶賛し、赤ワインのグラスを次々と空けていく。彼女の飲みっぷりは見ていて清々しいほどだが、悪酔いしないように、俺はこまめにチェイサーのミネラルウォーターを彼女のグラスに注いだ。
信子も、最初は血の腸詰めという名前に少し抵抗を見せていたが、一口食べるとその深いコクの虜になり、無言でフォークを進めていた。
「お待たせいたしました。バレンシア風パエージャです」
店員が、大きな平鍋をテーブルの中央に置いた。
サフランの鮮やかな黄色に染まった米の上に、エビ、ムール貝、アサリ、鶏肉、そしてインゲン豆が色鮮やかに散りばめられている。立ち上る湯気と共に、魚介の濃厚な出汁の香りが鼻腔をくすぐった。
「うわぁ……」
信子と夏見が同時に感嘆の声を漏らした。
「これが本場のパエージャですか? すごいボリューム……」
「底の方におこげができているので、そこを削り取るようにして食べてください。旨味が一番凝縮されている部分です」
俺は木製のスプーンでパエージャを大きくかき混ぜ、魚介の身をほぐしながら、均等に二人の皿に取り分けた。
夏見がスプーンで一口すする。
「…………っ、言葉が出ない。お米の一粒一粒に魚介のスープが限界まで染み込んでる。おこげの香ばしさがたまらない!」
「美味しい……。色々な食材の味が混ざり合ってるのに、すごくまとまりがあるわ。俊作、これ家でも作れる?」
「パエージャ専用の平鍋と、強力な火力が必要なので完全な再現は難しいですが、フライパンでも似たようなものは作れますよ。今度挑戦してみましょうか」
「絶対作って!」
信子はすっかり機嫌を直し、パエージャを夢中で頬張っていた。夏見も、さっきまでのからかいモードはどこへやら、ひたすら料理とワインに没頭している。
すべての料理を平らげた後、俺は食後のデザートとしてアーモンドケーキを二つ注文した。
「俺はデザートの代わりに、オロホをストレートで」
「オロホ?」
不思議そうに首を傾げる夏見に、アーモンドケーキを頬張っていた信子がふふっと自慢げに微笑んだ。
「度数が四十度以上もある、すっごく強いスペインのお酒よ。でも、俊作の言う通り、不思議と胃がスッキリするの。この前、私も四谷で俊作が飲んでいるのを見たんだから」
「へえ、信子はお試し済みってわけ。じゃあアタシも一口……いや、アタシも強いお酒!」
俺の注文を聞いて、夏見は「じゃあアタシも!」と元気よく手を挙げた。
「夏見さんには、ヘーゼルナッツ風味のリキュールをおすすめしますよ。アルコールは強めですが、甘くて香ばしいので、アーモンドケーキによく合います」
「俊作さんが言うならそれにする!」
運ばれてきたアーモンドケーキは、素朴でしっとりとした生地に、ナッツの香ばしさが際立っていた。信子は「甘くて美味しい」と嬉しそうに笑っている。
夏見は小さなグラスに注がれたリキュールを一口飲み、ふう、と深く息を吐いた。
「……参った」
テーブルに頬杖をつき、少しとろんとした目で俺を見る。
「料理のチョイスも完璧。お酒の合わせ方も完璧。押し付けがましくない気遣いに、この大人の余裕」
夏見はリキュールのグラスを指先で弄りながら、本音とも冗談ともつかない口調で言った。
「こんなに完璧にエスコートされたの、初めてかも。……信子が手放さないわけだわ。俊作さん、マジでいい男」
「褒めすぎですよ。俺はただ、皆さんに美味しく食べてもらいたかっただけです」
俺がオロホの強いアルコールで喉を焼きながら答えると、隣で信子が「ふん」と誇らしげに鼻を鳴らした。
「当然よ。私の専属主夫なんだから。あんたには絶対に渡さないわよ、夏見」
「はいはい、わかってますー。でも、遊びに行く口実施できたね。俊作さんの手料理、また食べに行こーっと」
酔いが回ってご機嫌な夏見を前に、信子は少しだけ眉をひそめたが、すぐにアーモンドケーキに意識を戻した。
★★★★★★★★★★★
店を出ると、夜風は少しだけ涼しさを帯びていた。
「あー、食った食った! 飲んだー!」
夏見は両腕を大きく伸ばし、上機嫌で夜空を見上げた。歩調はしっかりしているが、かなりの量のアルコールが入っているのは間違いない。
俺は通りでタクシーを拾い、二人を先に後部座席へ乗せると、自らもその狭いシートへと滑り込んだ。
必然的に、俺と信子、そして眠たげな夏見の大人三人が、肩を寄せ合うようにして並んで座ることになる。
「信子さん、夏見さんは信子さんの部屋に泊まるんですよね? 布団の用意は……」
「私の部屋のクローゼットに予備があるから大丈夫よ」
タクシーの冷房が効いた車内で、信子はこれ見よがしに俺の左腕に両腕を絡め、ぴったりと身を預けてきた。逆側のシートでこっくりこっくりと頭を揺らす夏見を意識しているのか、その横顔にはかすかに勝ち誇ったような笑みが浮かんでいる。
「今日も美味しかった。ありがとう、俊作」
「お粗末様でした」
俺は信子の冷たい髪をそっと撫でた。
夏見はそんな親友の様子を知る由もなく、窓に頭をもたれかけて静かな寝息を立て始めた。底抜けに陽気で、トラブルメーカーの気配がする彼女だが、その寝顔は年相応にあどけなかった。
「……また、騒がしくなりそうですね」
俺が苦笑交じりに呟くと、信子は俺の肩に頭を乗せ、小さく「そうね」と同意した。
「でも、俊作がいれば、どんなに騒がしくても平気な気がするわ」
逆側のシートでは、夏見がすやすやと心地よさそうな寝息を立てている。
エアコンの冷たい風と、肩口から伝わる信子のひんやりとした体温。その冷たさが不思議と心地よくて、俺はタクシーの窓の外に流れる夜の街並みを、ただ静かに眺めていた。




