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過労で退職したら、隣に住む雪女上司に拾われてヒモになりました  作者: 伊達ジン


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第28話 新たな気配と探検家

 涼しいカフェを一歩出ると、暴力的なまでの真夏の熱風が全身を包み込んだ。


 アスファルトから立ち上る陽炎が視界を歪ませ、セミの鳴き声が耳にまとわりついてくる。しかし、隣を歩くクロエの足取りは、先ほど俺の部屋へ転がり込んできた時とは比較にならないほど軽やかだった。


「靴を脱いで足を休めたおかげで、随分と楽になったようですね」


 俺が歩幅を合わせながら声をかけると、クロエは日傘の陰でふわりと微笑んだ。


「ええ。嘘みたいに足が軽いわ。……あなたが選んでくれたあのウッディな香りも、なんだかクセになりそう。頭の奥にあったモヤモヤが、すーっと晴れていくみたいなの」

「それは良かったです。いつも気を張ってお仕事をされているでしょうから、家に帰ったときくらいは肩の力を抜いて、体をゆっくり休めてあげると、睡眠の質も格段に上がりますよ」

「……本当に、あなたには敵わないわね」


 クロエは小さく息を吐き、少しだけ俺の肩にすり寄るようにして歩き続けた。


 数分歩き、彼女の住む高級マンション――俺と信子が暮らすマンションのエントランスへと辿り着く。自動ドアを抜けると、肌を刺すような熱気は一瞬にして遮断され、冷涼な空調の風が火照った身体を優しく冷ましてくれた。


 エレベーターホールへ向かおうとした時、エントランスの方から、鈴の音のように快活な笑い声が響いてきた。


「Hi, Chloe!」


 ヨガマットを小脇に抱え、満面の笑みでこちらへ歩み寄ってくる女性がいた。艶やかなダークブラウンのロングヘアに、健康的に日焼けした小麦色の肌。シンプルなスポーツブラにレギンスというラフなスタイルだが、インストラクターならではの無駄のない引き締まった筋肉と、豊かな女性らしい曲線美が際立っている。彼女が歩くだけで、周囲の空気がパッと明るくなるような、強烈な「太陽」のオーラを放っていた。


「リア。奇遇ね、これからお仕事?」


 クロエが親しげに応じると、リアと呼ばれた女性は弾むような足取りで近づき、クロエと軽いハグを交わした。ふわりと、南国を思わせる甘いココナッツのような香りが漂う。


「ううん、今ヨガクラスが終わって帰ってきたところ。……それより、その人が噂の?」


 リアの大きくはっきりとした瞳が、クロエの隣に立つ俺をじっと見つめた。


「ええ。川口さんの部屋の、五十嵐さんよ」

「へえ……。こんにちは! 私、リア・サントス。南向きの部屋に住んでるの」


 リアは屈託のない、輝くような笑顔を俺に向けて、親しげに右手を差し出してきた。


「五十嵐俊作です。川口さんにはいつもお世話になっています」


 俺がその手を握ると、手のひらから驚くほどポカポカとした温もりが伝わってきた。


「うふふ、大人の余裕があって素敵! じゃあね、クロエ、また後で!」


 リアは嵐のように陽気な風を残して、自分の部屋がある階へと向かっていった。


「……相変わらず、太陽みたいな子ね」


 クロエが小さく肩をすくめるのを見ながら、俺は手のひらに残る、日向ぼっこのような心地よい温もりをそっと確かめていた。その時、今度は下りのエレベーターが到着を告げる電子音を鳴らした。


 エレベーターの扉が静かに開き、一人の少女がすっと姿を現した。


 艶やかな黒髪をストレートロングに伸ばし、透き通るように青白い肌をした、どこかあどけない美少女だ。お札の描かれたキョンシー風の帽子を目深に被り、チャイナドレスを現代風にアレンジしたような風変わりな私服に身を包んでいる。焦点の定まらない澄んだ瞳で、ぼんやりと周囲を眺める彼女からは、生きている人間とは明らかに異なる、極端に冷たい気配が漂っていた。


 少女は、俺とクロエの横をすれ違いざま、不意に足を止めた。そして、俺の方へ視線を巡らせると、小さく鼻先を動かす。


「……」


 しかし、彼女はそれ以上何も言わず、引きずられるような独特の歩調で、エントランスの自動ドアの向こうへと消えていった。


 すれ違った一瞬、俺の周囲の空気が、まるで冬の朝のようにキンと凍りついた。


「あの子は……?」

「下の階に住んでいるキョンシーの留学生よ。いつも省エネモードで、お腹をすかせている不思議な子。まあ、気にしないで」


 クロエが肩をすくめて言うのを聞きながら、俺は少女が消えた自動ドアをしばらく見つめていた。


★★★★★★★★★★★


 三〇二号室の重厚なドアを開けると、真夏の熱気を一瞬で消し去る、キリリと冷えた澄んだ空気に全身が包み込まれた。


「遅い。どこで油を売っていたのよ」


 薄暗いリビングのソファで、薄いタオルケットにくるまった信子が腕を組み、青みがかった瞳でこちらを睨みつけていた。


「申し訳ありません。少し、エントランスで他の方と立ち話をしてしまって」

「フフ、ご機嫌斜めね、川口さん。彼に、極上のリラックスタイムをエスコートしてもらっていたのよ。あなたには分からない、大人の嗜みというやつね」


 クロエが買ってきたばかりのブレンドオイルの小瓶を見せびらかすように取り出すと、信子の周囲の温度がさらに数度下がったような気がした。


「……俊作は私のなんだから、勝手に連れ回さないで」

「あら、私は彼自身の意思を尊重しただけよ」


 いつもの他愛のない口喧嘩が始まるのを横目に、俺は買ってきた食材を冷蔵庫に収め、手洗いを済ませた。そして、真新しい白いペットフェンスの前へと向かう。


「モカ、少し外の世界を歩いてみるか」


 俺がフェンスの扉のロックを外し、小さく声をかけると、クッションベッドの上で丸くなっていた茶色い毛玉がピクリと反応した。


 短い尻尾をピンと立て、モカはフェンスの開口部へと恐る恐る近づいてくる。彼にとって、新しく設置されたフェンスの扉から一歩外へと踏み出す瞬間は、いつだって特別で少しだけ緊張する大冒険の始まりのようだった。


 フローリングの境界線で立ち止まり、モカは鼻先をヒクヒクと動かして外の空気を嗅いでいる。


 やがて、意を決したように短い右前足を一歩、外へ踏み出した。


 冷たいフローリングの感触に驚いたのか、一度ビクッと足を引っ込めるが、好奇心が勝ったらしい。慎重な足取りで、抜き足差し足のようにリビングへと進み出た。


「クン、クン……」


 床の匂いを嗅ぎながら、モカはゆっくりと進む。まず興味を示したのは、大理石のローテーブルの脚だった。冷たい石の感触を鼻先で確かめ、それからソファの周りへと移動する。


「あら。モカ、外に出てきたのね」


 口喧嘩を中断した信子が、ソファから身を乗り出して手を伸ばした。


 モカは信子の気配に気づくと、警戒心を解いたように短い尻尾をプロペラのように振り始め、彼女のひんやりとした手首に鼻先をすり寄せた。信子が優しく耳の後ろを撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めて「クゥ」と小さな喉を鳴らす。


「ほら、こっちにもおいで」


 クロエがしゃがみ込み、指先で床を軽く叩いて呼んだ。


 モカはトテトテとぎこちない足取りでクロエに近づき、彼女のパンプスのつま先の匂いを熱心に嗅ぎ始めた。


 その愛らしい探検家の姿に、先ほどまで冷戦状態だった信子もクロエも、すっかり毒気を抜かれたように顔をほころばせている。


 その時だった。


『ゴォォォ……』


 室温を維持するため、エアコンのコンプレッサーが駆動音を一段階上げた。


「キャンッ!?」


 突然頭上から響いた低い機械音に、モカは文字通り飛び上がって驚いた。耳をペタンと伏せ、短い尻尾を股の間に巻き込み、パニックを起こしたように周囲を見回す。


 そして、キッチンに立っていた俺の姿を認めるなり、猛ダッシュで駆け寄ってきた。


 俺の足元まで辿り着くと、スウェットの裾を小さな前足で必死に掴み、俺のふくらはぎの裏に頭を押し付けるようにして小刻みに震え始めた。丸く黒い瞳が、助けを求めるように俺を見上げている。


「よしよし。怖いものは何もないですよ」


 俺は静かにしゃがみ込み、温かい手のひらでモカの背中を包み込むように撫でた。


 安心させるようにゆっくりと背筋に沿って手を滑らせてやると、モカの震えは徐々に収まり、やがて俺の足の甲に顎を乗せて深く息を吐いた。


「ふふ、やっぱり俊作のところが一番安心するみたいね」


 信子がソファからその様子を見て、優しく微笑んだ。


「そうですね。……さて、モカも落ち着いたところで、夕食の準備に取り掛かりますよ」


 俺はモカをそっと抱き上げ、再び安全なフェンスの中のベッドへと下ろしてやった。


 冷蔵庫から取り出したのは、真っ赤に熟したフルーツトマトと、新鮮なバジルの葉、美しくスライスされた上質な生ハム、そして極細のパスタであるカペッリーニ。外の暴力的な暑さと、この部屋の極端な冷気。その両方に疲弊した胃腸を優しく労わるには、冷製パスタが最適だろう。


 トマトを湯むきし、上質なエキストラバージンオリーブオイルと少量のニンニクでマリネしていく。バジルの爽やかな香りが、冷えた空気の中に鮮やかに広がっていく。


 リビングでは、信子とクロエがソファの両端に少し距離を置いて座り、フェンスの中のモカを眺めながら、お互いに視線は合わせないまま、どこか調子を狂わされたようにぽつりぽつりとモカについての言葉を交わしていた。


 この閉ざされた極寒の部屋に、少しずつ、しかし確実に、新しい体温と気配が混ざり合い始めている。


 騒がしくも温かい、俺にとっての新しい日常の輪郭が、そこには確かにあった。

【書籍発売のお知らせ】


作者の別作品『実力S級の俺、配信切り忘れで「虚無顔でボスを瞬殺する姿」が全国放送されてた件。今さら「ただの荷物持ち」とは言えない~定時で帰りたいので、追放してくれてありがとう~』第1巻が、9月4日に発売されました。


もしご興味がありましたら、こちらもチェックしていただけると嬉しいです。


書籍の詳細は活動報告をご覧ください。

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