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過労で退職したら、隣に住む雪女上司に拾われてヒモになりました  作者: 伊達ジン


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第27話 湯たんぽの独占権

 嵐のように騒がしかった関夏見が「ごちそーさま! また来るね!」と、徹夜明けの疲労など微塵も感じさせないエネルギッシュな足取りで帰っていき、三〇二号室のリビングには再び冷涼な静寂が戻った。昨夜、彼女が部屋に転がり込んできた時の騒動が嘘のように、今はただエアコンの低い駆動音だけが響いている。


 窓の外ではすでに真夏の日差しがアスファルトを焦がし始めているはずだが、分厚い遮光カーテンで外界から完全に隔離されたこの部屋は、今日も設定温度十六度の容赦ない冷気で満たされていた。


 俺はキッチンに立ち、朝食で使った土鍋や食器を手際よく洗い上げ、シンクの周りを清潔な布巾で丁寧に拭き上げた。徹夜明けの夏見のために作った豚汁の鍋も空になり、綺麗に磨き上げられている。六年間のブラック企業勤めで染み付いた段取りの良さと、理不尽な要求に応え続けてきた処理能力は、主夫業においても遺憾なく発揮されていた。


「……ふぅ」


 ダイニングテーブルの席で、クロエが加賀棒茶の最後の一口を飲み込み、満ち足りたような、そしてどこか名残惜しそうな吐息を漏らした。彼女の顔には、昨夜俺の部屋に転がり込んできた時に見せていた、シニアマネージャーとしての張り詰めた疲労感はもうない。徹夜明けの夏見のペースに巻き込まれながらも、この冷えた部屋と温かい朝食が、彼女の疲労を確実に癒やしたようだ。


 一方、リビングのソファでは、黒のキャミソール姿の信子が、真新しい接触冷感のペットベッドと格闘して遊び疲れたモカを膝に乗せ、ゆったりとくつろいでいた。プラチナブロンドの髪が、俺が贈った青いガラス玉のヘアゴムで緩くまとめられている。足元では、すっかりこの冷気にも慣れた茶色い毛玉がスヤスヤと眠っている。


 ふと、クロエが空になった湯呑みをテーブルに置き、こちらを真っ直ぐに見つめてきた。


「ねえ、シュン」

「はい。お茶のおかわりですか」

「ううん、そうじゃないの」


 クロエは少しだけ躊躇うように視線を落とし、すぐにまた俺の目を見た。ダークブラウンの瞳の奥で、サキュバス特有の紫色の魔力ではない、一人の女性としての純粋な光が揺れている。


「今日の午後、少し時間をくれないかしら。表参道に新しく出来たフレグランスの専門店に行きたいの。ルームフレグランスとバスオイルを見繕いたくて。……もし良かったら、付き合ってくれない?」


 それは、極めて控えめな、しかし明確なデートの誘いだった。


 俺が返答を口にするより早く。


「ダメ」


 ソファから鋭い声が飛んできた。


 振り返ると、信子がモカをクッションの上にそっと下ろし、絶対零度の冷気を纏わせながら立ち上がっていた。彼女は真っ直ぐに俺の隣まで歩いてくると、有無を言わさぬ動作で俺の左腕に自分の両腕を絡ませ、ぎゅっと抱きついた。


 薄いキャミソール越しに、雪女特有のひんやりとした肌の感触と、柔らかな質量がダイレクトに伝わってくる。微かに香る、雪のように澄んだ清潔な匂いが鼻腔をくすぐった。俺の左腕の表面温度が急激に奪われていくのが分かる。


「俊作は今日、一日中ここにいて私の湯たんぽになる予定なの。どこにも行かせないわ」


 信子は俺の腕に頬をすり寄せながら、クロエに向かって明確な敵意――いや、独占欲をむき出しにした。足元のモカが、急激な温度低下に驚いて「キャン?」と短く鳴いた。


 クロエは呆れたように小さく息を吐き、腕を組んだ。


「川口さん。彼はあなたの所有物じゃないわ。休日の数時間くらい、お隣さんに貸してくれてもいいじゃない」

「嫌よ。私が月五十万で雇ってるんだから。それに、雪女の冷えた体を温めるための、この三十六度の湯たんぽは私の特権なの。誰にも、絶対に譲らない」


 信子はさらに力を込め、俺の腕を自分の胸元へと引き寄せる。彼女から漂う冷気が、俺の体温と混ざり合って心地よい涼風を生み出しているが、このままでは物理的に身動きが取れない。


「信子さん」


 俺は空いている右手で、信子の髪をまとめている青いガラス玉にそっと触れた。


「……なに」

「冷たい体に俺の体温が心地よいのは分かりますが、一日中密着していると、さすがに俺の方が風邪を引いてしまいます」

「……っ、そんなの、私が温度調節するから……」

「それに」


 俺は静かに言葉を継いだ。


「クロエさんは昨夜、肩や背中の筋肉が石のように強張っていました。良質な睡眠のためのフレグランス選びなら、俺の知識が少しは役に立つかもしれません。雇用主の隣人トラブルを未然に防ぐのも、主夫の務めですから」


 信子は唇を尖らせ、不満げに俺を見上げた。青みがかった瞳が、かすかに揺れている。


「……行っちゃうの?」

「夕食の準備までには戻ります。今日の夕食は、信子さんの好きな冷製カペッリーニにしましょう。糖度の高いフルーツトマトと、上質な生ハムをたっぷりと使って、バジルソースで仕上げます」


 俺が具体的なメニューを提示すると、信子の喉が小さく鳴ったのがわかった。


「……それから、お土産にキルフェボンのタルトも買ってきますよ。何がいいですか」

「……イチゴ。イチゴがいっぱい乗ってるやつ」

「承知しました。最高のものを選んできます」


 俺が微笑みかけると、信子は渋々といった様子で腕の力を緩めた。


「……夕方には、絶対に帰ってくること。寄り道したら、部屋ごと凍らせるからね」

「はい。約束します」


 俺が頷くと、クロエは少しだけ驚いたような顔でこちらを見ていた。


「シュン。あなたって本当に……猛獣使いね」

「ただの主夫の業務の一環ですよ。さて、出かける準備をしましょうか」

「ええ。それじゃあ、一度上の部屋で着替えてくるわ。一時間後にロビーでね」


 クロエはそう言い残し、軽く手を振ってペントハウスへと戻っていった。


 午後二時。表参道。


 手配したタクシーが、目的のショップからほど近い大通りの脇に滑り込む。ドアが開くと同時に、むっとした熱気が車内の冷気に侵入してきた。


 クロエは、光沢のあるチャコールグレーのシルクブラウスに、大胆なスリットの入ったタイトスカートという、知的ながらもどこか扇情的な装いだった。朝の乱れたノーメイク姿から一転、プロのメイクと完璧なスタイリングで武装した彼女は、まさに外資系コンサルのシニアマネージャーとしてのオーラを取り戻している。風に揺れる薄手の生地が彼女の洗練されたプロポーションを引き立て、足元には華奢なストラップのヒールサンダルを合わせていた。


 すれ違う人々が思わず息を呑むほど、洗練された都会的なオーラを放っている。


 タクシーを降りてショップの入り口に向かうまでの数十メートルですら、アスファルトの熱気で息が詰まりそうだった。俺はリネンのシャツにスラックスという涼しげな格好のまま、鞄から黒い折りたたみの晴雨兼用傘を取り出し、バサリと広げた。


 そして、自然な動作でクロエの頭上に影を作るように差し掛ける。


「シュン……?」

「日差しが強すぎます。少しでも日陰を歩かないと、体力を削られますよ。過労明けなんですから」


 俺が言うと、クロエは傘の柄を持つ俺の手と、自分の顔に落ちた涼しい影を交互に見つめ、ふっと柔らかく微笑んだ。


「あなた、本当に手慣れているわね。エスコートの仕方が、まるでプロみたい」

「この程度、エスコートのうちに入りません。六年間の会社員生活で、気難しいクライアントの接待を嫌というほどこなしてきましたから」

「ふふ、頼もしいわ」


 クロエは俺の隣にすっと寄り添い、歩幅を合わせて歩き始めた。香水ではない、彼女自身のシャンプーの微かな香りが風に乗って鼻腔をかすめる。


 目的のフレグランス専門店は、メインストリートから一本裏に入った静かな路地にあった。


 冷房の効いた店内には様々な香りが満ちており、壁一面に精油の小瓶が整然と並べられている。


 クロエはいくつかのアロマオイルを手に取り、試香紙に垂らして香りを確かめていた。


「やっぱり、ローズやジャスミンかしら。女性らしくて、華やかな気分になれるもの」


 彼女が甘い香りの小瓶を手に取ったのを見て、俺は静かに歩み寄った。


「クロエさん。少し、こちらを試してみてくれませんか」


 俺が棚から選んだのは、シダーウッドとベルガモット、そして少量のフランキンセンスがブレンドされた小瓶だった。試香紙に一滴落とし、アルコールを飛ばしてから彼女の鼻先にそっと差し出す。


 クロエは目を閉じ、ゆっくりとその香りを吸い込んだ。


「……っ」


 その瞬間、彼女の肩からスッと力が抜け、呼吸が目に見えて深くなった。


「良い香り……。なんだか、深い森の中で深呼吸しているみたい」

「華やかなローズも素敵ですが、今のクロエさんは、まだ頭が仕事モードから切り替わっていないように見えます。この少し渋いウッディな香りの方が、すっと呼吸が深くなりませんか。昨夜マッサージしたときのように、体を中からリラックスさせてくれると思いますよ」


 俺が静かに説明すると、クロエは驚いたように目を開き、それから小さく笑い声を上げた。


「……降参ね。私が頭で選ぼうとしたものより、あなたが私の身体を見て選んだものの方が、ずっと心地よいなんて」


 彼女は俺が選んだブレンドオイルと、同系統の香りのバスソルトをレジへと持っていった。


 買い物を終えた後、俺たちは近くのカフェに入った。


 アンティーク調の家具が並ぶ、落ち着いた雰囲気の店だ。俺はクロエの足元を一瞥し、奥の、座面が広く柔らかいソファ席を確保した。


「どうぞ。ヒールで少し足が張っているでしょう。靴を脱いで、足を崩しても構いませんよ。ここは死角になっていますから」


 俺が促すと、クロエは少し躊躇った後、テーブルの下でこっそりとヒールを脱ぎ、安堵の息を吐いた。


「……あなたって、本当に隙がないわね」


 運ばれてきた冷たいハーブティーのグラスを指先でなぞりながら、クロエがぽつりと呟いた。


「私、エスコートされることには慣れているつもりだった。でも、あなたと一緒にいると……なんだか、全部見透かされているみたいで、不思議と嫌な気がしないの」


 ダークブラウンの瞳が、静かに俺を捉える。そこには、サキュバスとしての魅了の力など微塵もなかった。


「見透かすなんて大層なことはしていません。俺はただ、クロエさんに少しでも心地よく過ごしてほしいだけですから。無理をして、完璧なシニアマネージャーでいる必要はありませんよ」


 俺が答えると、クロエの白い頬が、微かに、しかし確かな熱を持って朱に染まった。


 彼女は照れ隠しのようにハーブティーを一口飲み、窓の外の眩しい景色へと視線を逃がした。


「……シュン。あなたを独占できる川口さんが、本気で羨ましくなってきたわ」


 彼女はそう言って、悪戯っぽく、けれどどこか寂しげに微笑んだ。


「羨ましがられるほど大層な生活はしていませんよ。さて、そろそろ約束の時間です。信子さんに部屋ごと凍らされる前に、お土産を買いに行きましょう」

「そうね。可愛い飼い主さんのために、とびきりのイチゴタルトを選んであげなくちゃ」


 ヒールを履き直したクロエの足取りは、店に入る前よりもずっと軽やかだった。タルト専門店へと向かう道すがら、彼女はショーウィンドウに並ぶ色鮮やかなケーキを前に、サキュバスでも外資系エリートでもない、年相応の女性らしい表情を浮かべていた。


 夕方の風を浴びながら、手配した帰りのタクシーへと向かう俺は彼女の少し後ろを歩く。


 信子が主張する『一番の湯たんぽ』の座。それがどれほど贅沢なものであるか、手土産の箱を大事そうに抱えながら、俺はほんの少しだけ、自覚し始めているところだった。

【書籍発売のお知らせ】


作者の別作品『実力S級の俺、配信切り忘れで「虚無顔でボスを瞬殺する姿」が全国放送されてた件。今さら「ただの荷物持ち」とは言えない~定時で帰りたいので、追放してくれてありがとう~』第1巻が、9月4日に発売されます。


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もしご興味がありましたら、こちらもチェックしていただけると嬉しいです。


書籍の詳細は活動報告をご覧ください。

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