第26話 騒がしい休日の朝
「シャカシャカシャカシャカッ!」
静まり返ったリビングに、小気味良い摩擦音が響き渡った。
キッチンカウンターでクロエがほうじ茶の余韻に浸っているすぐ横で、真新しい白いペットフェンスの中が俄かに騒がしくなる。
音の主は、生後数ヶ月のトイプードル、モカだ。
彼が熱心に短い前足で掘り返しているのは、昨日ネット通販で届いたばかりのニトリのペット用ベッドである。接触冷感素材『Nクール』のサラサラとした表面が気に入ったのか、モカは犬特有の巣作り行動に夢中になっていた。
短い尻尾をピンと直立させ、つぶらな黒い瞳を真剣に吊り上げて布地と格闘している。シャカシャカと数秒間掘り続けた後、その場でクルッと一回転してアゴを下ろす。しかし、三秒後には「やっぱりこの角度じゃない」とでも言いたげな顔で跳ね起き、再び猛烈な勢いでホリホリと掘り始めた。
ひんやりとした生地の感触を確かめるように、鼻先を押し付けてはフンフンと匂いを嗅ぎ、また狂ったように前足を動かす。必死すぎるその姿は滑稽で、見ているだけで自然と口元が緩む。
「おはよう、モカ。新しいベッドは手強いか」
俺が小声で声をかけると、モカはピタッと動きを止め、ハッとしたようにこちらを見た。そして短い尻尾をプロペラのようにぶんぶん振りながらフェンスに飛びつき、「クゥン!」と朝の挨拶をしてくる。
その声が、十六度に保たれた静寂の終わりを告げる合図になった。
ソファの上で丸まっていたタオルケットが、もぞもぞと動く。
「……んん……モカ、うるさい……」
プラチナブロンドの髪を寝癖で少し乱した信子が、目を擦りながら身を起こした。黒のキャミソールから覗く白い肩が、冷気に晒される。
「俊作……朝ごはん……」
寝ぼけ眼で俺を探す彼女の視線が、ふと、ダイニングテーブルで止まった。
そこに、優雅にほうじ茶の湯呑みを傾けるクロエ・ミラーが座っているのを見つけた瞬間。
信子の青みがかった瞳から、寝起きのとろみが一瞬で消え去った。
ピキッ、と。
物理的な音が聞こえたような気がした。フローリングの表面がうっすらと白く曇り、リビングの空気が急激に重みを増す。設定温度十六度の冷気が、肌を刺すような絶対零度のプレッシャーへと変貌した。
「……どういうことかしら、俊作」
地を這うような、低い声。
「なぜ、うちのリビングで、その女が我が物顔でお茶を飲んでいるの?」
完全に臨戦態勢に入った雪女に対し、クロエは少しも怯むことなく、むしろ余裕の笑みを浮かべて湯呑みをコトリと置いた。昨夜のボロボロだった姿は鳴りを潜め、外資系エリートにしてサキュバスの矜持を取り戻している。
「おはよう、川口さん。昨日は彼にたっぷりと癒やしてもらってね。おかげで朝までぐっすりだったわ」
事実だけを切り取って、意図的に誤解を招くような言い回しをする。サキュバス特有の煽りスキルだ。
「……殺す」
信子の周囲で、小さな氷の結晶が舞い始めた。
「クロエさん、あまり煽らないでください。信子さんも、冷気を抑えて。フライパンの火力が落ちますし、モカが寒がっています」
俺が静かに、しかしはっきりと告げると、二人の視線が俺に向いた。
フェンスの中では、急激な気温低下を感じ取ったモカが、新しいクッションの陰に隠れて震えている。
「彼女は昨夜、過労で限界を迎えていました。俺が肩と首の強張りを解し、客間で休んでもらったんです。やましいことは一切ありません」
俺はガスコンロの火力を調整しながら、淡々と事実だけを述べた。
「……本当?」
「嘘をつくメリットが俺にはありません。ここは信子さんの家ですから、無断で誰かを泊めたことは謝罪します。すみませんでした」
俺が頭を下げると、信子は少しバツが悪そうに視線を逸らし、周囲の冷気をフッと霧散させた。
「別に、謝らなくていいわよ。……俊作がそう判断したなら、仕方ないし」
「あら、寛大なのね。飼い主の余裕かしら?」
「あなたねえ……っ」
再び火花が散りかけたその時、玄関の方からガチャリと無遠慮な音が響いた。
「おっはよー!! いやー、マジで死ぬかと思った!」
エントランスのオートロックを合鍵で突破し、嵐のようにリビングに転がり込んできたのは夏見だった。
ダメージデニムのショートパンツに、ゆったりとしたノースリーブ。その健康的な褐色の肌には微かに汗が浮き、大きな瞳の下にはうっすらとクマができている。
「徹夜明けの朝日に焼かれるかと思ったよ。あー涼しい! 俊作さーん、アタシ腹ペコなんだけど、なんか余ってない?」
靴を脱ぎ捨ててソファにダイブしようとした夏見は、そこでようやくリビングの異様な空気に気づいた。
「……あれ。クロエじゃん。朝っぱらから何やってんの? ていうか、なんであんたがいんの?」
「色々あってね。それより関さん、ずいぶんと顔色が悪いわよ。仕事のしすぎじゃない?」
「うっさい。こっちはフリーランスでカツカツなんだよ。ペントハウスで優雅に暮らしてるあんたとは違うの」
信子、クロエ、夏見。
見事に、休日の朝からとんでもない顔ぶれが一つ屋根の下に揃ってしまった。
六年間、ブラック企業で常に複数の炎上案件を同時にさばいてきた経験からすれば、この程度のカオスは日常茶飯事だ。俺は頭の中で即座に朝食の献立を再構築した。
「夏見さん、徹夜明けですか。シャワー、浴びてきますか? その間に準備しますよ」
俺が声をかけると、夏見は「マジ!? 浴びる! 俊作さん、神!」と嬉しそうに歓声を上げた。
「信子さんは、いつもの和食でいいですか。それとも夏見さんに合わせて何か別のものにしますか」
「……俊作の作ったものなら何でもいいわ。でも、私を一番優先してよね」
信子はまだクロエを睨みつけながら、ソファに深く腰を下ろした。
「承知しています」
夏見が洗面所へ向かう足音を聞きながら、俺は手早く作業を再開した。
すでにクロエに出した厚切りベーコンの残りは、フライパンの上で良質な脂を出している。そこへ、あらかじめ出汁を取っておいた小鍋を火にかけた。
徹夜明けの夏見の胃腸には、油っこいものよりも、しっかりと栄養が摂れて内臓を温めるものがいい。冷蔵庫から豚の細切れ肉、大根、人参、ごぼう、こんにゃくを取り出し、小気味良いリズムで包丁を入れていく。
ごま油で根菜と豚肉を炒め、香ばしい匂いが引き出されたところで熱い出汁を注ぎ込む。アクを丁寧に取り除きながら、自家製の合わせ味噌を溶き入れた。
仕上げに、生姜をひとかけらすりおろし、絞り汁を数滴落とす。これで、冷房と徹夜で冷え切った体が芯から温まるはずだ。
隣のコンロでは、信子のために少し甘めに味付けした卵焼きを、専用の四角いフライパンで巻き上げていく。ジュワッという音と共に、出汁と卵の焦げる甘い香りが広がる。
手際よく火口を使い分け、土鍋で炊いていたご飯の蒸らし時間も完璧に逆算する。誰のために、何を、どの温度で出すか。それを考えるのは、俺にとって純粋に楽しい時間だった。
十五分後。
シャワーを浴びてさっぱりした夏見がリビングに戻ってくる頃には、ダイニングテーブルの上に完璧な朝食が並んでいた。
炊きたての土鍋ご飯、湯気を立てる具沢山の豚汁、黄金色に輝く卵焼き、そしてカリッと焼かれた厚切りベーコン。
「うわあ……! 俊作さん、これヤバい! めっちゃいい匂い!」
夏見は濡れた髪をタオルで拭きながら、満面の笑みで席に着いた。
信子も無言でテーブルに向かい、箸を手にする。
「いただきます」
夏見が豚汁の椀に口をつけ、ズルッと一口すすった。
その瞬間、彼女の動きがピタリと止まる。
「……はぁぁぁ。染みる……。なにこれ、生姜入ってる?」
「徹夜明けは内臓が冷えていますからね。胃に負担をかけずに血行を良くするためです」
俺が麦茶のグラスを並べながら答えると、夏見は大きく頷いた。
「俊作さん、マジでうちに来ない? 報酬、信子の倍出すよ。アタシ、毎朝これ食べたい」
「ちょっと、夏見! 寝言は寝て言いなさい。俊作は私のなんだから!」
信子が卵焼きを頬張りながら、鋭く噛みついた。
「えー、いいじゃん減るもんじゃないし。ねえ俊作さーん」
「俺は今の生活で十分満足しています。それに、夏見さんの部屋はキッチンが狭すぎて、土鍋が置けませんからね」
俺がさらりと躱すと、夏見は「あーあ、振られちゃった」と笑いながら、ご飯を勢いよくかき込み始めた。
その様子を黙って見ていたクロエが、空になった湯呑みを指先でもてあそびながら口を開く。
「……シュン。私にも、その豚汁を少しもらえるかしら。なんだか、とても美味しそうに見えるのだけど」
「ダメよ。あなたはもう自分の分を食べたでしょ。これは私と夏見の分なんだから」
すかさず信子が牽制するが、クロエはどこ吹く風だ。
「あら、シュンは私にも分けてくれるはずよ。彼は誰に対しても公平で、優しいもの。……ねえ?」
クロエのダークブラウンの瞳が、わずかに挑発的な光を帯びて俺を見上げる。
俺は三人の顔を順番に見回し、小さく息を吐いた。
「おかわりは十分に作ってありますから、喧嘩しないでください」
俺は戸棚から新しい椀を取り出し、豚汁をよそってクロエの前に置いた。
「ただし、クロエさんはすでにベーコンと味噌汁を食べています。あまり食べ過ぎると、せっかく解れた胃腸にまた負担がかかりますよ。これが最後です」
「……ええ、わかっているわ。ありがとう」
クロエは少しだけ嬉しそうに目を細め、匙で豚汁をすくった。
「あ、俊作。私、卵焼きおかわり」
信子が空になった小皿を突き出してくる。
「はい。すぐ切ります」
「俊作さーん、アタシご飯おかわり! 大盛りで! あとベーコンももう一枚!」
「夏見さん、よく噛んで食べてください。消化不良を起こしますよ」
「シュン、私には食後に少し濃いめのコーヒーをもらえるかしら。ペントハウスに戻る前に目を覚ましておきたいの」
「コーヒーですね。豆を挽くので少しお待ちください」
次々と飛んでくる要求をさばきながら、俺は苦笑してキッチンとテーブルを往復する。
熱い豚汁の湯気とコーヒーの香りが混ざり合い、賑やかな三人の声が設定温度十六度のリビングを満たしていた。
ふと足元に柔らかい感触を感じて視線を落とす。
サークルから出してもらったモカが、俺のスリッパの甲にアゴを乗せ、満足そうに目を閉じていた。
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