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過労で退職したら、隣に住む雪女上司に拾われてヒモになりました  作者: 伊達ジン


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第25話 夢魔が依存する朝

 午前六時。静まり返った三〇二号室の冷気の中で、フェンスの中のモカはアヒルのぬいぐるみを抱き込んで眠り、ソファの信子もタオルケットに丸まっていた。

 俺はキッチンに立ち、静かに朝食の準備を進める。

 外はすでに真夏の強烈な日差しがアスファルトを焦がし始めているだろうが、分厚い遮光カーテンで外界と完全に隔離されたこの部屋は、今日もひんやりとした静謐に包まれていた。連日の激務に追われていたブラック企業時代には、朝を迎えること自体が恐怖だった。だが今、誰かのために静かに食材と向き合うこの時間は、俺にとって何にも代えがたい平穏なひとときになっている。


 昨夜、マッサージの途中で完全に寝落ちしてしまったクロエを、俺は客間のベッドに運んだ。彼女の筋肉の強張りは尋常ではなく、過労という言葉では足りないほど身体が悲鳴を上げていた。シニアマネージャーとしての重圧と、サキュバスとしてのプライド。その両方を背負って張り詰めていた糸が、俺の指圧によってプツリと切れたのだろう。


 コンロに重い鉄のフライパンを乗せ、中火にかける。油は引かない。パックから取り出した厚切りのベーコンを三枚、熱された鉄板の上に静かに並べた。

 ジューッという小気味良い音とともに、豚肉の良質な脂がじんわりと溶け出し、赤身の部分が反り返り始める。火を弱め、じっくりと脂を引き出していく。ベーコンの端がカリッと狐色に色づき、フライパンの底に透明な脂の海ができたところで、空いたスペースに新鮮な卵を二つ落とした。

 パチパチと脂が跳ね、透明な白身が瞬く間に不透明な白へと変わっていく。フチの部分はフライパンの熱と豚の脂で揚げ焼きのような状態になり、チリチリと香ばしい焦げ目を形成し始める。黄身には火を通しすぎない。表面にうっすらと白い膜が張った半熟の状態で火を止め、軽く黒胡椒を振る。


 隣のコンロでは、二合炊きの土鍋が微かに蒸気を上げている。火を止めて蒸らし時間を終えた土鍋の蓋を開けると、ふわりと甘い香りをまとった湯気が立ち上った。米粒の一つ一つが立ち上がり、真珠のように艶やかな光沢を放っている。


 さらに冷蔵庫から、小さなタッパーをいくつか取り出した。

 先日作って保存しておいた真鯛の昆布締めの「あまり」だ。締め終わった後の上質な真昆布と、出汁を取った後の本枯節の抜け殻。それらを細かく刻み、醤油、みりん、酒、そして少量の砂糖を加えて汁気がなくなるまでじっくりと炒り煮にした、自家製の佃煮。そして、真鯛の端材とネギのぬた和え。数日冷蔵庫で寝かせたことで酢味噌の角が取れ、味がしっかりと馴染んでいるはずだ。

 朝から特別な手間をかけたわけではない。普段の自炊で出た端材を無駄にせず、少し手を加えて常備菜にしただけだ。だが、こういうささやかな「ご飯のお供」があるだけで、朝の食卓の豊かさは劇的に変わる。


 ふと、背後から微かに衣擦れの音が聞こえた。

 振り返ると、リビングの入り口にクロエが立っていた。

 いつも完璧にセットされているダークブルネットの髪は無造作に乱れ、肩には昨夜羽織っていたダークグレーのジャケットの代わりに、客間に置いてあった大きめのブランケットをすっぽりと羽織っている。足元はおぼつかなく、ダークブラウンの瞳にはまだ強い睡魔の余韻が残っていた。昨夜の濃密な香水の匂いはすっかり飛び、ほのかにシーツの柔軟剤の香りがする。


「おはようございます。よく眠れたようですね」


 俺が静かな声で呼びかけると、クロエはハッとしたように目を瞬かせ、慌ててブランケットの襟元をかき合わせた。


「お、おはよう……。私、いつの間に……」

「マッサージの途中で完全に力が抜けてしまったので、客間のベッドに運びました。そのまま朝まで、一度も目を覚ましませんでしたよ」

「嘘……」


 クロエは片手で顔を覆い、小さく呻いた。男を誘惑するどころか、無防備な寝顔を晒して朝まで熟睡してしまった自分の失態を嘆いているのだろう。しかし、指の隙間から覗く耳の先が微かに赤く染まっているのを、俺は見逃さなかった。


「洗面所に新しいタオルと歯ブラシを出してあります。顔を洗ってきたらどうですか。ちょうど朝食ができたところです」


 俺が促すと、クロエは少しバツが悪そうに視線を泳がせ、「……ありがとう」とだけ呟いて洗面所へと向かった。


 数分後、冷水で顔を洗って少しだけスッキリとした表情になった彼女が、ダイニングテーブルの席に着いた。ノーメイクの素顔は、普段のシャープな印象から少し幼く見え、どこかあどけなさすら感じさせた。


 目の前に置かれたのは、炊きたての土鍋ご飯、厚切りベーコンエッグ、自家製の昆布と鰹節の佃煮、真鯛のぬた和え、そして豆腐とワカメの味噌汁。


「ベーコンの脂は朝の胃には少し重いかもしれませんが、しっかり休んだ今のクロエさんには、これくらいガツンとしたカロリーが必要かと思いまして」

「……これ、全部シュンが今朝作ったの?」

「佃煮とぬた和えは先日作っておいたものです。大したものではありませんが、温かいうちにどうぞ」


 クロエはおずおずと箸を手に取り、「いただきます」と小さく手を合わせた。

 少し不器用な手つきで箸を使い、ベーコンエッグの黄身をそっと割る。流れ出した濃厚なオレンジ色の卵黄をベーコンの塩気と脂に絡め、そのまま一口大のご飯と一緒に口へと運んだ。


 その瞬間、クロエの動きがピタリと止まった。


 サクッとした白身の食感、豚肉の強烈な旨味、そしてそれを包み込む卵黄のコク。それらが、土鍋で炊き上げられた白米の圧倒的な甘みと口の中で完璧に融合する。

 次に、自家製の佃煮をご飯に乗せて口に運ぶ。出汁の旨味を極限まで吸い込んだ昆布と鰹節の甘辛い風味が、さらに食欲を加速させる。


「……っ」


 優雅に魅了する余裕も忘れ、今の彼女はただ純粋に、空っぽになった身体へと夢中で飯を運び続けていた。

 無言のまま、次々と箸を進める。ベーコンの脂と塩気をほかほかの白米で中和し、合間にぬた和えの酸味で口の中をさっぱりさせる。そしてまた、卵黄の絡んだご飯を頬張る。

 俺は自分も向かいの席に座り、静かに自分の分の食事を進めた。限界まで疲労していた身体が、急激に栄養を欲しているのだ。その切実なペースを乱さないよう、あえて言葉はかけない。

 ただ、彼女の青白かった頬に少しずつ赤みが差し、生命力が戻っていくのを見守る。


 やがて、クロエは最後の一口を飲み込み、味噌汁の椀を両手で包み込んでゆっくりと息を吐いた。


「……ごちそうさま。すごく、美味しかった」

「お粗末様でした。胃に負担はありませんでしたか」

「ええ。なんだか、身体の芯からじんわりと温かくなったみたい。……お腹いっぱい」


 クロエは満足そうに目を細め、少しだけ背筋を伸ばして息をついた。

 俺は立ち上がり、空になった食器をシンクへ下げた。そして、あらかじめお湯を沸かしておいた鉄瓶を手に取り、少し湯冷ましをしてから急須に注ぐ。


 茶葉は加賀棒茶。一番摘みの良質な茎だけを浅く焙煎したこのほうじ茶は、独特の香ばしさとスッキリとした甘みが特徴だ。朝の冷えた身体と、脂の回った胃袋に優しく染み渡る。

 湯呑みに注ぎ、クロエの前に置いた。琥珀色の液体から、ほうじ茶特有の甘く香ばしい湯気が、十六度の冷気の中で白く立ち上る。


「どうぞ。加賀の棒茶です」

「……ありがとう」


 クロエは両手で湯呑みを包み込み、その温もりを確かめるようにじっと見つめた。一口飲み、ほうじ茶の香りが鼻腔を抜けると、彼女はふっと自嘲気味な笑みをこぼした。


「……ずるいわね、シュンは」

「俺が何かミスをしましたか」

「そうじゃない。完璧すぎるのよ。……昨日からずっと、私のペースは崩されっぱなし。私が主導権を握って、あなたを虜にするはずだったのに」


 クロエは湯呑みを見つめたまま、ぽつりと呟いた。その声には、いつもの余裕に満ちた艶っぽさはない。ひどく等身大で、弱々しい響きだった。


「どうして私が依存してるのよ……」


 絞り出すような、切実な声だった。

 彼女のダークブラウンの瞳の奥で、微かに水面が揺れた。強固な鎧の下に隠されていた、誰かに寄りかかりたいという純粋な渇望が、溢れ出しそうになっていた。


「依存じゃありません」


 俺は自分の湯呑みを置き、静かに言葉を返した。


「人は疲れたら立ち止まって、温かいものを食べて寝る。それだけのことです。あなたがこれまで、一人で走りすぎてきただけですよ」

「……でも、私は……悪魔で、男を誘惑するのが……」

「ここでは関係ありませんよ。シニアマネージャーだろうが、サキュバスだろうが、無理をすれば身体は悲鳴を上げます。現に、昨夜マッサージした時のあなたの背中は、板のように硬かった」


 俺はクロエの目を真っ直ぐに見据えた。


「少なくともこの部屋の扉の内側にいる間くらいは、誰かに寄りかかっても罰は当たりません。俺は月給をもらってこの家の環境を維持するプロです。あなたに快適だと思ってもらえたなら、それは俺の仕事がうまくいったというだけのことです」

「……理屈っぽい」

「元営業ですから。それに」


 俺は少しだけ口角を上げた。


「俺の淹れたお茶がないと一日が始まらないと言うなら、茶葉ならいくらでもあります。明日も、明後日も」


 その言葉が、クロエの中に残っていた最後の防壁を完全に粉砕した。


「……っ、ばか。そんなこと言われたら……もう、元の生活になんて……戻れなくなるじゃない……」


 クロエは両手で顔を覆い、肩を震わせた。指の隙間から、ポロポロと透明な雫がこぼれ落ち、フローリングの床に小さな染みを作る。

 それは悲しみの涙ではない。長年背負ってきた重圧から解放され、ようやく見つけた絶対的な安心感に対する、純粋な安堵の涙だった。


 十六度の冷気の中で、加賀棒茶の香ばしい匂いだけが静かに漂っている。


 俺はそれ以上何も言わず、ただ彼女の震えが治まるまで、静かに温かい茶を啜り続けた。

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作者の別作品『実力S級の俺、配信切り忘れで「虚無顔でボスを瞬殺する姿」が全国放送されてた件。今さら「ただの荷物持ち」とは言えない~定時で帰りたいので、追放してくれてありがとう~』第1巻が、9月4日に発売されます。


現在予約受付中です。


もしご興味がありましたら、こちらもチェックしていただけると嬉しいです。


書籍の詳細は活動報告をご覧ください。

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