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過労で退職したら、隣に住む雪女上司に拾われてヒモになりました  作者: 伊達ジン


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第24話 夢魔と癒やしの蕎麦

 夏見が嵐のように現れ、そして去っていってから数日が過ぎた。

 八月下旬。時刻は午後十一時を回ろうとしている。窓の外は相変わらずアスファルトの熱を溜め込んだ熱帯夜だが、分厚い遮光カーテンで完全に外界と隔離された三〇二号室のリビングは、今夜も設定温度十六度の涼やかな、いや、明確な冷気で満たされていた。


 新しいペットフェンスの中で、生後数ヶ月のモカは夏見が置いていった巨大な黄色いアヒルのぬいぐるみに顎を乗せ、スヤスヤと平和な寝息を立てている。先日あんなに振り回して仕留めにかかっていたのに、今ではすっかり一番の抱き枕としてお気に入りらしい。仰向けになったピンク色のお腹が、規則正しく上下している。

 そしてソファの上では、信子が抱き枕を抱え込むようにして深い眠りに落ちていた。薄いタオルケットから覗くプラチナブロンドの髪が、部屋の冷たい空気を帯びて微かに白く曇っている。寝返りを打つたびに、雪女特有の涼やかな吐息が室内の空気をさらに澄んだものにしていく。


 俺はキッチンカウンターに立ち、明日の朝食の下ごしらえを静かに進めていた。

 真昆布と鰹節から出汁を引き、黄金色に透き通ったそれをタッパーへ移して粗熱を取る。六年間のブラック企業勤めで染み付いた夜型のサイクルはそう簡単には抜けない。しかし、胃を締め付けるような明日の仕事への不安や、いつ鳴り響くか分からない社用スマホの恐怖がないだけで、この深夜のキッチンでの作業は驚くほど心穏やかなものだった。自分の手で作ったものが、誰かの健やかな明日を作る。その実感だけが、今の俺を確かに満たしている。


 ふと、エントランスからではなく、三〇二号室のドア前のインターホンが控えめに鳴った。

 モニターを確認すると、そこに映っていたのは最上階のペントハウスに住むサキュバス、クロエ・ミラーだった。しかし、いつものように妖艶なネグリジェ姿や、計算し尽くされた隙のないカジュアルウェアではない。ダークグレーのタイトなビジネススーツに身を包み、肩には重そうなレザーの仕事用バッグを提げている。


 足音を忍ばせて玄関に向かい、そっとドアを開ける。廊下の生ぬるい空気が、部屋の冷気に混ざり込んだ。


「こんばんは、クロエさん。お仕事帰りですか」

「……ええ。遅い時間に、ごめんなさい。下の階の明かりがついていたから」


 クロエは微かに微笑んだが、俺の目は彼女の僅かな異変を正確に捉えていた。

 まず、彼女の足元。いつもなら大理石の床をカツカツと小気味よく鳴らすピンヒールが、今日は音を殺すように、いや、持ち上げる気力もないように擦って歩いている。足の裏が限界まで疲労している証拠だ。

 そして、匂い。彼女から漂う甘く濃密な香水の香りに混じって、極度のストレスと長時間のデスクワーク特有の、神経をすり減らしたような乾いた匂いが僅かに感じられた。PCの排熱と埃の入り混じったような、社畜にはお馴染みのあの匂いだ。


「自分の部屋に帰ると、どうにも仕事モードが抜けなくてね。少しだけ、ここで息抜きさせてもらってもいいかしら」

「もちろん。どうぞ、入ってください。少し部屋が冷えていますが」

「……ありがとう。今の私には、それくらいがちょうどいいわ」


 俺は彼女の肩から重いレザーバッグを受け取り、リビングへと案内した。中には分厚い資料かノートPCが入っているのだろう、ずっしりとした重みがあった。

 クロエはソファで眠る信子をちらりと見てから、ダイニングテーブルの椅子に静かに腰を下ろした。

 その肩のラインは強張り、ジャケットの背中には長時間座り続けていたことを示す不自然な皺が寄っている。普段ならシワ一つない完璧な身だしなみを好む彼女が、自分の背中を気にする余裕すら失っている証拠だ。


「何か、冷たいお飲み物にしましょうか。それとも、少し胃に入れますか。無理にとは言いませんが」


 俺が尋ねると、クロエは首を小さく回し、疲れたように目を細めた。


「……そうね。あまり重くないもので、喉を通りやすいものがあるかしら。今日は一日中、ブラックコーヒーとサプリメントしか口にしていないの」


 外資系コンサルティングファームのシニアマネージャー。その肩書きが求める激務は、俺の想像を絶するものだろう。彼女はサキュバスとしてのプライドと大人の女としての余裕で強がっているが、その内側は間違いなくガス欠寸前だった。


「分かりました。少し待っていてください。すぐに用意します」


 俺は冷蔵庫を開け、先日長野から取り寄せておいた『雪村蕎麦』の生麺を取り出した。こういう、胃が疲弊しきっている夜には、冷たくて喉越しの良い蕎麦が一番だ。それに合わせる薬味として、長ネギと、瑞々しい本わさびを用意する。

 鍋にたっぷりの湯を沸かしながら、まずは薬味の準備にとりかかる。長ネギは繊維に沿って極細の白髪ネギにし、すぐに氷水に放つ。こうすることでネギ特有の辛味が抜け、シャキッとした心地よい食感だけが残る。

 次に本わさびだ。サメ皮のおろし器を使い、力を入れずに『の』の字を描くように、ゆっくりとすりおろしていく。クリーミーで爽やかな青々しい香りが、キッチンの冷気に広がっていく。

 傍らで、つけつゆの準備も整える。かえしと出汁を合わせ、キリッと冷やしておく。


 湯が激しく沸騰したところで、生蕎麦をパラパラとほぐしながら投入する。菜箸で大きくかき混ぜ、吹きこぼれないように火加減を調節しながら、指定の茹で時間よりも数十秒だけ早く引き上げた。

 ここからのスピードが命だ。すぐに流水でザブザブともみ洗いして表面のぬめりを徹底的に取り除き、最後はあらかじめ用意しておいた氷水に浸して一気に麺を締める。この急激な温度差が、蕎麦に強烈なコシと喉越しを生むのだ。

 水気を徹底的に切り、竹ざるにふんわりと山高に盛り付ける。傍らに水気を切った純白の白髪ネギと、すりおろしたばかりの淡い緑色の本わさびを添えた。


「お待たせしました。雪村蕎麦です」


 クロエの前にざるを置き、冷たく冷やしたそばつゆの入った猪口を添える。


「わあ……」


 クロエは小さく感嘆の声を漏らし、割り箸を手にした。


「わさびはつゆに溶かさず、蕎麦に少しだけ乗せて、つゆを半分ほどつけて食べてみてください」


 俺の言葉に従い、彼女は箸の先でほんの少しだけわさびをすくい、蕎麦に乗せて口に運んだ。


 チュルッ、という小気味よい音が鳴る。

 その瞬間、クロエの目が大きく見開かれた。


「……美味しい」


 ぽつりと漏れたその声には、一切の虚勢がなかった。


「氷水で締めた蕎麦の冷たさが、すごく気持ちいいわ。それに、このわさび……全然ツンとしない。むしろ甘みがあって、香りが鼻に抜けていく……」

「本わさびをサメ皮で空気を含ませるようにおろすと、辛味成分が飛んで本来の香りと甘みが引き立つんです。金属製のおろし器で乱暴にすりおろした時の刺激臭とは違って、疲れた胃にはこういう爽やかな香りが一番ですから」


 俺の言葉にコクコクと頷きながら、クロエは無言で箸を進めた。サキュバスとしての妖艶なオーラも、エリートコンサルタントとしての完璧な鎧も、今は完全に脱ぎ捨てられていた。ただ、目の前の冷たい蕎麦に没頭し、身体の熱と疲労を静かに冷ましていく一人の女性の姿がそこにあった。

 ズズッ、という音とともに蕎麦が喉を通り抜けるたび、彼女の強張っていた肩のラインが少しずつ下がっていくのがわかる。

 数分で、ざるは綺麗に空になった。


「ごちそうさま。なんだか、身体の中から生き返ったみたい」


 食後の温かい蕎麦茶を出すと、クロエは両手で湯呑みを包み込むように持ち、深く息を吐いた。蕎麦茶の香ばしい匂いが、彼女をさらにリラックスさせる。

 しかし、彼女が湯呑みを持つその指先は、まだ微かに強張っていた。時折、無意識に首を傾け、肩の辺りに手をやっている。


「首から肩にかけて、かなり張っているみたいですね」


 俺が指摘すると、クロエは苦笑して肩をすくめた。


「分かる? 今週は大型案件のクロージングで、海外のクライアントと深夜のコンコールがずっと続いていたの。毎日十時間はPCの前に座りっぱなし。……さすがの私も、少しガタがきているみたいね」


 その言葉を聞いて、俺は彼女の背後に静かに回り込んだ。


「少し、失礼しますね」

「え……?」


 クロエが驚くより早く、俺は彼女の肩に両手を置いた。

 ジャケット越しでもはっきりと分かるほど、彼女の僧帽筋は硬く石のように強張っていた。血流が滞り、筋肉が悲鳴を上げている状態だ。ただでさえ体幹を酷使するピンヒールを履き続け、その上で極度のプレッシャーに晒されていたのだろう。


「かなり重症ですね。少し、解しましょう」


 親指の腹を使い、頸椎の付け根から肩甲骨に向かって、ゆっくりと垂直に圧をかけていく。力任せに揉むのではなく、筋肉の繊維を正確に捉え、深層にある凝りの芯を静かに溶かしていくようなイメージだ。


「っ……あ……」


 クロエの口から、微かな、しかし抗えないような吐息が漏れた。サキュバスとしての計算された色っぽい吐息ではない。純粋に、蓄積された疲労が解放される時の声だ。


「痛いですか?」

「ううん……そこ、すごく……効く……」


 彼女の身体から一気に力が抜け、椅子に深く身を預けてくる。


 俺は指の腹を使って、首筋の胸鎖乳突筋を優しくほぐしていく。彼女の体温が上がり、先ほどの乾いた香水の匂いが、本来の甘く柔らかい香りへと変化していくのを感じた。


「……ミスター・パーフェクトは、マッサージまでプロ並みなのね。ずるいわ」


 目を閉じたまま、クロエが微かに掠れた声で呟く。


「昔から、親や同僚の肩を揉まされていましたから。ただの経験則ですよ」


 淡々と答えながら、俺は肩甲骨の縁に沿って指を滑らせる。


「クロエさん」

「……なに?」

「これだけ筋肉が固まるまで、ずっと気を張っていたんですね」


 俺の言葉に、クロエの肩が微かに跳ねた。


「異国の地で、結果を出し続けるのは簡単なことじゃないはずです。あなたは十分に有能で、強い人だ。だから……せめてこの部屋にいる時くらいは、無理に完璧な鎧を着ようとしなくていいんですよ」


 安っぽい同情でも、気休めでもない。彼女の強張った筋肉が物語る圧倒的な努力と疲労を、俺の指先が直接理解した上での言葉だった。

 クロエはしばらく黙っていたが、やがて小さく、鼻をすするような音が聞こえた。


「……シュンって、本当に……意地悪ね。誰も、私がこんなに疲れてるなんて気づかないのに」


 声は震えていた。彼女の目から溢れたものが、俺の手の甲に温かく落ちた気がした。俺は何も言わず、ただ静かに、彼女の身体に溜まった見えない疲労を指先から逃がしていく作業を続けた。


 十五分後。

 マッサージで血流が改善したことと、張り詰めていた糸が切れたことで、クロエは急激な眠気に襲われたようだった。

 彼女は椅子の背もたれに深く寄りかかり、静かな寝息を立て始めた。その寝顔は、サキュバスの妖艶さとは無縁の、どこかあどけなく無防備なものだった。

 俺は彼女の肩にそっとブランケットを掛け、キッチンの照明を一段階落とした。


 食器をシンクへ運びながら、静まり返ったリビングを見渡す。

 ソファで丸くなる雪女。ペットフェンスの中でアヒルを抱える子犬。そして、椅子で眠りに落ちた夢魔。


「お疲れ様です」


 誰にともなく小さく呟き、俺は冷たい水で包丁を洗い流した。

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