第23話 酔いどれ鬼娘と氷点下
八月も最終週を迎えたというのに、窓の外ではアスファルトを焦がすような猛烈な日差しが降り注いでいる。しかし、分厚い遮光カーテンで外界から完全に隔離された三〇二号室のリビングは、季節感という概念を物理的に排除したかのように、今日も設定温度十六度の涼やかな冷気が絶え間なく吹き抜けていた。
新しく設置した白いスチール製のペットフェンスの中で、生後数ヶ月のモカは、この広々とした空間を完全に自分の安全なテリトリーとして認識したようだった。先日、新しいフェンスを設置した直後には見慣れない環境に警戒して部屋の隅で縮こまっていたのが嘘のようだ。今はふかふかのクッションベッドの真ん中で見事な仰向け——いわゆる『へそ天』の体勢になり、ピンク色のお腹を無防備に晒してスヤスヤと平和な寝息を立てている。時折、夢の中で獲物でも追いかけているのか、短い後ろ足がピクッと動くのがたまらなく愛らしい。
俺はキッチンカウンターに立ち、静かな冷気の中で夕食兼晩酌の仕込みを進めていた。
冷蔵庫のチルド室から取り出したのは、昨夜から仕込んでおいた真鯛の柵だ。表面の水分を丁寧に拭き取り、酒で湿らせた厚手の昆布でしっかりと挟み込み、ラップで密閉して一晩寝かせておいたもの。包丁を入れる前から、昆布の芳醇な香りが冷えた空気の中に微かに漂い始める。
よく研いだ柳刃包丁を寝かせ、薄造りにしていく。刃先から伝わる身の締まり具合と、琥珀色に透き通った切り口から、昆布の旨味が白身の奥まで完璧に浸透していることが分かった。これを、あらかじめ冷蔵庫でよく冷やしておいた平皿に円を描くように美しく並べ、中心にすだちと粗塩を添える。
隣のまな板に視線を移し、夏野菜の下ごしらえにかかる。オクラ、みょうが、大葉、それに少しのキュウリを包丁で細かくみじん切りにしていく。トントンという小気味良い音が静寂なキッチンに響き、みょうがと大葉の爽やかな香りがふわりと立ち上った。これらをボウルに移し、少量の白だしと合わせて山形の郷土料理である「だし」を作った。これをよく冷えた絹ごし豆腐にたっぷりと乗せれば、夏のバテ気味な胃腸にも優しく、それでいて気の利いた極上の酒の肴になる。鮮やかな夏野菜の緑色が、純白の豆腐によく映えていた。仕上げに少量の良質なごま油を垂らすと、さらに風味が引き立ち、食欲をそそる完成度になった。
一通りの仕込みを終え、手を拭きながらソファの方へ視線を向ける。
そこでは、黒のキャミソールにショートパンツというラフな部屋着姿の信子が、薄いタオルケットにくるまってうとうとしていた。彼女が規則正しい呼吸をするたび、室内の冷気と反応して吐息が微かに白く曇る。その無防備でだらしない寝顔は、会社で『氷の女帝』として恐れられ、部下たちを震え上がらせていた頃の面影を微塵も感じさせない。六年間の社畜生活で限界までささくれ立っていた俺の神経は、この静かな部屋で彼女の無防備な寝顔を見守り、彼女のための料理を作っているだけで、驚くほど平穏を取り戻していくのを感じていた。
静寂の中、控えめな電子音が鳴った。
エントランスのオートロックからではなく、直接この三〇二号室の玄関のインターホンが押された音だ。
包丁をきれいに拭き取り、モカと信子を起こさないように足音を殺して玄関へ向かう。モニターを確認すると、そこには見慣れた顔があった。
フリーランスのデザイナーであり、信子の悪友でもある関夏見だ。彼女は大きな紙袋を両手で大事そうに抱え、モニター越しでも分かるほど上機嫌な、そして少し赤い顔で笑みを浮かべていた。
ドアの鍵を開け、ノブを手前に引く。
その瞬間、廊下に籠もっていたうだるような熱気と共に、ふわりと甘く強い酒の匂いが流れ込んできた。
「俊作さーん! 遊びに来たよー!」
挨拶もそこそこに、夏見が玄関の三和土を飛び越えるような勢いで俺の胸元に飛び込んできた。
小柄ながらも引き締まった体が、俺の首に腕を回して全体重を預けてくる。彼女から放たれる熱量は尋常ではなく、まるで稼働中のサウナの熱源を直接抱き止めたかのような錯覚に陥る。普通の人間なら不意打ちでよろめいてしまう勢いだったが、俺は反射的に右足を引き、腰を深く落としてその衝撃を柔らかく吸収した。同時に、彼女が左手に提げていた紙袋――中から複数のガラス瓶がぶつかる硬質な音がした――が壁に激突しないよう、空いた右手で彼女の手首を優しく押さえて軌道を逸らす。六年間、酔っ払った上司や取引先の理不尽な絡みを無傷でいなしてきた経験が、こんなところで役に立つとは皮肉なものだ。
「夏見さん。歓迎しますけど、そんな勢いだと瓶が割れますよ」
俺が冷静に指摘すると、夏見は俺の首に抱きついたまま、至近距離で見上げて「えへへ」と悪びれずに笑った。大きな瞳はすでにうっすらと潤みを帯びており、呼気からは高級な日本酒の香りがする。すっかり出来上がっている状態だ。
「いいじゃん、割れてないし。それより俊作さん、相変わらず良い匂いするね。お出汁と……なんか落ち着く匂い。あー、なんかアタシもここで飼われたくなってきたなー」
健康的な褐色の肌が、俺の胸元に擦り寄ってくる。鬼の血を引く『酒呑童子』である彼女は、信子の持つ『氷』の属性とは対極にある『陽』と『熱』の塊だ。酒の熱も相まって、密着している部分からじわじわと汗が滲んでくるのが分かる。
その時だった。
「……何をしているの、夏見」
背後から、肌を刺すような、重く鋭い冷気が押し寄せてきた。
振り返らなくても分かる。リビングから玄関へ続く廊下の空気が、文字通り氷点下まで急降下していた。
夏見の腕をほどきながら視線を向けると、そこには信子が立っていた。
タオルケットを片手で引きずりながら立つ彼女の足元から、フローリングの床にうっすらと白い霜が広がり、急激な温度低下によって空気中の水分が小さな氷の結晶となってキラキラと舞い落ちていた。プラチナブロンドの髪は周囲の冷気を帯びて霜を纏い、青みがかった瞳は一切の感情を排した絶対零度の光を宿している。彼女の足元からは、パキパキという微かな音とともに、フローリングを覆う霜が着実にこちらへと侵食してきていた。
「あはは、信子おっはよー。いやー、俊作さん成分が足りなくてさ、つい」
夏見は俺から離れると、全く怯む様子もなく陽気に手を振った。
「私の俊作に、気安く触らないでくれるかしら」
信子の声は低く、そして恐ろしいほど静かだった。
廊下の壁紙がパキ、パキと嫌な音を立てて冷縮していく。冗談ではなく、このままではマンションの構造材にダメージを与えかねないレベルの冷気だ。
俺は夏見から受け取った紙袋をそっと床に置き、二人の間に自然な動作で割り込んだ。
「信子さん、ちょうど良かったです。信子さんのために、特別に仕込んでおいたおつまみの準備ができました。真鯛の昆布締めが良い具合に仕上がっていますよ。夏見さんが買ってきてくれた純米酒と、冷やして合わせましょうか」
説教でもなく、宥めるわけでもない。ただ、現在の状況に対する最も合理的で魅力的な「提案」を、彼女の自尊心を満たす言葉とともに口にする。
「……私のための、真鯛の昆布締め」
絶対零度だった信子の瞳に、微かな揺らぎが生じた。宙を舞っていた氷の結晶の動きが、ふっと緩やかになる。
「ええ。それに、オクラやみょうがなどの夏野菜を細かく刻んだ『だし』も作ってあります。冷奴にたっぷりと乗せて。食欲がなくても、スッと胃に入りますよ」
「……食べる」
数秒の沈黙の後、信子はぽつりと呟いた。足元から広がっていた霜が、スーッと引いていく。
彼女の怒りを鎮めるには、言葉を尽くすよりも、胃袋を掴む具体的な想像を提供し、二人だけの特別感を示す方が早い。
「では、準備をしますのでリビングでお待ちください。夏見さんも、手洗いうがいをしてからにしてくださいね。外の熱気を持ち込まれると、信子さんが不機嫌になりますから」
「はーい、了解!」
夏見が洗面所へ向かうのを見届け、俺は紙袋を持ってキッチンへと戻った。
十分後。
リビングのダイニングテーブルには、透き通るような真鯛の薄造りと、色鮮やかな夏野菜が乗った冷奴、そしてよく冷えた純米酒のグラスが並んでいた。
「くぅーっ! 昼間から冷えた日本酒と俊作さんの料理、最高!」
夏見は早々にグラスを空け、満足げに息を吐いた。
信子も対面で黙々と真鯛を口に運んでいる。すだちを絞り、粗塩でいただく昆布締めは、日本酒の旨味をこれ以上ないほどに引き立てる。彼女の表情からは先ほどの怒りは完全に消え失せ、昆布の旨味を噛み締めるように目尻をだらしなく下げていた。
「そういえばさ」
二杯目の酒を注ぎながら、夏見が思い出したように持参したトートバッグを探り始めた。
「俊作さんばっかりに面倒かけちゃってるから、モカちゃんにも手土産買ってきたんだよね」
そう言って彼女が取り出したのは、犬用のおもちゃだった。
しかし、それはよくあるボールやロープではなく、モカの体長と同じくらいはありそうな、少し間抜けな顔をした黄色いアヒルのぬいぐるみだった。中に笛が入っており、押すと「ガーッ」と音が鳴る仕組みらしい。
「ほらモカちゃん、プレゼントだよー」
夏見がフェンスの中にアヒルを放り込んだ。
ビクッ、とモカが跳ね起きた。
見慣れない黄色い巨大な物体が自分のテリトリーに落ちてきたことで、モカは尻尾を股の間に巻き込み、クッションの陰に隠れてしまった。
「あら。大きすぎたかしら」
信子が箸を止め、不思議そうに見つめる。
モカはしばらく物陰から様子を窺っていたが、アヒルが全く動かないことに気づくと、おずおずと近づき始めた。
鼻先を伸ばし、フンフンとその匂いを嗅ぐ。
そして、鼻先がアヒルのくちばしに触れた瞬間。
『ガーッ!』
アヒルの腹部から、間の抜けた音が鳴った。
それが、引き金だった。
その直後、モカの態度が豹変した。
今まで垂れていた耳がピンと立ち、巻き込まれていた短い尻尾がアンテナのように直立する。丸く黒い瞳が、獲物を狙う野生のそれへと変わった。
「ヴゥゥゥ……!」
低い唸り声を上げたかと思うと、モカはアヒルの首元にガブリと噛み付いた。
そして、そのままの勢いで、左右に激しく首を振り始めたのだ。
「えっ」
夏見が目を丸くする。
小さな茶色い毛玉が、自分と同じくらいのアヒルを咥えたまま、ブンッ! ブンッ! と凄まじい勢いで振り回している。さらには前足でアヒルを床に押さえつけ、小さな口で何度も噛み直し、前足で連続猫パンチのような打撃を加え始めた。
それはまるで、はるか昔、祖先たちが水辺で獲物を狩っていた記憶を呼び覚ましているかのような、無駄のない動きだった。
「キャン! ヴゥゥ……ガウッ!」
徹底的だった。急所を的確に狙い、息の根を止めるかのような野生のステップ。普段、信子の指を甘噛みして腹を出している愛らしい姿からは全く想像もつかない、猟犬としての本能の爆発だった。
フェンスの中では、黄色いアヒルが無残に振り回され、時折「ガッ……ガーッ……」と悲鳴のような音を漏らしている。
「あ、あははははっ! 何あれ、モカちゃんめっちゃキレてるじゃん!」
数秒の唖然とした沈黙の後、夏見がテーブルを叩いて大爆笑した。
信子も、口元を両手で覆いながら、肩を震わせている。
「……俊作、モカが、アヒルさんを仕留めにかかってるわ」
「ええ。プードルは元々水鳥を回収する猟犬ですからね。本能が刺激されたんでしょう。立派なハンターぶりです。あの小さな体のどこに、あんな闘争心が隠れていたのやら」
俺は空になった夏見のグラスに純米酒を注ぎ足しながら、静かに微笑んだ。
フェンスの中では、完全に「仕留めた」と判断したのか、モカがアヒルの上に前足を乗せ、誇らしげに息を切らしていた。
その少し間抜けで勇敢な姿に、部屋の空気を覆っていた張り詰めた冷気は、いつの間にか完全に溶け去っていた。
平和を取り戻したリビングに、今度は軽快な油の弾ける音が響き始める。夏見の底なしの胃袋と、信子の旺盛な食欲を満たすには、まだまだ料理を作り続ける必要がありそうだ。
俺は真鯛の皿が空になりかけているのを確認し、次のつまみを作るために静かに包丁を握り直した。
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