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過労で退職したら、隣に住む雪女上司に拾われてヒモになりました  作者: 伊達ジン


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第22話 夢魔と女帝と洗濯物

 八月下旬。窓の外では、アスファルトを溶かさんばかりの強烈な西日が照りつけている。しかし、分厚い遮光カーテンで外界から完全に隔離された三〇二号室のリビングは、今日も設定温度十六度の容赦ない冷気で満たされていた。


 俺はフローリングの上に部品を広げ、プラスドライバーを手に作業を進めていた。


 今日届いたのは、白いスチール製のペットフェンスだ。生後二ヶ月のモカが少しずつ大きくなり、これまでの小さなサークルでは手狭になってきたため、リビングの一角を広々と囲う新しいプレイスペースを注文していたのだ。


「俊作、もう少し右かしら。あ、やっぱりこっちかも」


 黒のキャミソール姿の信子が、床にぺたんと座り込みながら指示を出してくる。その膝の上では、当のモカが仰向けになって信子の冷たい指先に甘噛みし、無邪気にじゃれついていた。


「ジョイントの向きが決まっているので、この配置が一番安定するんです。はい、これで完成です」


 最後のネジを締め上げ、フェンスの扉のロックが正常に機能するかを確認する。リビングの約四分の一を占める、立派な新しい「家」が完成した。中に新しいクッションベッドや給水器、お気に入りのロープのおもちゃを配置する。


「よし、モカ。新しい家だぞ」


 俺が信子からモカを受け取り、フェンスの中にそっと下ろした。


 しかし、モカの反応は予想とは少し違った。


 床に足をついた瞬間、モカは短い尻尾を股の間にきゅっと巻き込み、耳をペタンと後ろに伏せた。丸く黒い瞳が不安げに揺れ、そろそろと慎重な足取りで歩き始める。フェンスの端から端まで、スチール柵の冷たい匂いと、敷きたての真新しいマットの匂いを、小さな鼻をヒクヒクさせて念入りに嗅いで回る。


 未知の広すぎる空間に対する、本能的な警戒だ。


 やがて一通り匂いを嗅ぎ終えると、モカはフェンスの隅っこにちょこんと座り込み、「キュン……」と細く心細い声を漏らした。そして、フェンスの外にいる信子の方へ向かって、短い前足を柵にかけ、すがりつくように鳴き声を上げる。


「ああっ、モカが怯えてる……! 俊作、どうしよう。広すぎて怖いのかな」


 信子が不安そうに眉を下げ、フェンス越しに指を差し出した。モカはその冷たい指先を必死にペロペロと舐めるが、柵の向こう側に行けないもどかしさから、さらに「クゥーン」と鼻を鳴らす。


「まだ自分のテリトリーだと認識できていないだけですよ。匂いが馴染めば落ち着きます」


 俺はフェンスの扉を開け、自ら中へと入り込んで床に胡座をかいた。


「ほら、モカ。大丈夫だぞ」


 低い、落ち着いた声で呼びかけ、手のひらを上に向けて差し出す。


 モカは俺の顔と手を交互に見つめ、それからトコトコと歩み寄ってきた。俺の指先の匂いを嗅ぎ、三十六度の体温に触れた瞬間、ふっと緊張の糸が切れたように身体の力を抜いた。


 そのまま俺のあぐらをかいた足の間に潜り込み、スウェットの生地に顔を押し付けるようにして丸くなる。俺がその柔らかい背中をゆっくりと一定のリズムで撫でてやると、ようやく安心したのか、「くぅ」と喉を鳴らして目を細めた。


「よかった……。俊作の体温、モカにとっても一番安心するのね」


 信子もフェンスの中に入ってきて、俺の横に座り込んだ。彼女のひんやりとした手がモカのお腹を優しく撫でると、モカは完全に警戒を解き、ごろんと仰向けになって無防備な姿を晒した。


 冷え切った部屋の中の、小さなひだまりのような光景だった。


 俺と信子が顔を見合わせて小さく微笑んだ、その時だった。


『ピンポーン』


 静かなリビングに、インターホンの電子音が響いた。


 エントランスのオートロックを介さず、直接玄関前からの呼び出し。このマンションでそれをやってくるのは、一人しかいない。


「……また、あの女」


 信子の顔から柔らかな微笑みが一瞬で消え去り、「氷の女帝」の鋭い視線へと切り替わった。肌を刺すような冷気が、彼女の全身から微かに立ち上る。


 俺はモカの頭をもう一度撫でてから立ち上がり、玄関のモニターを確認した。


 画面に映っていたのは、最上階のペントハウスに住むサキュバス、クロエ・ミラーだ。


 今日の彼女は、オフホワイトの薄手なサマーニットに、タイトなデニムというラフな出で立ちだった。休日のリラックスした装いだが、身体のしなやかなラインが強調され、洗練された大人の色気が隠しきれていない。手には、クラフト紙のパッケージと、ブランド名の入った紙袋が提げられていた。


 ドアを開けると、あの甘く退廃的な香水の匂いがふわりと漂った。


「こんにちは、シュン」

「こんにちは、クロエさん。今日はどのようなご用件ですか」

「この間の、スパイスカレーのお礼よ。私の行きつけのロースターでブレンドしてもらった豆を持ってきたわ。あなたなら、美味しく淹れてくれると思って」


 クロエは自信に満ちた笑みを浮かべ、コーヒー豆のパッケージを差し出した。しかし、俺の目は彼女の目元に向けられていた。コンシーラーで巧妙に隠してはいるものの、瞬きをするたびに微かな疲労の影が覗く。週末にも関わらず、ペントハウスで何らかの業務に追われていたのだろう。


「ありがとうございます。……それで、そちらの紙袋は?」


 俺が視線を移すと、クロエは少しだけバツが悪そうに紙袋を持ち上げた。


「実は、少しお願いがあって。ペントハウスのランドリーの調子が悪くてね。……あなた、シルクのメンテナンスも完璧だって言ってたわよね。大事なブラウスなんだけど、少しアドバイスをもらえないかしら」

「アドバイス、ですか」

「ええ。クリーニングのコンシェルジュに出すのも手なんだけど、画一的な対応より、あなたの細やかな手作業の方が信頼できる気がしてね」


 流暢な言い訳だが、要するに俺の主夫スキルを頼ってきたということだ。俺がリビングへ通すよう促す前に、奥からパキパキと空気が凍る音が聞こえてきた。


「……ずいぶんと図々しいのね、最上階のサキュバスさん」


 リビングの入り口に、腕を組んだ信子が立っていた。


 設定温度十六度の冷気が、彼女の怒りを帯びてさらに鋭さを増している。プラチナブロンドの髪が、見えない風に揺れていた。


「あら、川口さん。今日も涼しげな格好ね。ご挨拶のつもりだったのだけれど、お邪魔だったかしら」

「ええ、とても。自分の服の手入れくらい自分でやったらどうなの。コンシェルジュサービスだって最上階ならついているでしょう。なんで私の専属主夫を使うのよ」

「だから、彼のスキルを評価していると言っているの。それに……」


 クロエは余裕の笑みを崩さず、俺の方へ視線を流した。


「月給百万円のオファーの前に、彼の手際をもう一度確認しておきたいのよ。これだけ有能な男を、こんな極寒の部屋に閉じ込めておくなんて、宝の持ち腐れだわ。私なら、彼に外資のエグゼクティブに見合う、もっと相応しいキャリアアップだって提供できる」

「笑わせないで。俊作は私のヒモよ。百万円積もうがペントハウスだろうが、私からは離れないわ。……それに、俊作は私のこの冷たさが一番心地いいって言ってるんだから」

「強がるのもいい加減にしたら? 彼だって、本当はもっと温かくて、色気のある大人の女性にエスコートされたいはずよ。ねえ、シュン?」


 同い年で、共に高収入のエリート美女二人。


 プライドと意地が正面からぶつかり合い、リビングの空気が冷気と濃密な香水でカオスな状態になりつつある。


 だが、六年間の過酷な社畜生活で、取引先同士の理不尽な板挟みや、社内の派閥争いの仲裁を嫌というほど経験してきた俺にとって、この程度の口論はそよ風のようなものだ。むしろ、仕事に疲れた大人の女性二人が、小学生の縄張り争いのような言い合いをしているのは、どこか微笑ましくすらあった。


「お二人とも。少し落ち着いてください。クロエさん、せっかくの豆ですから、すぐに淹れますね」


 俺は二人の間に割って入ることなく、静かにキッチンへと向かった。


 お湯を沸かし、クロエが持ってきた豆をミルで丁寧に挽く。部屋中に、深く芳醇なコーヒーの香りが広がっていく。


 同時に、俺はリビングの隅にアイロン台をセットし、ベランダから取り込んでおいた洗濯物の山をローテーブルに移動させた。


「ちょっと俊作、聞いてるの!? この女、またあなたを引き抜こうとしてるのよ!」

「シュン、あなたもはっきり言ってあげたら? 月五十万の家政夫なんて、あなたのポテンシャルの無駄遣いだって」


 背後でヒートアップする二人の声をBGMに、俺はドリップしたコーヒーを二つのカップに注ぎ、それぞれの前に無言で置いた。


 そして、すぐさま洗濯物の山に向き合う。


 まずは厚手のバスタオル。端と端を完璧に揃え、空気を抜くようにパンッとシワを伸ばし、三分の一に折ってから端からくるくると丸める。高級ホテル仕様のロール巻きだ。それを無駄のない動きで次々と積み上げていく。


 次に、信子の服。デリケートな素材が多い彼女の衣類は、洗濯表示のタグを瞬時に確認し、適切な温度に設定したスチームアイロンを浮かせるように当てていく。シューッという蒸気の音が、二人の言い争いの声にリズムよく重なる。


 手際よく、流れるように。


「大体、あなたみたいな激務で余裕のない女に、俊作の世話ができるわけないじゃない!」

「あら、私は彼に『世話』を求めているのよ。彼が私を甘やかしてくれれば、それで完璧な関係が成立するわ」

「俊作は私を甘やかすための存在よ!」


 二人の声が次第にトーンダウンしていくのがわかった。


 目の前で、一切の迷いなく、まるで機械のように正確かつ美しく洗濯物を畳み、アイロンをかけていく俺の無言の作業風景に、彼女たちのペースが無自覚に巻き込まれていったのだ。


 ふと、俺はアイロンを立てて置き、クロエの方を向いた。


「クロエさん、その紙袋のブラウス、見せてもらってもいいですか」

「え? ええ……」


 クロエは言い争いを中断し、少し戸惑いながら紙袋からネイビーのブラウスを取り出した。


 俺はそれを受け取り、生地の手触りを指先で慎重に確認する。


「……ウォッシャブルシルクですね。少しゴワついているのは、アルカリ性の強い洗剤を使いましたか?」

「あ……うん。汚れをしっかり落としたくて、普通の洗剤で洗っちゃって。そうしたら縮んだみたいになって……」


 図星を突かれ、クロエの顔に「外資系エリート」のメッキが剥がれた、等身大の焦りが浮かんだ。


「シルクは人間の肌と同じタンパク質ですから、アルカリ性には弱いんです。中性洗剤で優しく押し洗いしないと、風合いが落ちます」


 俺は洗面所へ向かい、洗面器にぬるま湯を張り、そこに信子が使っているノンシリコンのヘアコンディショナーをほんの数滴だけ垂らして溶かした。


「今からこの液に数分浸して、失われた油分を補い、繊維をコーティングし直します。その後、タオルドライして半乾きの状態で、裏から低温のアイロンを当てれば、元の艶と滑らかさに戻りますよ」


 一切の迷いがない、的確な診断と処方。


 クロエは目を丸くして瞬きをし、「……あ、ありがとう。お願いするわ」と、完全に毒気を抜かれたように頷いた。


 信子はソファの上でふんぞり返り、自慢げに胸を張った。


「見たでしょ。これが私の俊作よ。あなたのコンシェルジュなんて目じゃないわ」

「……ええ。本当に、どうしてこんな男があなたのところにいるのか、不思議でならないわ」


 クロエはため息をつきながら、俺が淹れたコーヒーのカップを手に取り、一口飲んだ。


「……美味しい。私がペントハウスの機械で淹れるのとは、全然違うわね」

「温度と、湯を落とす抽出のタイミングの問題ですよ。豆のポテンシャルが良いですからね」


 アイロンがけを再開しながら俺が答えると、クロエは少しだけ悔しそうに、けれどどこか嬉しそうに微笑んだ。


 三十分後。


 洗濯物の山は美しく整頓され、クロエのネイビーのブラウスも、元の滑らかな艶と柔らかさを取り戻してハンガーに掛けられていた。


「すごい……新品みたい」


 仕上がったブラウスの袖を指先でなぞり、クロエが感嘆の声を漏らす。


「保管する時は、防虫剤が直接生地に触れないように気をつけてくださいね。それと、アイロンは必ず当て布を」

「ええ、覚えたわ。……ありがとう、シュン」


 クロエは紙袋にブラウスを大切そうにしまい込み、立ち上がった。


 そして、俺の顔をじっと見つめ、少しだけ声のトーンを落とした。


「……やっぱりあなた、うちに来なさいよ。今度はブラウスの手入れじゃなくて、もっと別のことで私を甘やかしてほしいわ」

「ダメッ!!」


 俺が返答するより早く、信子が猛烈な勢いで立ち上がり、俺の左腕に両腕を絡ませて完全にホールドした。十六度の冷気が、彼女の嫉妬でさらに鋭く冷え込む。


「俊作は私のヒモなんだから! 帰って!」

「はいはい。今日はこのくらいにしておいてあげる」


 クロエは優雅に肩をすくめ、エントランスへと向かった。


 ドアが閉まり、再び部屋に静寂が戻る。


「……信子さん、腕が冷たいんですが」

「離さない。……俊作、絶対にあの女のところに行かないでね」


 不安げに見上げてくる青みがかった瞳には、先ほどまでの強気な態度はなく、捨てられるのを怖がる子どものような色があった。


「行きませんよ。俺の雇用主は信子さんですから」


 俺は彼女のプラチナブロンドの髪をそっと撫でた。


 ふと視線を向けると、新しく組み立てたペットフェンスの中で、モカが二人の騒がしい言い争いなど全く意に介さず、仰向けのへそ天状態で見事なまでの爆睡をかましていた。


 その無防備すぎる寝顔を見て、俺と信子は同時に小さく吹き出した。


「モカ、大物ね」

「ええ。この家で一番肝が据わっているのは、間違いなく彼ですよ」


 冷え切った部屋の中に、温かい笑い声が響く。


 騒がしくも心地よい、俺のヒモ生活の日常の一コマだった。

【書籍発売のお知らせ】


作者の別作品『実力S級の俺、配信切り忘れで「虚無顔でボスを瞬殺する姿」が全国放送されてた件。今さら「ただの荷物持ち」とは言えない~定時で帰りたいので、追放してくれてありがとう~』第1巻が、9月4日に発売されます。


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書籍の詳細は活動報告/近況ノートをご覧ください。

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