第21話 氷と夢魔の甘い休戦
土曜日の午前十一時。
三〇二号室のリビングは、相変わらず設定温度十六度の容赦ない冷気で満たされていた。分厚い遮光カーテンの隙間から漏れ見える外の暴力的な猛暑が嘘のような、徹底的に隔離された極寒の空間。夏の太陽がアスファルトを焦がしているであろう時間帯にもかかわらず、ここだけは完全に季節から切り離されている。
フローリングの一角、大理石のローテーブルのすぐ横で、茶色い毛玉が信じられない格好で転がっていた。
モカだ。
今日は成長期の彼のために、少し奮発して犬用のヤギミルクと、細かく刻んだ茹でササミを朝食のドッグフードに混ぜてやった。結果、モカは自分の胃袋の容量限界を完全に無視してすべてを平らげ、今やすっかり「へそ天」の状態で動けなくなっている。
ぽっこりと膨らんだピンク色のお腹を無防備に天井へ向け、短い四肢はだらんと空を切るように投げ出されていた。時折、夢でも見ているのか後ろ足がピクッと動き、半開きの小さな口からは「すぅ、すぅ」と平和すぎる寝息が漏れている。いつもなら俺のスリッパを追いかけて走り回るやんちゃな子犬が、重力と満腹感に完全に敗北して床と同化している姿は、見ているだけで自然と口元が緩んでしまう。
「モカ、お腹ぽんぽんね。可愛い……」
ソファに座っていた信子が、床に這いつくばるようにしてモカのお腹を冷たい指先でツンツンと突いた。モカは抵抗する気力すらなく、されるがままに「くぅ……」と小さな声を漏らすだけだ。
俺はキッチンで洗い物をしていた手を止め、その光景に小さく息を吐いた。長年の社畜生活で限界までささくれ立っていた神経が、この無防備な丸い腹と、それを愛でる雪女を見るだけで急速に平滑化されていく気がする。
「あまり構うと吐き戻しますよ。消化するまで寝かせておいてやってください」
「はーい」
信子は大人しく手を引っ込め、再びソファでタブレットに視線を戻した。黒のキャミソール姿の彼女は、休日の穏やかな空気を全身で満喫している。銀色に近いプラチナブロンドの髪が、エアコンの風を受けてサラサラと揺れていた。
その静寂を破ったのは、控えめなインターホンの電子音だった。
エントランスのオートロックからではなく、直接玄関前からの呼び出し。心当たりは一つしかない。
「……こんな時間に、誰かしら」
信子が怪訝な顔をして顔を上げた。
俺がモニターを確認すると、予想通り、最上階のペントハウスの主であるクロエ・ミラーが立っていた。昨夜のレストランで見せた赤面と脆さは微塵も感じさせず、今日は洗練されたオフホワイトのセットアップ姿で、優雅な笑みを浮かべている。手には、高級そうな紙袋が提げられていた。
「最上階のミラーさんです。昨日の……お礼でしょうか」
「クロエ? なんであの女が……っ」
信子の顔が、瞬時に「氷の女帝」のそれへと切り替わった。先ほどまでモカを愛でていた無防備な少女のような表情は跡形もなく消え去っている。
俺は小さくため息をつき、手を拭いてから玄関のドアを開けた。
「おはよう、シュン。昨日はごちそうさま。これ、お礼の品よ」
ドアを開けるなり、クロエは自信に満ちた声で紙袋を差し出してきた。ふわりと香る香水は、いつものむせ返るような濃密なものではなく、休日の朝にふさわしい、爽やかで控えめなシトラス系だった。彼女が今日は「戦闘」ではなく、純粋な「好意」で来ていることが、その香りの変化から読み取れる。
「わざわざありがとうございます。中へどうぞ。ちょうどお茶を淹れようと思っていたところです」
「ええ、お邪魔するわ」
クロエをリビングへ通すと、ソファに座っていた信子がゆっくりと立ち上がった。
信子の放つ見えない冷圧に、肌の表面が一瞬で粟立つ。
「あら、川口さん。休日の朝から随分とリラックスしているのね」
クロエが、信子のキャミソール姿を値踏みするように上から下まで眺める。
「ええ。ここは私の家ですから。それに、私の主夫が完璧に整えてくれているおかげで、何も不自由はないわ。……それで、最上階のサキュバスさんが、今日は私の部屋に何の用かしら」
絶対零度の声で迎撃する信子に、クロエは涼しい顔で肩をすくめた。
「昨日の夜のお礼よ。シュンったら、私が予約した赤坂のレストランで、見事なエスコートをしてくれたの。彼が私のために直々に混ぜ合わせてくれたタルタルステーキ、絶品だったわ」
クロエは妖艶な笑みを浮かべ、あえて「エスコート」「直々に」という言葉を強調した。昨夜、自分が完全に主導権を奪われ、俺の気遣いにキャパオーバーを起こして顔を真っ赤にしていた事実は、見事に棚に上げている。この辺りの図太さは、さすが外資系コンサルのシニアマネージャーといったところか。
信子の青みがかった瞳が、すっと細められた。刺すような冷気が肌を撫で、部屋の空気がピリリと張り詰める。
「へえ。俊作を連れ出して、随分と楽しい夜を過ごしたのね。でも、彼は私のために毎日三食、完璧な料理を作ってくれているわ。昨日の夜の一回くらい、どうってことないんじゃない?」
「あら、量より質という言葉をご存じない? 彼の手さばきと気配りは、ただの家庭料理の枠に収まらないわ。だからこそ、月給百万円で私の専属にとオファーしているのよ。彼も、こんな寒々しい部屋より、ペントハウスからの夜景を見ながら過ごす方が幸せでしょうし」
「笑わせるわね」
信子は腕を組み、冷ややかに口角を吊り上げた。
「俊作はね、私のこの『冷たさ』が一番心地いいって言ってるの。毎晩、私と一緒にベッドで寝てるんだから」
意気揚々と投下された爆弾発言に、クロエの余裕の表情がわずかに引き攣った。
「い、一緒に寝てる……? ただのヒモ契約のくせに、ずいぶんと可愛がっているのね」
「当然よ。俊作の三十六度の体温は、私にとって最高の湯たんぽだもの」
同い年で、共に高収入のエリート美女二人。会社や業界は違えど、プライドの高さは折り紙付きだ。そんな二人が、一人の男の「お世話」と「体温」を巡って、小学生のようなマウント合戦を繰り広げている。
六年間の過酷なクレーム対応と炎上案件の火消しで鍛えられた俺の頭は、この状況を即座に「危険度レベルB」と判定した。このまま放置すれば、信子の嫉妬で部屋が完全に凍結するか、不毛な言い争いがヒートアップして泥沼化するかのどちらかだ。
俺は二人の争いには口を挟まず、静かにキッチンへと向かった。
クロエから受け取った紙袋を開けると、中には老舗の高級フルーツパーラーのロゴが入った桐箱が収められていた。蓋を開けると、見事な網目模様を描く千疋屋のマスクメロンが一つ、鎮座している。
これは使える。
俺は迷わず包丁を手に取り、メロンを半分に割った。ザクッという小気味良い音とともに、芳醇で甘い果汁の香りが冷え切った空気にふわりと広がる。種を丁寧に取り除き、専用のディッシャーで果肉を美しい球状にくり抜いていく。淡い緑色の果肉から滴る果汁が、照明を反射してキラキラと輝いた。
氷水でキンキンに冷やしておいたガラスの器に、くり抜いたメロンの果肉をこんもりと盛り付け、自家製のミントシロップを軽く回しかける。さらに、信子のために常備してある濃厚なバニラアイスを中央に添えた。
手早く「メロンボールのアイス添え」を二つ完成させる間も、背後での言い争いは白熱していた。
「コンサルなんて虚業じゃない。実態のある商材を売ってるうちの営業部の方が、よっぽど彼に安定した生活を保証できるわ」
「外資のスピード感も知らないくせに。あなたの部署、最近大型コンペを落としたばかりでしょう? 彼がいなくなって、現場が回っていないんじゃないかしら」
「なっ……! それは黒田の管理不足であって……!」
「図星みたいね。その点、私のチームは彼が来れば完璧に機能するわ」
俺は二つのガラスの器と、冷たいダージリンティーを乗せたお盆を持ち、ダイニングテーブルへと向かった。
「お二人とも」
俺は努めて平坦で、しかし通る声で会話に割って入った。
「休日に仕事の話を持ち込むのは、ルール違反ですよ」
元社畜だからこそ、休日に仕事の愚痴やマウントを持ち込むことの不毛さを誰よりも知っている。その言葉の静かな重みに、二人がピタリと口を閉ざした。
俺は無言で、二人の間にガラスの器を置いた。
「クロエさんにいただいたメロンです。素晴らしい熟れ具合だったので、すぐにデザートにしました」
冷たいガラスの器から、甘く芳醇なメロンの香りと、ミントの爽やかな香りが立ち昇る。淡い緑色の果肉と真っ白なアイスクリームのコントラストが、視覚的にも涼やかだ。
信子もクロエも、目の前に置かれた輝くようなデザートに言葉を失い、瞬きをした。
「冷たいアイスが溶ける前にどうぞ。信子さんは熱くなりすぎて部屋の温度が下がっていますし、クロエさんは昨夜の疲れがまだ完全に抜けていないはずです。糖分を摂って、少し落ち着いてください」
そう冷静に言い添えながら、冷たいダージリンティーをそれぞれの傍らに添える。
二人は顔を見合わせ、それから少しバツが悪そうに視線を逸らし、渋々といった様子でシルバーのスプーンを手にした。
丸くくり抜かれたメロンとアイスを一緒にすくい、口に運ぶ。
その瞬間。二人の険しい表情が、まるで魔法が解けたように同時に緩んだ。
「……美味しい。ただ切っただけじゃないわね。このミントのシロップ、メロンの甘さを完璧に引き立ててる……」
クロエが、感嘆の吐息とともに呟く。サキュバスとしての虚勢も消え、ただの上質なスイーツに感動する大人の女性の顔に戻っている。
「アイスと一緒に食べると、冷たくて最高……俊作、これ毎日食べたい」
信子も目尻をだらしなく下げ、すっかり「氷の女帝」の面影を消し去ってメロンを頬張っていた。
どんなに強がるエリートであっても、冷たくて甘い美味の前では無力らしい。
「くぁ……っ」
不意に、足元から間の抜けた声が聞こえた。
お腹がいっぱいすぎて動けなかったモカが、大きなあくびをして目を覚ましたのだ。短い前足で顔をこすった後、メロンの甘い匂いに釣られたのか、のそのそと起き上がり、信子とクロエの足元へよろよろと歩いてきた。
「キャン」
クロエのオフホワイトのパンプスの先に、モカがすり寄る。昨日はクロエの濃密な香水を怖がっていたモカだが、今日の爽やかな匂いと、彼女から敵意が消えたことを感じ取ったのか、まったく警戒する様子がない。
クロエは驚いたようにモカを見下ろし、それからそっと手を伸ばして、茶色い頭を撫でた。
「……なんだか、完全に毒気を抜かれちゃったわね」
クロエは小さくため息をつき、スプーンを置いた。
「今日はこの辺で引いてあげる。ごちそうさま、シュン。私の手土産を、期待以上の一皿にしてくれて嬉しかったわ」
「お粗末様でした。またいつでもどうぞ」
俺が微笑んで答えると、クロエは優雅に立ち上がり、「じゃあね、川口さん」とだけ言い残して、ペントハウスへと帰っていった。
玄関のドアが閉まり、静寂が戻ったリビング。
信子は空になったガラスの器を見つめた後、少し拗ねたように唇を尖らせた。
「俊作……クロエのこと、優遇しすぎじゃない?」
「そんなことありませんよ。いただいたものを一番美味しい状態で出すのは、主夫としての基本業務です」
「でも、昨日の夜もエスコートしたんでしょ?」
上目遣いで睨んでくる信子に、俺は苦笑しながら、彼女のプラチナブロンドの髪をまとめている青いガラス玉のヘアゴムを、軽く指で弾いた。
「俺の雇用主は信子さんだけですよ。それに、夜一緒に寝てるのは俺たちだけですからね」
その言葉に、信子は「っ……!」と息を呑み、耳の先まで真っ赤に染めた。
「ば、ばか……っ」
信子は照れ隠しのように、足元にいたモカを抱き上げ、その茶色い毛皮に顔を埋めてしまった。
「キャン!」
元気よく鳴くモカの声と、十六度の冷たい風。
どうやら今日の美女二人の冷戦も、無事に鎮火できたようだ。俺は空になった器を手に取り、静かにキッチンへと向かった。
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