第20話 夢魔、優しさに沈む
赤坂の裏通り。大通りの喧騒から一歩退いた石畳の路地に、そのレストランはひっそりと佇んでいた。
目立つ看板はない。重厚なオーク材のドアの横に、アンティークのランプが小さな灯りを落としているだけだ。知る人ぞ知る、完全予約制の隠れ家である。
「こんばんは。お待ちしていましたよ、ミラー様」
ドアを開けると、初老のギャルソンが静かに頭を下げ、洗練された動作で迎え入れてくれた。
俺の少し前を歩くクロエは、黒のバックレスドレスに身を包んでいた。背中が大きく開き、彼女の透き通るような白い肌としなやかな肩甲骨のラインを大胆に晒している。髪はタイトにまとめられ、耳元で揺れる一粒のダイヤモンドが、店内の抑えられた照明を拾って鋭く光った。
先日のペントハウスでの過労による失態、そして俺の部屋でスパイスカレーに夢中になってしまったポンコツぶりを完全に払拭しようとするかのような、文字通り「隙のない」戦闘態勢だった。
「指定した奥の席ね。行くわよ、シュン」
振り返り、クロエは自信に満ちた妖艶な笑みを浮かべた。
ダークブラウンの瞳の奥で、サキュバス特有の紫色の光が微かに明滅している。今日は自分のホームグラウンドで、俺を完全に魅了して主導権を握る。その強い意志が、彼女から漂う甘く濃密な香水の匂いと共に、明確な熱を帯びて伝わってくる。
「ええ。とても素敵な店ですね」
俺はジャケットのボタンを外し、彼女のエスコートに従って奥の半個室へと足を進めた。
上質なクロスが掛けられたテーブルにつくと、ギャルソンがメニュー表を開くことなく恭しく尋ねてきた。
「本日のメニューは、いかがいたしましょうか」
「いつものようにお任せで。ワインも料理の構成に合わせて見繕ってちょうだい」
クロエは脚を組み、慣れた手つきでナプキンを膝に広げた。外資系コンサルティングファームのシニアマネージャーとしての、堂々たる振る舞いだ。
「かしこまりました。まずは食前酒をお持ちいたします」
ギャルソンが下がり、テーブルには俺とクロエだけが残された。
クロエはテーブルに両肘をつき、組んだ指の上に顎を乗せて、俺の目をじっと見つめてきた。
「どう? いつもエプロン姿で私の世話を焼いてくれているお礼よ。今日は私に身を任せて。最高の夜にしてあげるから」
「それは楽しみです。最近は自分で作るか、大将のいる鮨屋に行くかばかりだったので。誰かに完全に委ねる食事というのは、悪くないですね」
俺が静かに微笑み返すと、クロエの瞳が一瞬だけ細められた。俺が動揺せず、彼女の色香をさらりと受け流したことが少し不服だったのかもしれない。
間もなく、食前酒が運ばれてきた。
年代物のバカラのグラスに注がれているのは、深い真紅の液体だ。
「古いカシスのリキュールを使った、特製のキールよ。味わって」
クロエに促され、グラスを合わせる。
口に含むと、熟成されたカシスの濃厚な甘みと、白ワインのキリッとした酸味が複雑に絡み合い、喉の奥へと滑り落ちていった。アルコールの心地よい熱が、胃をゆっくりと目覚めさせ、食欲を静かに刺激してくる。
「美味しいですね。年月を経た丸みがある」
「でしょう? さて、一品目が来るわ」
テーブルの中央に置かれたのは、ガラスのドームで覆われた平皿だった。
ギャルソンがドームを開けた瞬間、桜のチップで燻された香ばしいスモークの香りが、白い煙と共にふわりと広がった。中から現れたのは、表面が黄金色に色づいたカマンベールチーズの燻製だ。隣には、イチジクのコンポートと薄くスライスされたバゲットが添えられている。
「ここは、この燻製から始まるのがお約束なのよ。さあ、どうぞ」
クロエは自分の分を取り分けるより先に、俺の皿にチーズとコンポートを美しく盛り付けた。徹底して、今日は彼女が俺を「もてなす」側に回るつもりのようだ。
俺はナイフでチーズを切り分け、バゲットに乗せて口に運んだ。
外側はスモークでパリッと張りがあり、中はトロリと溶け出すような極上の舌触り。チーズの強い塩気を、イチジクの控えめな甘さが完璧に中和している。
「……素晴らしい。キールにもよく合います」
「ふふ、そうでしょう。私のお気に入りなんだから」
クロエは満足げに笑い、自分の分のチーズを口に運んだ。
それから食事は滑らかに進んでいった。旬のヒラメを使ったカルパッチョはオリーブオイルとカラスミの塩気が絶妙に絡み合い、サマートリュフの香りが鼻腔をくすぐる濃厚なチーズリゾットは、米の芯がほんのりと残る完璧なアルデンテだった。
クロエはその間も、ワイングラスを傾けながら、巧みな話術と艶やかな視線で俺を絡め取ろうとしていた。
テーブルの下で、彼女のシルクに包まれた脚の先端が、俺の足首にそっと触れる。意図的な接触だ。
「ねえ、シュン。月給百万円のオファー、まだ考えてくれてないの? 川口さんのところより、私のペントハウスの方がずっといい景色が見られるわよ。……ベッドからの景色も、ね」
甘く、粘り気のある声。サキュバスとしての本能的な魅了の力が、言葉に乗って俺の理性を揺さぶりにくる。普通の男なら、この雰囲気と誘惑に耐えきれず、すぐにでも首を縦に振っていただろう。
だが、俺は彼女の色香に飲まれることなく、グラスの縁を指で静かになぞった。
「……クロエさん、ワインのペースが少し早いですよ」
俺はそう言ってボトルを手に取り、彼女のチェイサーのグラスへミネラルウォーターをたっぷりと注いだ。
「え?」
「それに、さっきからギャルソンが料理を持ってくるたび、あなたはお任せコースの内容が少し変わっていることに驚いた目をしていましたね。……ここに来るのは、実は半年ぶりくらいじゃないですか」
淡々と指摘すると、クロエのダークブラウンの瞳が、限界まで見開かれた。
足首に触れていた彼女の脚が、弾かれたように引っ込む。
「あなた、なんで……」
「俺も昔は、取引先の接待でよく見栄を張っていましたからね。だから、あなたが忙しい合間を縫って、俺をもてなすために色々と背伸びをしてくれているのは、とても嬉しく思っています」
図星を突かれて固まる彼女に、俺は努めて柔らかいトーンで続けた。
「でも、無理をして完璧な女を演じようとするのはやめにしませんか。ここは美味しいレストランなんですから、戦闘態勢を解いて、純粋に食事を楽しんだ方がいいですよ。疲労が溜まっている体にアルコールを急ぎすぎると、またこの前の二の舞を演じることになりますからね」
限界まで強がり、完璧なエスコートを完遂しようとしていた彼女の武装を、言葉でそっと解いてやる。
隠していた激務の痕跡と、余裕を装っていたメッキを剥がされたクロエは、反論の言葉を見つけられないまま、バツが悪そうに視線を泳がせた。
「……可愛くない男。私がせっかく、その気にさせてあげようとしてるのに」
クロエは小さく悪態をついたが、その声からは先ほどまでの計算された色気が消え、どこかホッとしたような、等身大の響きが混じっていた。注いだミネラルウォーターを、彼女は素直に口へ運ぶ。
「お待たせいたしました。本日のメイン、特製のタルタルステーキでございます」
絶妙なタイミングで、ギャルソンがメインディッシュを運んできた。
大皿の中央に、美しく叩かれた新鮮な赤身肉がこんもりと盛られている。その上には艶やかな卵黄が乗せられ、周囲にはケッパー、エシャロット、パセリ、マスタードといった薬味が色鮮やかに散りばめられていた。
「こちらで混ぜ合わせてもよろしいでしょうか」
「ありがとうございます。もしよければ、連れの好みに合わせて、私自身で混ぜ合わせてもよろしいでしょうか?」
俺が柔らかく微笑みながら尋ねると、ギャルソンは心得たように一礼し、フォークとスプーンを俺に委ねて一歩下がった。
クロエが不思議そうにこちらを見ている。
「こういうのは、食べる直前に自分たちの好みのバランスで混ぜるのが一番美味しいんですよ。クロエさん、酸味は強い方が好きですか? それともマスタードを効かせた方がいいですか」
「えっ……あ、マスタード、少し多めでお願い」
「分かりました」
俺は卵黄を崩し、新鮮な生肉に薬味を均等に練り込んでいく。肉の鮮度を落とさないよう、手早く、かつ空気をふわりと含ませるように。長年の自炊と、相手の好みに合わせて味を調整してきた経験が、無意識のうちに指先を動かしていた。
こんがりと焼かれた薄切りのバゲットに、たっぷりとタルタルを乗せる。
それを、小皿に移してクロエの前にそっと置いた。
「さあ、どうぞ。一番美味しい状態です」
クロエは呆然とした顔で、目の前に置かれたタルタルステーキと、俺の顔を交互に見た。
自分が完璧にエスコートして、相手を誘惑するはずだった。それなのに、気がつけば主導権は完全に奪われ、背伸びを見透かされ、あろうことか「大切に労わられて」いる。
「……っ」
クロエはおずおずと手を伸ばし、バゲットを口に運んだ。
サクッとしたパンの食感の後に、ねっとりとした生肉の強烈な旨味と、卵黄のコクが広がる。エシャロットのシャキシャキとした歯触りと、マスタードのピリッとした刺激が、完璧なバランスで彼女の味覚を満たしていった。
「美味しい……」
ぽつりと漏れたその声には、サキュバスとしての虚勢も、エリートコンサルタントとしてのプライドもなかった。
ただ、自分のために細やかに気を配り、最高の一口を作ってくれた目の前の男に対する、純粋な感動だけがあった。
気がつけば、クロエの白い頬から耳の先まで、じわじわと朱に染まり始めていた。彼女は顔に熱が集まっていくのを自覚したのか、俯き加減になり、残りのバゲットを小動物のように少しずつかじり始めた。
「食後のお飲み物は、いかがいたしましょうか」
皿が綺麗に空になったところで、ギャルソンが尋ねてきた。
「俺はエスプレッソを。クロエさんは……アマレットがありましたよね」
「はい。古い、良いものがございます」
「それをロックで」
運ばれてきたアマレットは、琥珀色に輝き、杏仁やアーモンドのような甘く芳醇な香りを漂わせていた。
クロエは氷の入ったグラスを両手で包み込むように持ち、一口飲んで、小さく息を吐いた。
「……負けたわ」
静かな声だった。
クロエは真っ赤になった顔を隠すことも諦めたのか、潤んだ瞳で俺を見上げてきた。
「今日は絶対に、あなたを私のペースに巻き込んで、メロメロにしてやろうって思ってたのに。……なんで私が、こんなに甘やかされて、顔を真っ赤にしてるのよ」
「俺は何も特別なことはしていませんよ。ただ、一緒に食事をする相手には、快適に過ごしてほしかっただけです」
俺がエスプレッソを飲みながら答えると、クロエは「あなたって、本当にずるい」と小さく呟き、テーブルに額を擦り付けるようにして俯いた。
潤んだ瞳の奥で妖しい紫色の魔力が完全に霧散し、彼女から漂っていた濃密な香気のトーンが、まるで熱いお湯に溶けた甘いシロップのように、どこかあどけなく、柔らかいものへと変化していく。それは彼女が完全にリラックスし、心の武装を解いた証拠だった。どうやら、優しくされただけで処理能力の限界を超え、キャパオーバーを起こしてしまったらしい。
「ほら、帰りますよ。明日も仕事でしょう」
「……うん」
すっかり大人しくなったサキュバスを伴い、俺たちはレストランを後にした。
赤坂の夜風はまだ生温かかったが、俺の少し後ろを、自分の肩を抱くようにして歩く彼女の足取りは、店に入る前よりもずっと軽やかだった。
「……勘違いしないで。次は、私があなたを完全に落としてみせるから」
「楽しみにしていますよ。そのためにも、明日はしっかり休んでください」
耳まで真っ赤に染めたまま強がる彼女の言葉を、俺はいつものように柔らかく受け流した。
どうやらこの美しいサキュバスに、本当の意味での完璧なエスコートを教え込まれる日は、まだまだ先のことになりそうだ。




