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過労で退職したら、隣に住む雪女上司に拾われてヒモになりました  作者: 伊達ジン


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19/21

第19話 特製スパイスカレーと夢魔の陥落

 フライパンの中で、黄金色の油に浸ったホールスパイスが小さな気泡を纏い始めた。


 シュワシュワという微かな音と共に、クミンシード、カルダモン、そしてクローブが熱を帯び、複雑でエキゾチックな香りがキッチンの冷気に溶け出していく。スパイスの香りをじっくりと油に移す、テンパリングと呼ばれる工程だ。


 十六度に設定された三〇二号室のリビングは、今日も冷蔵庫のような涼しさを保っている。休日の昼下がり。ソファでは、信子が抱き枕代わりに大きなクッションをぎゅっと抱きしめて深い眠りに落ちており、その丸くなった膝の裏で、モカが安心しきった様子でへそ天になって丸まっていた。


 窓の外は、暴力的なまでの熱風がアスファルトを焦がしているはずだ。しかし、分厚い遮光カーテンで外界から完全に隔離されたこの部屋の中は、時間の流れが止まっているかのようだった。昨夜のラタトゥイユで野菜は十分に摂れたはずだが、連日の猛暑とこの極端な室温設定の往復で、通いで主夫業をしている俺自身の体にも、見えない疲労が蓄積し始めているのを感じていた。


 だから今日の昼食は、体の芯から活力を引き出し、胃腸の働きを活性化させるものにしたかった。


 みじん切りにした玉ねぎをフライパンに投入し、少量の塩を振って強火で炒める。木べらで混ぜながら水分を飛ばし、濃い飴色に変化していく過程で、ニンニクと生姜のすりおろしを加えた。食欲をそそる香ばしい匂いがさらに一段階強くなり、スパイスの香りと混ざり合う。


 そこにトマトピューレと、コリアンダー、ターメリック、少量のチリペッパーを加える。ベースが馴染んだところで、大きめにカットした鶏もも肉と、事前に水で戻しておいたクコの実、そして松の実を加えた。漢方でも使われるこれらの食材は、疲労回復と滋養強壮に即効性がある。


「……うん。いい仕上がりだ」


 味見をして小鍋の火を弱めた時、控えめな電子音が空間の静寂を破った。


 エントランスのオートロックからではなく、直接この三〇二号室のドアの前からの呼び出しだ。


 手を拭い、信子たちを起こさないように足音を殺して玄関のモニターを確認する。画面には、昨夜俺が介抱した最上階の住人、クロエ・ミラーが立っていた。

 彼女は昨日の真っ赤なタイトドレスとは打って変わり、ネイビーのシルクブラウスに白いテーパードパンツという、知的で落ち着いた装いだった。手には、昨日俺が即席のチーズパナードを盛り付けた深皿が入った紙袋を持っている。


 ドアを開けると、あの甘く退廃的な香水の匂いがふわりと漂った。


「こんにちは、シュン」

「こんにちは、クロエさん。お皿、わざわざすみません。体調はもういいんですか?」

「ええ。昨日は少し貧血を起こしただけよ。一晩ゆっくり休んだから、もう完璧」


 完璧、と彼女は微笑んだが、俺の目にはそうは見えなかった。


 プロのメイクで巧妙に隠してはいるが、肌の奥底に張り付いたような疲労感は拭いきれていない。何より、ダークブラウンの瞳の奥で時折明滅するはずの、サキュバス特有の妖しい光が、今日はひどく弱々しかった。

 人間の精気や欲望を糧とする彼女にとって、極度の過労とストレスは、普通の食事や睡眠だけでは補いきれないほどのダメージになっているのだろう。


「上がってください。ちょうど昼食ができたところですから」

「あら。雇い主の川口さんがいるんでしょう? お邪魔じゃないかしら」

「彼女は今、昼寝中です。それに、クロエさんの顔色がまだ本調子に見えないので。昨日の中途半端なフレンチよりは、胃腸に効くものを用意できます」


 俺が静かに促すと、クロエは一瞬だけ図星を突かれたように言葉に詰まり、それから「……あなた、本当に可愛くないわね」と小さく吐き捨てて、靴を脱いだ。


 リビングに通すと、クロエは室内の極端な冷気に少しだけ身をすくめた。


「相変わらず、異常な室温ね。川口さんは……あら、本当に寝てるのね」


 ソファでクッションを抱える信子を一瞥し、クロエはダイニングテーブルの椅子に優雅に腰を下ろした。


 その時だった。


 信子の膝の裏で丸くなっていたモカが、微かな足音と未知の匂いに気づいて目を覚ました。


「キャン?」と寝ぼけた声を上げながら顔を上げたモカは、テーブルの席に座るクロエの姿を視界に捉えた瞬間、ピタリと動きを止めた。


「……キュン?」


 モカは短い尻尾を股の間に巻き込み、前足を揃えたまま、まるで石像のように固まってしまった。


 クロエから漂う濃密な香水の匂いか、それとも本能的に感じ取る上位の捕食者としてのオーラか。普段は誰にでも尻尾を振って愛嬌を振りまく子犬が、音を立てることも忘れ、プルプルと微かに震えている。


「あら、子犬。トイプードルかしら」


 クロエが興味深そうに手を伸ばそうとすると、モカは「ヒュンッ」と短い悲鳴のような息を漏らし、信じられないほどの俊敏さで俺の足元へ滑り込んできた。そのまま俺のスウェットの裾の後ろに隠れ、ふくらはぎに顔を押し付けてブルブルと震えている。


「……嫌われちゃったみたいね。魔物の気配でも察知したのかしら」


 クロエは自嘲するように小さく笑い、伸ばしかけた手を引っ込めた。その所作の端々に、隠しきれない虚勢と孤独が滲んでいる。


「まだ家に来て日が浅いので、慣れない匂いに驚いただけですよ」


 俺はモカの頭をそっと撫でて落ち着かせながら、キッチンに戻り、温めておいた深皿にターメリックライスを盛り付けた。

 その上から、先ほど仕上げたばかりのスパイスカレーをたっぷりと掛ける。黄金色のライスと深いブラウンのルーのコントラスト。クコの実の赤と、松の実の白が視覚的なアクセントになっている。


「お待たせしました。特製スパイス薬膳カレーです」


 クロエの前に皿を置くと、湯気と共に立ち上る複雑なスパイスの香りが、彼女の甘い香水の匂いを優しく、しかし力強く上書きしていった。


「カレー……? 私、昨日胃が荒れて倒れたのよ? こんな香辛料の塊みたいなものを食べて、平気なの?」


 クロエは美しい眉をひそめ、訝しげに皿を見つめた。


「市販のルーを使った油と小麦粉の塊なら、胃もたれするでしょうね。でも、これはホールスパイスから調合した薬膳です。クミンは消化を助け、カルダモンは胃腸の働きを整えます。血行を促進する生姜とニンニク、それに気力を補うクコの実と松の実も入れています」


 俺は向かいの席に座り、氷を入れた麦茶のグラスを彼女の傍らに置いた。


「今のあなたに一番足りていないのは、カロリーではなく『気力』です。体の芯から熱を作ることで、人間でいうところの精気のようなものが補えるはずです。騙されたと思って、一口食べてみてください」


 俺の淀みない説明に、クロエは少しだけ圧倒されたように瞬きをした。

 そして、銀色のスプーンを手に取り、ルーとライスを少しだけすくい上げる。

 警戒するように、ゆっくりと口に運ぶ。


 一口。


 咀嚼するクロエの動きが、ふっと止まった。


 口に含んだ瞬間、最初に広がるのは玉ねぎとトマトの凝縮された自然な甘み。その直後、幾重にも重なったスパイスの鮮烈な香りが、鼻腔へと一気に抜けていく。チリの辛さは極限まで抑えられているが、生姜とカルダモンの働きで、喉の奥から食道を通り、胃の底に到達した瞬間に、じんわりとした確かな「熱」が生まれる。


「……っ」


 クロエのダークブラウンの瞳が、驚きに見開かれた。


 彼女は無言のまま、二口目、三口目とスプーンを動かし始めた。

 先ほどまでの優雅な大人の女性の所作は消え、ただ目の前の皿に全神経を集中させている。クコの実のほのかな酸味と、松の実の香ばしい食感が、単調になりがちなカレーの味に奥深さを与えていた。


「美味しい……。なにこれ、全然脂っこくないのに、味が深くて……」


 食べ進めるうちに、クロエの青白かった頬に、みるみるうちに赤みが差していく。

 額にうっすらと汗が滲み、彼女はたまらずシルクブラウスの第一ボタンを外した。胸元の白い肌が露わになるが、今の彼女は俺を誘惑する計算など完全に忘れているようだった。


 スパイスの熱と、手間暇をかけて作られた温かい料理のエネルギー。

 それが、極限まで乾いていた彼女の体に、じっくりと染み渡っていく。


「ハァ……っ」


 半分ほど食べたところで、クロエは大きく息を吐き、一旦スプーンを置いた。


「……本当に、悔しいけれどスプーンが止まらないわ」


 クロエはスプーンを握る指先の微かな震えを隠すことも忘れ、耳の先まで真っ赤に染めながら、再び夢中で口へと運び続けた。その姿には、サキュバスとしての計算やコンサルタントとしての武装など微塵もなく、ただ純粋に、差し出された温もりを貪る一人の少女の姿があった。


「あなたは十分すぎるほど有能ですよ。異国の地で、しかも過酷な業界でシニアマネージャーまで登り詰めるなんて、並大抵の努力じゃ不可能です。……でも、車だってガソリンが切れれば止まります。今はただ、補給が必要だっただけです」


 俺が冷蔵庫から冷たいおしぼりを出して彼女の横に置くと、クロエは顔を上げてこちらを見つめた。

 潤んだ瞳の奥で妖しい紫色の魔力がすっと影を潜め、彼女から漂っていた濃密な香気のトーンが、どこかあどけなく、柔らかいものへと変化していく。それは彼女が完全にリラックスし、心の武装を解いた証拠だった。


「……シュン。あなたって、本当に……」


 クロエがおしぼりを手に取り、少し乱れた前髪を直そうとした時だった。


「……人の主夫を、勝手に自分の所有物のように扱わないでくれる?」


 リビングの空気が、急激に氷点下まで下がった。


 振り向くと、ソファで寝ていたはずの信子が起き上がっていた。タオルケットを肩に羽織り、絶対零度の冷気を纏わせながら、ダイニングテーブルへと真っ直ぐに歩み寄ってくる。

 プラチナブロンドの髪が室内の冷気を帯びて微かに白く曇り、その青みがかった瞳は一切の感情を排してクロエを見据えていた。足元のモカは、今度は信子の冷気と怒りに怯え、ソファの下に完全に隠れてしまっている。


「あら、川口さん。おはよう。昨日に続いて、今日も彼の極上の手料理をいただいていたの。本当に優秀なハウスキーパーを囲っているわね」


 クロエはスッと口元を拭うと、いつもの完璧なビジネスウーマンの笑みを貼り付け、スマートに立ち上がった。スパイスカレーの効果は絶大だったようで、先ほどまでの疲労感は嘘のように消え去り、声には確かな張りと余裕が戻っていた。


「言ったわね、最上階のサキュバスさん。……そのきつい香水、料理の匂いを邪魔するから私の部屋から出ていってくれない?」


 信子の周囲で、パキパキと空気中の水分が凍る音が鳴る。


 一触即発の空気が漂ったが、クロエは挑発に乗ることなく、むしろ楽しげに肩をすくめた。


「今日はこのお皿を返しに来ただけよ。ごちそうさま、シュン。また近いうちにね」


 クロエはそう言い残し、信子の氷点下の視線を受け流しながら、優雅な足取りで部屋を後にした。玄関のドアが閉まる音が響くと、リビングの極寒の空気も少しだけ緩んだ。


「……勝手に入り込んで、私の主夫の料理を食べるなんて」


 信子は不満げに唇を尖らせ、クロエが座っていた向かいの席にドスンと腰を下ろした。


「起きていたんですか、信子さん。冷たいものを食べ過ぎた胃腸には、スパイスが効きますよ。信子さんの分も、今盛り付けますね」


 俺が努めて平坦な声で言い、温かいカレーの皿を彼女の前に置くと、信子はまだ少し機嫌が悪そうにしながらも、銀色のスプーンを手に取った。


 一口食べた瞬間、信子の眉間のシワがスッと消え、「美味しい……」といつものだらしない笑顔を隠しきれずに頬を緩めた。


「キャン!」


 テーブルの下で、争いが収まったのを察知したモカが、俺の足元にそっと寄り添ってきた。

 俺は子犬の柔らかな頭を撫でながら、自分の分のカレーを口に運んだ。


「俊作、おかわり! ルーも多めで!」

「私にも、少しライスを足してちょうだい」


 競い合うように空の皿を差し出してくる二人の美女……いや、一人はすでに帰ったはずだが、信子の食欲は完全に火がついたようだ。


 俺は空の皿を受け取り、苦笑しながら炊飯器へと向かった。どうやら我が家の炊飯ジャーは、これからしばらく、フル稼働の悲鳴を上げ続けることになりそうだ。

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