第18話 夢魔との秘密のデート
午後六時。設定温度十六度の強風が絶え間なく吹き荒れる三〇二号室のリビングでは、信子が抱き枕代わりの大きなクッションをぎゅっと抱え込んで深い眠りに落ちており、その丸まったお腹の上で、モカが安心しきった様子で仰向けになって丸まっていた。
休日の夕方、窓の外ではまだ暴力的な熱気がアスファルトを焦がし、逃げ場のない湿気が街全体をサウナのように包み込んでいるはずだ。しかし、分厚い遮光カーテンで外界と完全に隔離され、限界まで冷やされたこの部屋の中は、完全に時間の流れが止まっているかのようだった。
キッチンカウンターに立つ俺は、すでに夕食のメインとなるラタトゥイユの仕込みを終え、トマトと夏野菜が鍋の中で静かに馴染むのを待っている状態だった。一人、静寂の中で温かいコーヒーをゆっくりと喉に流し込みながら、電子書籍のページを指先で送る。ブラック企業で連日徹夜を強いられていた頃には考えられない、この上なく贅沢で穏やかな時間だ。
ふと、控えめな電子音が空間の静寂を破った。
エントランスのオートロックを介さず、直接こちらの玄関のボタンが押されたのだ。
「……こんな時間に、誰だ」
信子たちを起こさないよう、スリッパの足音すら殺して玄関に向かい、インターホンの液晶モニターを覗き込む。そこには、オートロックの関門を抜けて直接ドアの前に立つ美女の姿があった。
最上階のペントハウスに住むサキュバス、クロエ・ミラーだ。
ドアを開けると、高級ブランドの妖艶で甘い香水の匂いが、廊下の少し淀んだ生ぬるい空気と共に鼻腔をくすぐった。
「こんばんは、シュン。予告なしの訪問、許してちょうだい」
クロエは、先日の深夜に疲労困憊で訪ねてきた時の無防備なネグリジェ姿とは打って変わり、頭の先から爪の先まで一切の隙がない完璧な装いだった。身体のしなやかなラインを美しく見せる深紅のタイトドレスに、足元を鋭く飾る黒のピンヒール。ダークブルネットの髪は美容室でセットしたかのように丁寧に巻かれ、翳りのない完璧なメイクが施されている。まるでこれから高級ホテルの最上階ラウンジで、特別待遇のディナーでも楽しむかのような、圧倒的な大人の女のオーラを放っていた。
「こんばんは、クロエさん。どうされましたか」
「単刀直入に言うわ。今夜、私の部屋にいらっしゃい」
クロエは真紅に彩られた唇を妖艶に吊り上げ、自信に満ちた笑みを浮かべた。
「この前のお握りの借り、きっちり返させてもらうわ。私のペントハウスで、最高のエスコートをしてあげる。……まさか、川口さんに怯えて断るなんて言わないわよね?」
挑発的な視線。その奥には、明確に「今日こそあなたを落としてみせる」という女としての野心と、誇り高きサキュバスとしてのプライドが静かに燃え上がっていた。
俺は背後のリビングをちらりと振り返った。クッションを抱きしめた信子の寝息は規則正しく、あと一、二時間は起きる気配がない。夕食の時間は午後八時を予定している。
「分かりました。ちょうど夕食の仕込みも終わったところですし、少しお邪魔させていただきますよ」
俺が静かに頷くと、クロエは勝利を確信したように満足げに微笑み、「ついてきなさい」とピンヒールの硬い音を大理石の廊下に響かせて、専用エレベーターへと向かった。
最上階のペントハウスに足を踏み入れた瞬間、俺は内心で感嘆の息を漏らした。
天井は驚くほど高く、壁一面を覆う巨大なガラス窓からは、夕暮れの茜色から夜の深い青へと移り変わる東京の街並みが、完璧なパノラマで広がっていた。眼下に見下ろす無数のビルの灯りが、まるで宝石箱のように煌めいている。室内は無駄なものが一切ない、白と黒を基調とした無機質で洗練されたインテリアで統一されていた。生活感という泥臭い要素が完全に削ぎ落とされた、まさに外資系エリートが君臨する孤高の城だ。
「どうぞ、座って」
クロエに艶やかな手つきで促され、俺は重厚な大理石のダイニングテーブルの席についた。
テーブルの上には、すでに完璧なディナーのセッティングが施されていた。クリスタルのワインクーラーには氷が敷き詰められ、ヴィンテージの高級シャンパンが冷やされている。銀のプラターには、超一流レストランのデリバリーであろう豪奢なフレンチのオードブルが、まるで芸術品のように美しく盛られていた。厚みのあるローストビーフ、濃厚なフォアグラのテリーヌ、そしてキャビアをたっぷりと添えたサーモンのマリネ。
「月給百万円のオファー、私はまだ諦めてないわよ。あなたの主夫としてのスキルが本物だっていうのは、この前のお握りとスープで嫌というほど分かったしね」
クロエは俺の向かいに優雅に腰を下ろし、慣れた手つきでシャンパンのコルクを音もなく抜くと、二つの細長いフルートグラスに黄金色の液体を注いだ。
「乾杯」
グラスを合わせる。きめ細かい無数の泡が弾け、芳醇でフルーティーな香りがテーブルの間に広がった。
「さあ、遠慮せずに食べて。……それとも、私が直接口まで運んであげた方がお好みかしら?」
クロエはグラスをコトリとテーブルに置き、ゆっくりと立ち上がって俺の隣へと移動してきた。
彼女の細く白い指が、俺の肩にそっと触れる。身を屈めた深紅のドレスの胸元が大きく開き、豊満な谷間が露わになっている。
彼女のダークブラウンの瞳の奥で、吸い込まれそうな紫色の光が妖しく明滅し、脳の奥を微かに痺れさせるような、甘く濃密な空気がテーブル一帯を支配し始める。
吐息がかかるほどの至近距離。サキュバスとしての本能的な魅了の力が、空間の温度を上げ、俺の理性を溶かそうと迫り来る。普通の男なら、この圧倒的な色香と好条件の前に、数秒で完全に陥落しているだろう。
だが、俺の心拍数は一定のリズムを刻んだままだった。
かつて過酷な営業の現場や、限界を迎えた同僚たちの間で嫌というほど磨かされてきた観察眼が、目の前の美女の小さなSOSを、静かに、しかし容赦なく拾い上げていたのだ。
右足の小指の外側を庇うような、不自然な重心の偏り。完璧なファンデーションの下に隠しきれない、深刻な肌の乾燥。そして何より、先ほどから彼女が胃のあたりを無意識に庇い、微かに引きつらせていること。
クロエは妖艶な笑みの仮面を顔に貼り付けたまま、自らのフルートグラスを手に取り、冷たいシャンパンを一口含んだ。
その直後だった。
「……っ」
不意に、クロエの表情からスッと血の気が引き、グラスを持った手が小刻みに震え始めた。
カチャン、と危うい音を立ててグラスがテーブルに置かれる。彼女は苦しげに胃のあたりを両手で強く押さえ、足元のピンヒールがぐらりと揺れ、そのまま床に崩れ落ちそうになる。
「クロエさん!」
俺は瞬時に椅子から立ち上がり、床に倒れ込む寸前の彼女の細い身体を、両腕でしっかりと受け止めた。
「……ごめんなさい、ちょっと、貧血が……」
荒い息を吐きながら、クロエが俺の胸の中で力なく呟く。彼女の背中からは、本来なら相手を魅了するはずの黒いコウモリの羽の幻影が、実体化しかけたままダランと哀れに垂れ下がっていた。
連日の激務による過労。それに加えて、合わないピンヒールでの無理な姿勢、そして極度に荒れた胃腸に、冷たいアルコールと脂の強いフレンチの暴力的な匂い。限界ギリギリで綱渡りをしていた彼女の身体が、俺を落とそうと無理に背伸びをした結果、ここにきてついに悲鳴を上げたのだ。
「喋らなくていいですから、力を抜いてください」
俺は彼女の身体を横抱きにし、部屋の奥にある広々としたレザーソファへと静かに横たわらせた。
「……情けないわね。あなたを落とすはずだったのに、こんな姿見せるなんて」
青白い顔で自嘲するように笑うクロエの足元に跪き、俺は彼女の足を締め付けていた黒のピンヒールを、左右とも丁寧に脱がせた。赤く擦れた小指の外側が、彼女の痛々しい無理を如実に物語っていた。
「俺、こう見えて結構しぶといんですよ。それに、あなたのその隙のないドレス姿より、髪が少し乱れてるくらいの方が、よっぽど人間らしくて魅力的だと思いますけどね」
俺が穏やかなトーンでそう言うと、クロエは驚いたように小さく目を見開き、そしてバツが悪そうにすっと視線を逸らした。
「……少し、キッチンを借りますよ。胃腸が悲鳴を上げている時に、キャビアやフォアグラは毒ですからね」
俺は立ち上がり、シャツの袖を肘までまくり上げながら、アイランドキッチンへと向かった。
巨大でピカピカの冷蔵庫を開けると、中身は予想通り絶望的だった。数本のミネラルウォーターと、飲みかけの白ワイン、そして頂き物らしき高級なカマンベールチーズが一つ入っているだけだ。野菜や肉などの生鮮食品は一切ない。
だが、この程度の制約で思考を停止するようなら、プロの主夫は務まらない。
俺はダイニングテーブルに戻り、デリバリーのオードブルに添えられていた手つかずの硬めなバゲットと、小さな容器に入っていたコンソメのジュレを手にした。
キッチンに戻り、フライパンを火にかける。オリーブオイルを引き、硬くなったバゲットを一口大にちぎって投入する。少しのガーリックソルトを振り、表面がカリッとするまで弱火でじっくりと炒める。香ばしい匂いが、無機質なキッチンに広がっていく。
そこにミネラルウォーターを注ぎ、デリバリーのコンソメジュレを溶かし入れた。ジュレが熱で溶け、濃厚な琥珀色のスープへと変わっていく。スープが沸騰してきたところで、細かく刻んだカマンベールチーズをたっぷりと加えた。
チーズがとろりと溶け出し、スープを吸ったバゲットが柔らかく崩れていく。フランスの家庭料理、「パナード」の即席アレンジだ。所要時間は十分もかかっていない。
「お待たせしました。特製のチーズパナードです」
深めのスープ皿に盛り付け、スプーンを添えてソファのローテーブルに置く。湯気を立てる琥珀色のスープから、チーズのまろやかなコクとコンソメの豊かな香りが立ち上っている。
クロエはおずおずと身を起こし、スプーンを手に取った。
柔らかくなったパンととろけるチーズをすくい上げ、小さく口を開けてパクリと頬張る。
ゆっくりと咀嚼し、飲み込む。
温かいスープが、シャンパンで冷え切っていた胃袋をじんわりと温めていく。疲労した身体に旨味が優しく染み渡っていくのが、彼女の強張っていた表情がゆっくりと解けていく様子から、手に取るように分かった。
彼女は無言でスプーンを動かし続け、あっという間に皿を空にしてしまった。
「……また私の体が、言うことを聞かなくなっちゃっただけよ。お握りだけじゃなくて、こんなものまであっさり作っちゃうなんて……やっぱりあなた、可愛くない男ね」
空になった皿を見つめながら、クロエは微かに頬を染め、強がるように唇を尖らせた。
「俺はただの雇われ主夫ですよ。目の前で無理をしている人がいたら、つい世話を焼きたくなる職業病みたいなものです」
「そういうところが、ずるいのよ……」
クロエは手元のクッションを抱きしめ、上目遣いで俺を睨んだ。
しかし、その瞳に宿っているのは、仕事用や誘惑用の冷徹な仮面の奥に隠された、純粋な温もりを求める切実な光だった。
「今日はもうゆっくり休んでください。洗い物は済ませておきますから」
食洗機に皿を入れ、手早く後片付けを終えた俺は、クロエに見送られてペントハウスを後にした。
エレベーターで三階まで降り、隣の三〇二号室の重厚なドアを開けると、設定温度十六度の容赦ない冷風が俺を出迎えた。
「ん……俊作? どこ行ってたの?」
リビングのソファで、目をこすりながら信子が起き上がったところだった。その足元では、飼い主の帰還に気づいたモカが、短い尻尾をちぎれんばかりに振って飛び跳ねている。
「少し、夜風に当たってきました」
「お腹空いた!」
「キャン!」
リビングから元気に響く二人の大合唱に急かされながら、俺は苦笑交じりにエプロンを締め直した。今夜のラタトゥイユは、いつもより少しだけ時間をかけて、じっくりと野菜の甘みを引き出すことにしよう。




