第17話 夢魔の甘い誘惑
時計の針が午後十一時を回った頃。
深夜、静まり返ったリビングには心地よい冷気が満ちており、信子はすでに深い休眠状態に入っていた。夏の連日の猛暑に加え、仕事の激務と過酷な体温調節で著しく消耗した体力を回復させるため、今は物理的に感覚を遮断して眠らざるを得ない状態なのだろう。どんな物音がしても起きる気配がない。彼女の冷え切った足元には、茶色い毛玉――モカが丸くなり、規則正しい寝息を立てている。
俺はキッチンに立ち、明日の朝食の下準備を済ませたところだった。シンクを丁寧に磨き上げ、布巾を洗い、静まり返った部屋で小さく息を吐く。体に染み付いた夜型のサイクルは、そう簡単には抜けない。だが、明日への不安や、締め付けられるような胃の痛みを伴わないこの静かな夜の時間は、今の俺にとって悪くないものだった。
ふと、玄関のインターホンが低く、控えめに鳴った。
エントランスからの呼び出しではない。直接、この三〇一号室のドア前からの電子音だ。
「……こんな時間に」
信子を起こさないよう、足音を忍ばせてモニターを確認する。
画面に映っていたのは、最上階のペントハウスに住むサキュバス、クロエ・ミラーだった。
先日の訪問時のような、隙のないビジネススーツ姿ではない。艶やかなダークブルネットの髪は無造作に下ろされ、肩には薄手のシルクのガウンを羽織っている。しかし、その下から覗くのは、身体のラインを隠そうともしない黒のネグリジェだった。
深く開いた胸元と、透けるような生地。モニター越しでもはっきりと伝わる、あからさまで扇情的な出で立ちだ。
俺は少しだけ眉をひそめ、玄関へと向かった。チェーンを掛けたままドアを数センチ開ける。
「こんばんは、シュン」
ドアの隙間から、ベルベットのように滑らかな声が滑り込んできた。同時に、あの甘く退廃的な香水の匂いが、夜の少し淀んだ空気と混ざり合って鼻腔をくすぐる。
「夜分遅くに失礼するわ。少し、お話できないかしら」
「クロエさん。今はもう午後十一時を過ぎています。信子さんも休んでいますし、日を改めていただけませんか」
「川口さんが寝ているから、来たのよ」
クロエはドアの隙間にスッと細い指を掛け、妖艶な笑みを浮かべた。
「この前、言ったでしょう? 近いうちに面白い提案をしに来るって。……ここじゃなんだから、入れてくれない?」
ダークブラウンの瞳が、薄暗い廊下の照明を受けて妖しく光る。彼女の背後の空間が、一瞬だけ陽炎のように揺らいだ気がした。幻覚か、それともサキュバスとしての本能的な魅了の力か。
普通の男なら、この色香と状況に理性を吹き飛ばされてドアを開け放つだろう。
だが、俺の視線は彼女の胸元でも瞳でもなく、ドアの縁に掛けられた指先に向かっていた。
完璧なネイルが施されたその指は、かすかに、しかし確実に震えている。
香水の甘い匂いの奥には、隠しきれない極度のストレスと、睡眠不足特有の乾いた気配が張り付いていた。
「……分かりました。チェーンを外すので、少し下がってください」
ドアを開けると、クロエは満足げに微笑み、しなやかな足取りで玄関に足を踏み入れた。
「リビングは信子さんが寝ているので、ダイニングへどうぞ。足元、気をつけてください」
俺が促すと、クロエはダイニングテーブルの椅子に優雅に腰を下ろした。ガウンの裾がはだけ、白く長い脚が露わになる。彼女はそれを見せつけるように脚を組み替え、テーブルに肘をついた。
「それで、提案というのは?」
対面の席には座らず、キッチンのカウンター越しに尋ねる。
「単刀直入に言うわ」
クロエは俺を真っ直ぐに見据え、赤い唇を吊り上げた。
「私の専属になりなさい。月給は百万円。今の川口さんの倍は出すわ。それに、住み込みの部屋もペントハウスの一室を使わせてあげる。この狭くて冷え切った部屋より、ずっと快適よ」
圧倒的な条件の提示。外資系コンサルティングファームのシニアマネージャーという立場からすれば、痛くも痒くもない額なのだろう。
「さらに言えば」
クロエは立ち上がり、ゆっくりとカウンターの方へ歩み寄ってきた。
甘い香水の匂いが濃くなる。彼女はカウンター越しに身を乗り出し、俺の顔に吐息がかかるほどの距離まで顔を近づけた。
「私なら、川口さんみたいにただ冷やしてもらうだけじゃなくて……もっと大人の、最高の『待遇』をつけてあげることもできるわ。私がサキュバスだってこと、あなたならもう気づいてるんでしょう?」
誘惑するような上目遣い。吐息に混じる、脳を直接揺さぶるような甘い熱。
彼女の背中のあたりに、小さなコウモリのような羽のシルエットが実体化しかけているのが見えた。
「どう? 悪い話じゃないはずよ」
勝利を確信したような、自信に満ちた笑み。
俺は彼女の瞳を静かに見返し、ただ一つ、事実を口にした。
「夕食、まだですよね」
「……は?」
予期せぬ言葉に、クロエの笑みがピタリと固まった。
「胃が完全に空っぽの音がしました。それに、目の下のコンシーラー、少し浮いてますよ。おそらくここ数日、まともな食事も睡眠もとっていないんじゃないですか」
「な……っ」
クロエは弾かれたように身を引き、無意識に自分の目元を手で覆った。
「月給百万円のオファーは光栄ですが、俺は信子さんとの契約を打ち切るつもりはありません。ただ、空腹で倒れそうな人をそのまま追い返すほど、冷酷にもなれません」
俺は冷蔵庫を開け、中を素早く確認した。
「座って待っていてください。すぐに何か、腹にたまるものを作りますから」
クロエは何かを言い返そうと口を開いたが、その瞬間に彼女の腹の虫が小さく、しかしはっきりと「きゅるる」と鳴った。
彼女はバツの悪そうに視線を逸らし、「……勝手にしなさいよ」と小さな声で吐き捨てて、再び椅子に座り込んだ。
俺はエプロンを締め、手早く調理に取り掛かった。
深夜の空きっ腹に重いものは負担になる。ここはシンプルで、かつ確実にエネルギーになるものがいい。
炊飯器には、夕食の残りのご飯がちょうど茶碗二杯分ほど保温されていた。
チルド室から甘塩の鮭の切り身を取り出し、魚焼きグリルへ入れる。弱火でじっくりと火を通す間、小鍋に湯を沸かした。
沸騰した湯に、鶏ガラスープの素を小さじ一杯、酒と醤油をほんの少し垂らす。そこへ乾燥ワカメと、斜め薄切りにした長ネギを放り込んだ。ネギがしんなりとしたところで火を止め、風味付けのごま油を数滴垂らし、白ごまを振る。これで即席の中華スープは完成だ。五分もかからない。
グリルから、鮭の皮がパリッと爆ぜる香ばしい匂いが漂い始めた。
焼き上がった鮭を皿に取り出し、熱いうちに菜箸で粗く身をほぐす。骨を一本一本、丁寧に取り除く。このひと手間が、お握りにした時の食べやすさを決定づける。
ボウルに温かいご飯を移し、ほぐした鮭とたっぷりの白ごまを加え、しゃもじで切るように混ぜ合わせる。
両手を水で濡らし、少量の塩を手のひらに馴染ませた。ご飯の半量を手に取り、中に空気を包み込むようなイメージで、リズミカルに三角に握っていく。力を入れすぎず、かといって崩れない絶妙な力加減。
残りのご飯には、常備菜として作っておいた「小エビの佃煮」をたっぷりと芯にして、もう一つ握る。甘辛く煮詰められた小エビの香りが、湯気と共に立ち上る。
木製のプレートに、大ぶりの鮭のお握りと、小エビの佃煮のお握りを並べる。
付け合わせには、大粒の南高梅の梅干しと、少し発酵が進んで酸味の出た本場のキムチを小鉢に盛った。乳酸菌の酸味は、疲労回復に即効性がある。
「お待たせしました」
湯気を立てる中華スープの椀とプレートを、クロエの前に置く。
完璧に着飾ったサキュバスの目の前に出された、極めて日本的で素朴な夜食。
クロエは呆然とした顔で、目の前の料理と俺を交互に見た。
「……何よ、これ。私はキャビアやトリュフを出せなんて言ってないけど、お握りって」
「深夜の疲れた胃腸には、これが一番効くんです。温かいうちにどうぞ。スプーンを使ってもいいですが、手で持って食べた方が美味しいですよ」
俺が言うと、クロエは不満げに唇を尖らせながらも、おずおずと手を伸ばした。
彼女の指先が、鮭のお握りに触れる。
温かい。その事実に、彼女は少しだけ目を丸くした。
小さく口を開け、お握りの角をかじる。
サクッとした海苔の食感の後、ふんわりと解けるご飯の甘み。そして、絶妙な塩気の鮭と、香ばしい白ごまの風味が口いっぱいに広がる。
「……っ」
クロエの動きが、完全に止まった。
ゆっくりと咀嚼し、飲み込む。
そして、今度は中華スープの椀を両手で包み込むように持ち上げ、一口すする。
鶏ガラの優しい出汁に、ごま油の豊かな香り。シャキシャキとした長ネギの食感が、空っぽだった胃袋をじんわりと温め、満たしていく。
「美味しい……」
彼女の口から漏れたのは、計算された色っぽい吐息でも、高慢なセリフでもなかった。
ただの、疲れ切った等身大の女性の、切実な本音だった。
「小エビの佃煮の方も、甘辛くて美味しいですよ。付け合わせのキムチの酸味で、口の中をリセットしながら食べてください」
俺が温かい麦茶のグラスを傍らに置くと、クロエは無言で頷き、無我夢中でお握りを頬張り始めた。
ネグリジェの胸元がはだけるのも気にせず、頬を膨らませて食べるその姿には、先ほどまでの「大人の女」の余裕など微塵も残っていない。
無理もない。彼女の疲労は限界を超えていた。
虚勢を張らなければ、立っていられないほどのプレッシャーの中で戦っている。理不尽な要求に耐え続けていた、かつての誰かを見ているようだった。
そんな時に必要なのは、百万円の札束でも、官能的な快楽でもない。ただ、誰かが自分のために作ってくれた、温かくて普通の食事なのだ。
「……どうして」
ふいに、クロエがぽつりと呟いた。
最後の一口を飲み込み、スープの椀を置いた彼女の瞳には、微かに涙の膜が張っていた。
「どうして、こんな……ただのお握りなのに、こんなにホッとするのよ……」
「手で直接握るからですかね。不思議なもので、機械で握ったものより、人が手で握ったものの方が、温かさが伝わる気がするんですよ」
俺はカウンターの布巾を畳みながら、淡々と答えた。
「クロエさん、いつも完璧でいようとしすぎじゃないですか。仕事も、プライベートも。……たまには、こうして肩の力を抜いて、温かいものを食べて寝るだけの日があってもいいと思いますよ」
その言葉が、彼女の張り詰めていた糸を完全に断ち切ったようだった。
「っ……ばか。勝手なこと、言わないでよ……」
クロエは両手で顔を覆い、肩を震わせた。
サキュバスとしてのプライドも、エリートコンサルタントとしての矜持も、俺の作ったお握りとスープの前にあっけなく瓦解してしまったのだ。
俺はそれ以上何も言わず、彼女が落ち着くまで静かに麦茶のグラスを見つめていた。
数分後。
なんとか感情を立て直したクロエは、持参していたシルクのハンカチで目元を押さえ、深く息を吐いた。
「……ごちそうさま。すごく、美味しかったわ」
「お粗末様でした。少しは元気が出ましたか」
「ええ。なんだか、憑き物が落ちたみたい」
クロエは立ち上がり、ガウンの襟を直した。その動作は、先ほどまでの崩れかけた脆さを隠し、再び「完璧な大人の女」の仮面を被り直すための儀式のようだった。
「お握りなんかで……っ。でも、体は嘘をつけないわね。今日のところはこれで引いてあげる」
強がるように俺を流し見するが、その表情には初めの頃のような刺々しい余裕はなく、どこかバツの悪そうな響きが混じっていた。
「ええ、またいつでも夜食を食べに来てください。ドアを開ける前に、ちゃんと服は着てきてほしいですが」
俺が苦笑交じりに言うと、クロエは「……うるさいわね。せいぜい、首を洗って待ってなさい」と、ヒールの音を響かせて背を向けた。
彼女を玄関まで見送り、ドアを閉める。
外の廊下には、もうあの重苦しい香水の匂いは残っていなかった。
「……さてと」
ダイニングに戻り、空になった皿と椀をシンクに下げる。
食器を洗いながら、俺は小さく首を振った。
月給百万円の誘い。確かに魅力的な額だが、俺の心は一ミリも揺るがなかった。
冷え切ったこの部屋で、ソファに丸くなって眠る不器用な雪女と、茶色い子犬の寝息。それらが作り出す静かな空間こそが、俺がようやく見つけた、手放したくない日常なのだ。
洗い物を終え、キッチンの照明を落とす。
「んぅ……俊作……?」
不意に、リビングのソファから寝ぼけたような声が聞こえた。
見ると、信子が薄く目を開け、タオルケットの中から俺を探すように手を伸ばしていた。
「起きてますよ。どうかしましたか」
俺が近づくと、信子は俺の二の腕をきゅっと抱きしめ、安心したように目を閉じた。
「……夢、みたの。俊作が、どこかに行っちゃう夢……」
「行きませんよ。俺の雇用主は信子さんだけですから」
俺は彼女の冷たい頭をそっと撫でた。
信子は「うん……」と満足そうに小さく吐息を漏らし、再び深い寝息を立て始めた。
窓の外では、夜の闇が少しずつ薄れようとしていた。
隣から伝わってくるひんやりとした体温を感じながら、俺は静かに目を閉じ、訪れつつある朝の気配に身を委ねた。




