第16話 最上階のサキュバス
新宿での騒がしい買い出しから数日が過ぎた。
八月下旬の強い日差しが遮光カーテンの隙間から差し込んでいる。俺はフローリングワイパーを手に取り、リビングの床を隅々まで丁寧に拭き上げていた。足の裏から伝わってくる人工的な冷気が、外で猛威を振るう猛暑をすっかり忘れさせてくれる。極端に冷やされたこの静かな空間は、今や俺にとって最も心地よい日常の一部になっていた。
ふと、背後から切羽詰まったような小さな声が聞こえてきた。
「クゥン……キュンッ」
振り返ると、サークルの柵に短い前足を掛け、茶色い毛玉――モカが必死の形相でこちらを見つめていた。
生後二ヶ月のトイプードルであるモカにとって、俺が家事をしている時間はサークル内でのお留守番タイムと決まっている。掃除機やワイパーの予期せぬ動きに驚いて怪我をしないための安全措置なのだが、遊び盛りの彼にとっては不満で仕方ないらしい。
「もう少し待ってな。ここを拭き終わったら出してやるから」
俺が声をかけると、モカは言葉の意味を理解したのかしていないのか、柵に掛けた前足をカリカリと小刻みに動かし始めた。
『どうしても出たい』という強い意志の表れだ。丸く黒い瞳には微かに涙が浮かんでいるように見え、細く短い尻尾はモーターのように高速で振られている。さらには、一旦お座りの姿勢を見せて「僕はこんなに良い子ですよ」とアピールしたかと思えば、耐えきれずに再び柵に飛びつき、「キャン!」と少しだけ大きな声で要求を伝えてくる。その一連の動作のすべてが、計算し尽くされたように愛らしかった。
「……反則だろ、その顔は」
俺は小さく息を吐き、ワイパーを壁に立てかけた。
サークルのロックを外して扉を開けた瞬間、モカは弾かれたように飛び出してきた。冷たいフローリングで少しだけ足を取られながらも、一直線に俺の足元へと駆け寄り、スリッパの上に乗ってスウェットの裾を小さな歯で甘噛みしてくる。
「よしよし。いい子にしてたな」
しゃがみ込んで抱き上げると、三十八度近い子犬特有の温かさと、甘いミルクの匂いが伝わってきた。モカは俺の顎のあたりをザラザラとした小さな舌で夢中になって舐め回し、全身で解放の喜びを表現している。
「俊作、モカばっかりずるい。私にも」
ソファの方から、少し拗ねたような声が響いた。
見れば、黒のキャミソール姿の信子が、タブレット端末から顔を上げてこちらをジト目で睨んでいた。新宿の美容室で整えてもらったばかりのプラチナブロンドの髪が、絶え間なく吹き付ける冷風を受けてサラサラと揺れている。会社では『氷の女帝』と恐れられる彼女だが、休日の自室ではすっかり角が取れ、無防備な素顔を見せていた。
「信子さんには後で冷たいアイスティーを淹れますから。モカ、信子さんのところへ行ってこい」
俺がモカを床に下ろすと、茶色い毛玉はトコトコと信子の元へ走り、そのひんやりとした白い足首に身体をすり寄せた。信子はすぐに表情を緩め、モカを膝の上に抱き上げて愛おしそうに目を細めた。冷たい雪女の肌と温かい子犬という相反する二つの存在が、不思議と調和して一枚の絵のように収まっている。
平穏な昼下がりだ。俺は洗面所で手を洗い、キッチンに向かおうとした。
その時、静かな部屋にインターホンの電子音が鳴り響いた。
宅配便の予定はなかったはずだ。モニターを確認すると、エントランスからの呼び出しではなく、直接この三〇一号室の玄関前からの呼び出しだった。オートロックの高級マンションで直接玄関に来られるのは、同じマンションの住人か、管理人くらいだ。
モニターに映る人物の姿を見て、俺は少しだけ目を瞠った。
そこに立っていたのは、ダークブルネットの髪を緩く巻いた、外国人女性だった。
上質なシルクのブラウスにタイトなスカートという、まるでファッション誌から抜け出してきたかのような隙のないビジネススタイル。しかし、そのシャープで端正な顔立ちには、どこか退廃的でアンニュイな色気が漂っている。
「……誰かしら」
モカを抱いたまま信子がモニターを覗き込み、途端にその端正な顔を険しく歪めた。
「最悪。なんであの女がここにいるのよ」
「お知り合いですか」
「知り合いっていうか……最上階のペントハウスに住んでる、香水のきついアメリカ人よ。たまにエレベーターで会うと、いちいちマウントを取ってくるの」
信子の言葉で、先日エレベーターホールで出くわした、あの残り香が脳裏をよぎった。……あの、甘く官能的な香水の主か。
「居留守を使いましょう。どうせろくな用事じゃないわ」
「そういうわけにもいきませんよ。同じマンションの住人なら、何かのトラブルかもしれませんし」
俺は信子を制し、玄関へと向かった。
ドアを開けると、予想通り、むせ返るような濃密な甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「こんにちは。突然の訪問、許してくださる?」
女性は、淀みのない流暢な日本語でそう切り出した。声は低く、ベルベットのように滑らかだ。吸い込まれるようなダークブラウンの瞳が、俺の顔から足元までを素早く、しかし品定めするように値踏みした。
「こんにちは。ええと、最上階にお住まいの方ですよね。どのようなご用件でしょうか」
「ええ。クロエ・ミラーと申します。少し、あなたにお話があって伺ったのだけれど……中に入れていただけるかしら?」
初対面の相手の部屋へ入ろうとする図々しさだが、その佇まいには不快感よりも圧倒的な自信が満ちていた。
俺は一瞬だけ背後のリビングを振り返り、小さく頷いた。
「どうぞ。少し散らかっていますが」
クロエをリビングに通すと、肌を刺すような冷気に彼女の細い眉がわずかにピクリと動いた。しかし、すぐにポーカーフェイスを取り戻し、ソファに座る信子を見て挑発的な笑みを浮かべた。
「あら、川口さん。今日も相変わらず、涼しげな格好ね。冷え性にはならないのかしら」
「人の部屋にいきなり上がり込んでおいて、挨拶がそれ? 相変わらず品がないわね、クロエ」
信子の声は絶対零度だ。同年代の高収入エリート同士、どうやら本当に水と油のように相性が悪いらしい。リビングの空気が、物理的な冷たさとは別の緊張感で張り詰める。
「冷たいおもてなしね。でも、今日私が用があるのはあなたじゃないの」
クロエは信子の冷気を完全に無視し、俺の方へ向き直った。
俺はダイニングテーブルの椅子を勧め、キッチンから水出しの冷たいハーブティーをグラスに注いで出した。ペパーミントとレモングラスをブレンドしたもので、彼女の重い香水の匂いを少しでも中和するための選択だ。
「ありがとう。……ミスター」
「五十嵐です。五十嵐俊作」
「そう、シュン。単刀直入に言うわ」
クロエはハーブティーを一口飲み、その完璧な抽出加減とすっきりとした後味に一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに余裕の笑みを作り直した。
「川口さんが、優秀な専属のハウスキーパーを雇ったという噂はマンションの管理人から聞いていたわ。でも、実際にこのお茶をいただいて確信した。あなたのスキルは、本物みたいね」
彼女は長い脚を組み替え、俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「私は外資系コンサルティングファームでシニアマネージャーをしているの。仕事は完璧にこなせるけれど、家のことは手が回らなくてね。あなたのその気配りと家事スキル、高く評価するわ」
クロエの言葉は、圧倒的な自信に裏打ちされたものだった。
普通の男なら、この知的な色気と大胆なアプローチに目が眩むかもしれない。現に、信子は顔を青ざめさせ、俺の二の腕をきゅっと抱きしめていた。薄いスウェット越しに伝わってくる、尋常ではない雪女の冷たさが、彼女の焦りと不安を雄弁に物語っていた。
だが、俺は冷静に目の前の女性を観察していた。
シルクのブラウスは完璧にアイロンが掛けられているが、よく見れば袖口にわずかな毛羽立ちがある。パンプスのヒールは綺麗に磨かれているものの、外側が不自然にすり減っている。何より、ハーブティーのグラスを持つ彼女の指先が、微かに、本当に微かにだが震えていた。
濃密な香水は、大人の色気を演出するためだけではない。極度の疲労からくるストレス臭や、徹夜明けの身体の不調を誤魔化すための防具だ。
彼女の目の奥には、隠しきれない強い疲労感と、それに反比例するような『誰かの温もり』に対する飢えのようなものが透けて見えた。
コンサルティングファームのシニアマネージャーといえば、信子と同年代の若さで到達するには異常なほどの激務をこなしているはずだ。完璧な大人の女を演じているが、その中身は限界ギリギリで綱渡りをしているように俺には見えた。六年間、ブラック企業で身を削ってきた俺には、限界を迎えた人間特有の隠しきれないサインが手に取るように分かってしまう。
「……クロエさん」
俺は柔らかく、しかしはっきりとした声で呼びかけた。
「何かしら」
「温かいスープでも飲んで、今日はゆっくり休んでください。エントランスの近くに、無添加の惣菜を売っている店がありましたよ。あそこのカボチャのポタージュは、胃に優しくておすすめです」
説教でもなく、同情でもない。ただ事実を指摘し、少しだけ気遣う。
それは、長年の社畜生活の中で、限界を迎えた同僚たちに何度も向けてきた、俺なりの無意識の処世術だった。
俺の言葉に、クロエの表情が完全に固まった。
図星を突かれた動揺。自分が完璧に隠し通していたはずの「疲労」と「弱さ」を、初対面の、しかも見下していたはずのハウスキーパーに一瞬で見抜かれたことへの衝撃。
「な、何を……」
クロエは数秒間、声もなく俺を見つめていた。
そのダークブラウンの瞳の奥で、カチリと何かのスイッチが入る音がしたような気がした。
「……あなた、面白いわね」
クロエは逃げるように立ち上がった。入ってきた時の余裕は消え失せ、頬は微かに朱に染まっている。
「今日は、これで失礼するわ。でも……ふふ、近いうちに面白い提案をしに来るわ。待っていてちょうだい、シュン。ミスター・パーフェクト」
不敵な笑みと共にそう残し、彼女は足早に玄関へと向かった。
ドアが閉まる直前、彼女の背中のあたりで、一瞬だけ黒いコウモリのような小さな羽が幻のように見えた気がしたが、すぐにドアは閉じられた。
静寂が戻ったリビングで、俺は小さく息を吐いた。
「……絶対、行っちゃダメだからね」
腕にすがりつく力が、さらに強くなった。
見下ろすと、信子が不安そうな、それでいて安堵したような複雑な表情で俺を見上げていた。足元では、モカが不思議そうに首を傾げている。
「行きませんよ。俺の雇用主は信子さんだけですから」
「本当? どんな条件を出されても?」
「俺の料理と家事を、世界で一番美味しそうに食べて喜んでくれるのは信子さんですからね。それは、何物にも代えられません」
俺が微笑んで答えると、信子はパッと顔を輝かせ、そのまま俺の腰に抱きついてきた。
「俊作……っ! やっぱり私、あなたがいないと生きていけないわ!」
「ちょ、信子さん。モカが潰れますって」
足元で「キャン!」と抗議の声を上げるモカを避けながら、俺は冷たい雪女の感触を受け止めた。
どうやら、このマンションにはまだまだ厄介な住人が潜んでいるらしい。だが、この快適に冷やされた部屋で彼女とモカを守るのが、今の俺の何よりの仕事だった。




