第29話 倒れた少女と肉まん
騒がしくも温かい休日が過ぎ、また新しい一日が始まった。
少し買い足したいものがあって足を運んだ伊勢丹新宿本店の地下食料品街、通称『デパ地下』では、熱気を帯びたアジアンフード・フェアが開催されていた。
平日の午後だというのに、特設会場は行き交う人々の熱気で満ちている。立ち並ぶブースから漂う、ナンプラーや八角、コチュジャンの複雑で魅惑的な香り。タイの屋台を思わせる色鮮やかなサラダ、大きな鉄鍋で豪快に炒められるミーゴレン、せいろから立ち上る白い蒸気。各国の惣菜や珍しいスパイスを目にするうちに、俺の主夫としての創作意欲が静かに、しかし確実に刺激された。
手にはすでに予定していた買い物の紙袋を提げていたが、気づけば俺は新鮮な青パパイヤやライスペーパー、各種の香辛料を次々と買い足していた。
帰宅し、手洗いを済ませてキッチンに立つ。
時刻は午後四時。分厚い遮光カーテンで外の猛暑を完全に遮断したリビングは、今日も設定温度十六度の容赦ない冷風で満たされている。
ソファでは、黒のキャミソール姿の信子が、タオルケットにすっぽりとくるまりながら穏やかな寝息を立てている。その足元のクッションでは、モカが美味しそうな肉やスパイスの匂いに夢の中で釣られたのか、寝ぼけながら小さく鼻をひくひくと動かしていた。
この静かで涼やかな空間で、俺は買ってきたばかりの新鮮な食材とスパイスを大理石のカウンターに広げた。今日の夕食は、多国籍なアジアン・ディナーだ。
まずはタイ風の青パパイヤのサラダ、ソムタムから取り掛かる。
未熟で硬い青パパイヤの皮をピーラーで剥き、包丁で均一な千切りにしていく。シャキシャキとした瑞々しい手応えが刃先から伝わってくる。クロックと呼ばれる専用の木製すり鉢に、ニンニク、唐辛子、干し海老、そして半分に切ったチェリートマトを入れ、すりこぎで軽く叩いて香りと果汁を引き出す。ポクポクという小気味良い音が冷えたキッチンに響く。そこにナンプラー、搾りたてのライム果汁、パームシュガーを加えて混ぜ合わせ、最後にパパイヤを加えて和える。甘味、酸味、辛味、そして塩味が複雑に絡み合う、夏にぴったりの前菜だ。
次は、ベトナム風豚肉巻き海老の揚げ春巻き。
背ワタを取り除いて下処理をしたプリプリの海老を、薄切りの豚バラ肉で丁寧に巻く。さらにそれを、ぬるま湯でサッと戻した極薄のライスペーパーで包み込んだ。これを低温の油にそっと落とし、じっくりと火を通していく。パチパチという軽やかな音と共に、ライスペーパーの表面に無数の細かな気泡が浮かび上がり、目にも鮮やかなきつね色に揚がっていく。油を切ると、サクッという音だけでもそのクリスピーな食感が伝わってきた。
隣のコンロでは、韓国風の棒餃子を焼き始める。
豚ひき肉に、細かく刻んだニラ、茹でて短く切った春雨、そしてしっかりと水切りをした木綿豆腐を加え、ごま油とすりおろしニンニク、少量の醤油で下味をつける。それを大判の餃子の皮で細長い棒状に包み、多めの油を引いたフライパンに並べた。ジュワッという激しい音と共に、香ばしい焼き色が皮についていく。カリッと焼き上がった底面と、もちもちとした皮のコントラストが身上だ。
そして、オーブンからは香港風焼豚の甘い香りが漂い始めていた。
豚肩ロースの塊肉を、醤油、オイスターソース、蜂蜜、そして五香粉をブレンドした特製のタレに半日漬け込んでおいたものだ。じっくりと熱を通し、仕上げに表面に蜂蜜を塗って再度高温で焼き上げる。様子を見るためにオーブンの扉を開けるたびに、八角の効いたエキゾチックな香りと、じゅわりと焦げる肉の脂が放つ、抗いがたいほどに食欲をそそる芳香が冷気を切り裂いた。艶やかな飴色に焼き上がった表面を見れば、その濃厚な旨味は想像に難くない。
本日のメインは、中国の極細麺、龍髭麺を使った一皿だ。
文字通り龍の髭のように、あるいは髪の毛ほどに細い麺を、高温の油にふわりと落とす。麺は一瞬にしてチリチリと膨らみ、まるで鳥の巣のような美しい器の形に揚げ上がった。
その間に、二つのフライパンを同時に操りソースを仕上げていく。一つは、豆板醤の爽やかな辛味とトマトの酸味が効いた海老のチリソース。プリッとした大ぶりの海老が真っ赤なソースの中で艶を放つ。もう一つは、衣をつけてサクッと揚げた白身魚に、黒酢ベースの芳醇な甘酢ソースを絡めたもの。
カリカリに揚がった龍髭麺の器に、赤く艶やかな海老チリと、照りのある深い琥珀色の白身魚を、色彩のコントラストが際立つように盛り付けた。
一通りの料理が仕上がり、最後に点心の準備に取り掛かる。
粗微塵に切った豚肉、干し椎茸、筍、長ネギを、醤油とごま油、たっぷりの生姜の搾り汁で練り上げた餡。それを、ほんのりと甘みのある自家製の発酵生地でふっくらと包み込む。ひだを均等に美しく寄せ、竹のせいろに並べて強火の蒸し器にかけた。
数分後。せいろの隙間から、勢いよく白い蒸気が噴き出し始めた。
換気扇から小麦と肉の入り混じった甘くふくよかな香りが立ち上る中、ふと、玄関の向こうの共有廊下から、何かをひきずるような微かな物音が聞こえた。
クッションで寝ていたモカが小さく耳をそばだて、俺も気になって様子を見るため、玄関へと向かった。
ドアを細く開けて、外の様子を窺った、その時だった。
「……っ」
廊下の冷たい大理石のタイルの上に、黒い影がうずくまっていた。
艶やかな黒髪のストレートロング。透き通るような、というよりは血の気が全く感じられない青白い肌。チャイナドレスを現代風にアレンジしたような私服に、お札の描かれた帽子。
間違いない。以前、マンションのエントランスですれ違った、下の階に住むキョンシーの少女だ。
俺はすぐさまドアを大きく開け、彼女のそばに歩み寄って膝をついた。
「どうしました。大丈夫ですか」
声をかけながら、彼女の肩にそっと触れる。
氷のように冷たい。そして、上質なチャイナドレスの上からでも、彼女の骨格が驚くほど細く華奢であることが伝わってきた。少し力を入れただけで壊れてしまいそうな、どこか儚げな佇まいだ。雪女である信子と同じか、あるいはそれ以上に体温が感じられない。
呼吸は極端に浅く、焦点の定まらない瞳が虚空を見つめている。
その時、きゅるるる、と、彼女の平らな腹部から可愛らしい音が鳴り響いた。
外傷はなく、熱もない。となれば原因は一つ――キョンシーである彼女に必要な『気』が、完全に枯渇してしまっているのだ。
「少しだけ、待っていてください」
短く告げ、俺は急いで自室のキッチンへ戻った。
火を止め、せいろの蓋を開ける。熱い蒸気と共に、ふかふかに膨らんだ完璧な肉まんが顔を出した。俺は一番大きなものを小皿に乗せ、再び廊下へと取って返した。
彼女の鼻先に、湯気を立てる肉まんをそっと近づける。
すると、彫刻のように固まっていた彼女の端正な鼻先が、ピクリと動いた。
「……いい、におい」
かすれた声が漏れ、彼女の瞳にわずかな生気が宿る。
「出来立てです。とても熱いので、気をつけて召し上がってください」
俺が小皿を差し出すと、彼女はふらつく手で肉まんを両手で包み込むように受け取った。氷のような指先が、肉まんの熱を貪るように吸い取っていくのがわかる。
彼女は小さく口を開け、白い生地にかじりついた。
サクッとした筍の歯ごたえ、干し椎茸の深い旨味。そして、閉じ込められていた豚肉の熱い肉汁が、彼女の口の中に溢れ出す。
「……っ!」
少女の目が、驚きに丸く見開かれた。
ゆっくりと咀嚼し、飲み込む。その瞬間、青白かった彼女の頬に、ふわりと薄い桜色が差した。冷え切った身体の隅々にまで、温かな活力が染み渡っていくのが見て取れた。
「……あったかい」
彼女は誰に言うでもなく呟き、今度は無心になって肉まんを頬張り始めた。あっという間に平らげ、指先についた肉汁まで名残惜しそうに舐めとる。
「もう少し、食べるものはありますよ。部屋で温かいお茶でも淹れます。立てますか?」
俺が手を差し伸べると、彼女はこくりと頷き、俺の手を借りてゆっくりと立ち上がった。
やはり、生きている人間とは明らかに重さが違う。まるで羽毛を抱き起こすかのように軽い彼女の身体を支えながら、俺は一歩一歩、歩調を合わせて進んだ。冷たい手が、俺の体温を頼るようにしっかりと握り返してくる。
十六度に保たれたリビングに戻り、彼女をダイニングチェアに座らせる。信子はまだソファで気持ちよさそうに眠っていた。
俺は急須に茶葉を入れ、熱い湯を注いだ。立ち上る芳醇な香りと共に、琥珀色の烏龍茶を湯呑みに注ぎ、彼女の前に置く。
「どうぞ。胃が落ち着くはずです」
「……ありがとう」
彼女は両手で湯呑みを持ち、ふうふうと息を吹きかけてから、一口飲んだ。まるでお人形のような、ぼんやりとした愛らしい佇まいだ。
深い安堵の吐息が、彼女の小さな唇から漏れる。
落ち着きを取り戻した彼女は、澄んだ黒曜石のような瞳で俺をじっと見つめ上げた。
「私、李星蘭。……あなた、すごくいい気がする」
純粋で真っ直ぐな言葉に、俺は静かに微笑み返した。
「五十嵐俊作です。星蘭さん、少しお待ちください。すぐにご飯の用意をしますから」
漂うアジアンフードの香りに、新しく加わった不思議な客人の気配。俺は苦笑交じりにエプロンの紐を結び直すと、星蘭のためにせいろから熱々の肉まんを追加で取り出すべく、再びキッチンへと向かった。




