第九十四話 溢れ出した感情
“感情を捨てられる世界”は、誰かが代わりに苦しみ続けている世界なのかもしれない。
向こう側の空が、揺れていた。
黒い感情の海は、静かに波打っている。
でも。
その揺れは、さっきより確実に大きくなっていた。
レンは嫌な予感を覚える。
その時。
――パキン。
どこかで、ガラスが割れるような音がした。
レンは顔を上げる。
街の上空。
空間に、細い“亀裂”が入っていた。
紗凪の顔色が変わる。
「……始まった」
次の瞬間。
亀裂の向こうから、“感情”が溢れ出す。
泣き声。
怒鳴り声。
愛してる、という声。
助けて、という声。
無数の感情が、現実世界へ流れ込んでいく。
レンの胸がざわつく。
その時。
レンのスマートフォンが激しく震えた。
美月からだった。
レンはすぐ出る。
「美月!?」
電話越し、ざわめきが聞こえる。
人の悲鳴。
車のクラクション。
混乱した街の音。
美月が震える声で言った。
『レン、変なの……!』
『みんな急に泣き出したり、怒鳴ったりしてる……!』
レンは息を呑む。
現実世界へ、感情が漏れ始めている。
美月は続ける。
『知らない感情が流れ込んでくるの……!』
『苦しくて……っ』
レンの胸が強く痛む。
その時。
感情の海が、大きく揺れた。
女――感情回収者が、静かに目を閉じる。
「……もう止められない」
紗凪が叫ぶ。
「母さん!!」
女は娘を見る。
その目は、ひどく疲れていた。
「溜まりすぎたの」
「もう、“向こう側”だけじゃ抱えきれない」
レンは奥歯を噛む。
このままじゃ。
街中の人間へ、“捨てた感情”が流れ込む。
感情を失った人間たちが。
一気に全部を思い出す。
そんなの。
耐えられない人もいる。
その時。
紗凪がレンを見る。
「境界を閉じないと」
レンが低く聞く。
「どうやって」
紗凪は少し迷う。
そして。
苦しそうに答えた。
「“海”を受け止めるしかない」
レンは意味がわからなかった。
紗凪は続ける。
「向こう側へ溜まりすぎた感情を」
「誰かが、“抱える”必要があるんです」
その瞬間。
レンの背筋へ冷たいものが走る。
感情の海。
あの膨大な感情を。
一人で受け止める?
そんなの、人間に耐えられるのか。
その時。
女が、静かにレンを見る。
そして。
小さく呟いた。
「だから私は、ここにいたの」
その言葉で。
レンは理解する。
この女はずっと。
街の人間たちが捨てた感情を、“一人で抱えていた”。
何十年も。
壊れながら。
ずっと。
読んでいただきありがとうございます!
ついに感情の海が、現実世界へ溢れ始めました。
次回、レンは“誰か一人が背負う世界”を終わらせるための選択を迫られます!




