第九十五話 誰か一人の痛み
“感情を代わりに消してくれる人”は、優しい。
でも、本当に必要なのは、“一緒に抱えようとしてくれる人”なのかもしれない。
現実世界が、壊れ始めていた。
向こう側の空間の亀裂から。
無数の感情が流れ込み続けている。
悲鳴。
泣き声。
怒り。
愛情。
抑え込まれていた感情たちが、一気に街へ戻り始めていた。
レンはスマートフォンを握る。
美月の呼吸が、電話越しに震えている。
『苦しい……っ』
レンの胸が締め付けられる。
今すぐ戻りたい。
でも。
ここで止めなければ、もっと多くの人が壊れる。
紗凪が空を見上げる。
空間の亀裂は、どんどん広がっていた。
「もう時間がない……」
感情回収者の女は、静かに感情の海を見つめている。
まるで。
長い役目の終わりを見ているみたいだった。
レンは低く聞く。
「……本当に、一人で抱えるしかないのか」
紗凪は苦しそうに黙る。
代わりに。
女が静かに答えた。
「感情ってね」
黒い海が揺れる。
「本来、“分け合うもの”じゃないの」
「痛みも」
「孤独も」
「愛も」
「全部、その人自身のもの」
レンは目を伏せる。
確かにそうだ。
誰かの感情を、“完全に代わりに抱える”ことなんてできない。
だからこの女は。
ずっと壊れていった。
他人の感情を、一人で抱え続けたから。
女は少しだけ笑った。
疲れ切った笑顔。
「でも人間は、すぐ誰かへ預けたがる」
「苦しいと」
「“誰か助けて”って」
その言葉で。
レンの胸が痛む。
昔の自分もそうだった。
美月へ全部預けようとしていた。
自分の不安も。
孤独も。
愛されたい気持ちも。
全部。
その時。
レンの脳裏へ、いろんな顔が浮かぶ。
シロ。
蓮。
真奈。
アカネ。
雪斗。
みんな。
誰かに救われたかった。
でも。
“誰か一人”が全部抱えようとした瞬間、壊れ始めていた。
レンは静かに息を吐く。
そして。
ゆっくり顔を上げた。
「……なら」
女と紗凪がレンを見る。
レンは続けた。
「一人で抱えなきゃいいんだろ」
空気が静まる。
レンは感情の海を見る。
黒い波。
膨大な痛み。
確かに、一人じゃ無理だ。
でも。
だからって、“誰か一人”へ押しつけ続けていい理由にはならない。
レンは静かに言った。
「感情ってさ」
少し苦笑する。
「多分、“分け合えない”けど、“支え合う”ことはできるんだよ」
その瞬間。
女の目が、ほんの少しだけ揺れた。
レンは続ける。
「全部消すんじゃなくて」
「全部一人で抱えるんでもなくて」
「苦しい時に、“一緒に苦しむ”ことはできる」
胸が熱い。
でも。
この言葉だけは、ちゃんと信じたかった。
その時。
スマートフォンの向こうで、美月が小さく言った。
『……うん』
涙声だった。
でも。
ちゃんと笑っている声だった。
『今のレンなら、そう言うと思った』
レンの胸が、静かに熱くなる。
その瞬間。
感情の海が、大きく揺れた。
まるで。
何かが、変わり始めたみたいに。
読んでいただきありがとうございます!
レンがついに、“この物語の答え”へ近づき始めました。
次回、透明都市の人々へ“捨てた感情”が戻り始めます!




