第九十三話 抱えきれない感情
感情は、人間には重すぎる。
でも、“重いから捨てる”だけでは、きっと生きられない。
「あなたは、全部抱えられる?」
女の声が、静かに響く。
感情の海は、ゆっくり揺れていた。
黒い波。
その中には、無数の感情が沈んでいる。
悲しみ。
怒り。
孤独。
愛情。
人間が捨ててきたもの全部。
レンは、その光景を見つめていた。
胸が苦しい。
でも。
目を逸らせなかった。
女は静かに続ける。
「人間は弱い」
「だから感情を捨てる」
「耐えられないから」
「壊れたくないから」
感情の海が揺れる。
そのたびに。
誰かの叫びが聞こえる。
『寂しい』
『愛してる』
『苦しい』
『消えたい』
レンは頭を押さえる。
全部、痛い。
全部、人間だった。
女はレンを見る。
その目には、怒りはない。
ただ。
深い諦めだけがあった。
「だから私は、残したの」
「誰にも見捨てられないように」
レンは低く聞く。
「……それで、この街壊してんのか」
女は少し黙った。
やがて。
小さく笑う。
「壊したのは、人間よ」
その言葉が、胸へ刺さる。
レンは反論できない。
確かに。
感情を捨て始めたのは、人間側だ。
痛みから逃げたくて。
楽になりたくて。
だから。
この街は、“感じないこと”へ慣れていった。
その時。
紗凪が前へ出る。
「でも、もう限界なの」
女が娘を見る。
紗凪は涙を堪えながら続けた。
「感情が溢れ始めてる」
「このままだと、“向こう側”と現実が混ざる」
レンは息を呑む。
だから最近。
感情障害が増えていた。
捨てた感情が、“戻ろう”としているから。
女は静かに目を閉じる。
「……わかってる」
その声は、少しだけ疲れていた。
レンは、その瞬間気づく。
この女も。
ずっと一人で抱えてきたのだ。
人間が捨て続けた感情を。
何十年も。
女はゆっくり空を見上げる。
向こう側の空は、ずっと薄暗い。
「でも、返したら」
静かな声。
「人間は耐えられるのかしら」
その言葉で。
レンの胸が強く痛む。
返される感情。
失恋。
孤独。
トラウマ。
後悔。
もし全部、一気に戻ったら。
壊れる人もいる。
女は続ける。
「人間ってね」
少し寂しそうに笑う。
「“感情が大事”って言いながら」
「本当に苦しい感情だけは、すぐ捨てたがるの」
レンは目を伏せる。
その通りだった。
自分もそうだった。
苦しくて。
怖くて。
だから逃げた。
でも。
その結果。
空っぽになった。
レンは静かに息を吐く。
そして。
ゆっくり顔を上げた。
「……抱えきれないよ」
女が目を細める。
レンは続けた。
「痛いし」
「苦しいし」
「逃げたくなる」
胸が熱い。
でも。
今は、ちゃんと言えた。
「でも」
感情の海を見る。
「それでも、“なかったこと”にはしたくない」
その瞬間。
女の目が、ほんの少しだけ揺れた。
読んでいただきありがとうございます!
レンがついに、“感情を抱えたまま生きる”側へ立ち始めました。
次回、“感情の海”が現実世界へ溢れ始めます!




