第九十一話 感情の海
捨てられ続けた感情は、いつか“個人”を超えて街そのものを飲み込む。
“美月を失う恐怖”が、光へ溶けていく。
向こう側の透明都市は、静かだった。
でも。
さっきまでより、少しだけ空気が軽い。
レンはその場へ立ち尽くしていた。
涙の跡が、まだ頬に残っている。
胸は痛い。
でも。
前みたいな“壊れそうな痛み”じゃなかった。
ちゃんと、自分の感情として抱えられている感覚。
その時。
紗凪が静かに言った。
「……珍しいですね」
レンが顔を向ける。
紗凪はレンを見つめていた。
感情の薄い目。
でも。
その奥に、ほんの少しだけ驚きがあった。
「普通、“向こう側”で感情と向き合った人って」
「大体、壊れるので」
レンは苦笑する。
「縁起悪すぎだろ」
紗凪は少しだけ笑った。
その瞬間だった。
――ゴォォォ……。
遠くから、低い音が響く。
レンは顔を上げる。
街の奥。
ネオンの向こう側。
何か巨大なものが、動いていた。
空気が震える。
感情がざわめく。
紗凪の表情が、初めて強く変わった。
「……まずい」
レンが眉をひそめる。
「なんだよ、あれ」
紗凪は低く呟く。
「溢れ始めてる」
次の瞬間。
街の奥から、“波”が見えた。
レンは息を呑む。
それは海だった。
でも。
普通の海じゃない。
黒い。
巨大な感情の濁流。
怒り。
悲しみ。
絶望。
愛情。
何千、何万という感情が混ざり合って、“海”になっている。
レンは本能的に理解する。
あれは。
この街で捨てられてきた感情の集合体だ。
紗凪が叫ぶ。
「戻ってください!!」
その瞬間。
感情の海が、街へ流れ込み始めた。
ネオンが揺れる。
街が軋む。
あちこちから、叫び声みたいな感情が響き始める。
『苦しい』
『愛してる』
『寂しい』
『返して』
レンは頭を押さえる。
感情が、一気に流れ込んでくる。
知らない誰かの悲しみ。
知らない誰かの孤独。
知らない誰かの愛情。
全部、痛い。
紗凪がレンの腕を掴む。
「このままだと飲まれます!」
レンは苦しそうに顔を上げる。
感情の海。
その中心に。
一人の女が立っていた。
長い黒髪。
白い服。
感情の海の中で、静かにこちらを見ている。
その女を見た瞬間。
紗凪の顔色が変わった。
「……母さん」
レンの呼吸が止まる。
読んでいただきありがとうございます!
ついに“感情回収者”の核心へ近づきました。
次回、紗凪と“感情を作った女”の過去が明かされます!




