第九話 悲しみの残滓
感情は、消えない。
押し込められた感情ほど、時々、人を静かに壊していく。
「……普通って、何ですか」
ユイの声は静かだった。
責めるわけでもなく。
怒っているわけでもない。
本当に、“わからない”という顔をしていた。
レンは返事に詰まる。
普通。
そんなもの、考えたこともなかった。
泣くこと。
悲しむこと。
誰かを失って苦しくなること。
それは“あるもの”だと思っていた。
空気みたいに。
でも。
目の前の少女は、それを失っている。
「……わからない」
レンは正直に言った。
「でも、多分」
言葉を探す。
「苦しい時に、苦しいって思えることなんじゃないか」
ユイは静かにレンを見ていた。
「それが普通?」
「……人間らしい、ってことかもしれない」
ユイは少し黙った。
そして、小さく呟く。
「じゃあ、私はもう人間っぽくないですね」
レンはすぐに否定できなかった。
それが、苦しかった。
その時。
ユイが突然、胸元を押さえた。
「……っ」
顔が歪む。
「どうした」
ユイは苦しそうに呼吸をした。
「最近、時々こうなるんです」
レンは席を立ちかける。
「病院――」
「違います」
ユイは小さく首を振った。
「これ、多分」
彼女は苦しそうに笑った。
「売り切れなかった感情です」
その言葉に、レンの背筋が冷える。
売り切れなかった。
まるで感情を商品みたいに言う。
ユイは胸を押さえたまま、ぽつりと呟いた。
「最近、夢を見るんです」
「夢?」
「母の夢」
レンは黙って聞く。
「顔はぼやけてるんです」
「でも、声だけ聞こえる」
ユイの目が少しだけ揺れた。
『ユイ』
彼女は小さく、その声を真似した。
それだけだった。
たった一言。
なのに。
ユイの指先が、かすかに震えている。
「……苦しいんです」
レンは気づく。
この少女は。
悲しみを失ったんじゃない。
悲しみを“閉じ込めた”。
だから時々、壊れそうになる。
出口を失った感情が、内側で暴れている。
「藤堂さんは言ってました」
ユイが呟く。
「感情は完全には消えないって」
レンは、黒い店の結晶を思い出した。
残滓。
記憶の破片。
感情の傷跡。
人間は、完全には忘れられない。
その時。
ユイが静かに聞いた。
「真壁さんは、何を売ったんですか」
レンは少し黙った。
そして、低く答える。
「……愛した人の記憶らしい」
ユイは少し驚いた顔をした。
「それ、辛くないですか」
レンは苦笑する。
「顔も名前も思い出せないのに」
胸の奥が痛む。
「苦しいんだよ」
ユイはその言葉を、静かに聞いていた。
そして。
ぽつりと呟く。
「それって、まだ残ってるんですね」
レンは顔を上げる。
ユイの目は、少しだけ寂しそうだった。
「愛」
読んでいただきありがとうございます!
ユイ編、核心に近づいてきました。
次回、“感情の残滓”がレン自身にも影響を与え始めます!




