第八十九話 捨てた自分
人は時々、“他人”より先に、自分自身を見捨ててしまう。
『……なんで、捨てたんだよ』
昔の自分が、そう言った。
レンは動けなかった。
交差点の向こう。
ネオンに滲む街。
そこに立っている男は、確かに自分だった。
今より少し痩せていて。
目の下に隈があって。
今にも壊れそうな顔をしている。
レンは息を呑む。
忘れていた。
いや。
見ないようにしていた。
あの頃の自分を。
紗凪が静かに言う。
「向こう側では、“捨てた感情”が形になります」
レンは答えられない。
胸が苦しい。
昔の自分は、ゆっくり近づいてくる。
その目には。
怒りも。
悲しみも。
全部あった。
「苦しかったんだよ」
掠れた声。
「毎日」
「ずっと」
レンの胸へ、言葉が刺さる。
昔の自分は続けた。
「愛されたいのに」
「嫌われるの怖くて」
「なのに重くなって」
「壊れて」
「もう無理だった」
レンは目を伏せる。
全部覚えている。
感情を消したかった理由。
美月を失う恐怖。
空っぽになっていく自分。
昔の自分は笑った。
壊れそうな笑いだった。
「だから捨てたんだろ」
「俺のこと」
その瞬間。
レンの胸が、強く痛む。
違う、と言いたかった。
でも。
否定できなかった。
レンは確かに、“あの頃の自分”を切り捨てた。
苦しすぎたから。
見ていられなかったから。
その時。
昔の自分が、低く呟く。
「……ちゃんと苦しめよ」
レンが顔を上げる。
昔の自分の目には、涙が滲んでいた。
「勝手に消して」
「なかったことにして」
「楽になろうとすんなよ」
その言葉で。
レンの中の何かが、大きく揺れる。
紗凪は、黙って見ていた。
レンは苦しそうに息を吐く。
胸が痛い。
逃げたくなる。
でも。
今は逃げたくなかった。
レンは、ゆっくり昔の自分を見る。
そして。
震える声で言った。
「……ごめん」
街が静まる。
昔の自分は動かない。
レンは続けた。
「ちゃんと苦しかったのに」
「ちゃんと助けてほしかったのに」
胸が熱い。
涙が滲む。
「俺、自分のことまで見捨ててた」
その瞬間。
昔の自分の表情が、ほんの少しだけ揺れた。
怒りでも。
悲しみでもない。
もっと深い何か。
“やっと気づいてもらえた”みたいな顔だった。
昔の自分は、小さく笑う。
泣きそうなまま。
「……おせぇよ」
その瞬間。
レンの目から、涙が零れ落ちた。
読んでいただきありがとうございます!
今回はレンが、“捨てた自分自身”へ初めて謝りました。
次回、向こう側で“美月の感情”が姿を現します!




