第八十八話 もう一つの透明都市
捨てた感情は、消えない。
“置き去りにされたまま”、ずっと待ち続けている。
エレベーターは、静かに下降していた。
いや。
本当に“下”へ向かっているのか、レンにはわからなかった。
数字の表示は壊れている。
階数が、ずっと点滅していた。
【0】
【−1】
【?】
意味のわからない表示。
レンは壁へ寄りかかる。
妙に耳が痛かった。
気圧が変わっているみたいな感覚。
紗凪は静かに立っている。
まるで。
慣れているみたいに。
レンは低く聞く。
「……お前、何者なんだ」
紗凪は少し考える。
そして。
小さく笑った。
「案内人、みたいなものです」
全然答えになってなかった。
その時。
エレベーターが、ふっと止まる。
揺れも音もない。
ただ。
世界だけが、静かに切り替わった感じがした。
扉が開く。
レンは息を呑む。
そこには。
“透明都市”が広がっていた。
でも。
知っている街とは、少し違う。
ネオンは滲み。
空は薄暗く。
人影はあるのに、みんな輪郭が曖昧だった。
まるで。
“感情だけで作られた街”みたいだった。
レンはエレベーターから降りる。
空気が重い。
いや。
違う。
感情が重い。
悲しみ。
孤独。
怒り。
愛情。
いろんな感情が、空気へ溶けているみたいだった。
レンは思わず胸を押さえる。
息が苦しい。
紗凪が静かに言う。
「ここ、“向こう側の透明都市”です」
レンは街を見る。
遠くに見える駅。
コンビニ。
高架橋。
全部、元の街と似ている。
なのに。
決定的に違う。
静かすぎる。
そして。
どこか泣いているみたいだった。
その時。
レンは気づく。
道の向こうに、人が立っている。
女だった。
でも。
顔が曖昧で見えない。
女はレンを見る。
そして。
小さく呟いた。
「……返して」
レンの背筋が凍る。
次の瞬間。
別の場所から声。
『返して』
『私の感情』
『返して』
『返して』
街のあちこちから、声が響き始める。
レンは息を呑む。
紗凪は静かに言った。
「ここにいるのは、“捨てられた感情”です」
レンは言葉を失う。
感情。
じゃあ。
あれは人間じゃないのか。
紗凪は続ける。
「怒りも」
「悲しみも」
「愛情も」
「本当は消えてない」
「ずっと持ち主を待ってる」
レンの胸がざわつく。
その時。
遠くの交差点で。
一人の男が、こちらを見ていた。
レンは息を止める。
その男。
自分だった。
昔の。
壊れていた頃の自分。
感情を失う前の、“泣きそうな顔をしたレン”。
男は、静かにレンを見る。
そして。
掠れた声で呟いた。
「……なんで、捨てたんだよ」
その瞬間。
レンの胸が、激しく痛んだ。
読んでいただきありがとうございます!
ついに“向こう側の透明都市”が姿を現しました。
次回、レンは“捨てた自分自身”と真正面から向き合います!




