第八十二話 感情を売る街
“痛みを消せる世界”は、本当に優しい世界なのだろうか。
水族館を出たあと。
レンは、美月を駅まで送っていた。
夜風は少し冷たい。
でも。
胸の奥には、不思議なくらい静かな熱が残っていた。
二人は、ゆっくり歩く。
昔みたいに。
でも。
昔とは少し違う距離感で。
その時。
交差点の向こうで、怒鳴り声が響いた。
「だから覚えてないって言ってるだろ!」
レンと美月が同時に顔を向ける。
若い男と女が揉めていた。
女は泣いている。
でも。
男の方は、妙に無感情だった。
まるで。
“感情だけ切り離されてる”みたいに。
女が震える声で言う。
「じゃあなんで!」
「なんで私との記憶だけないの……!」
レンの胸がざわつく。
その光景が、昔の自分たちと重なった。
男は苦しそうに頭を押さえる。
「……知らねぇよ」
「俺だって、最近ずっと空っぽなんだよ……」
美月が小さく息を呑む。
その時。
男がふらついた。
感情喪失症候群。
レンは直感する。
しかも、かなり進行している。
女は泣きながら男を支える。
でも。
男は、その涙を見ても“ちゃんと反応できない”。
その光景が、妙に苦しかった。
やがて。
二人は、そのまま夜の街へ消えていく。
レンはしばらく動けなかった。
美月が小さく呟く。
「……増えてるね」
レンが顔を向ける。
美月は静かに続けた。
「最近、“感情売却”する人」
レンは目を伏せる。
確かに。
真奈も。
シロも。
蓮も。
みんな、“感情を消したい”と思っていた。
苦しいから。
壊れそうだから。
だから削る。
でも。
その先に待っているのは、“楽”じゃない。
“空っぽ”だ。
その時。
美月が静かに言った。
「この街、ちょっとおかしいよね」
レンは息を止める。
その言葉が、胸へ深く刺さった。
おかしい。
確かにそうだった。
人が簡単に感情を売れて。
苦しみを削れて。
その結果。
壊れた人間が増えていく。
なのに。
誰も止めない。
まるで。
“最初からそういう街”みたいに受け入れられている。
レンは静かに呟く。
「……なんで、こんなシステムあるんだろうな」
美月は少し考える。
そして。
小さく答えた。
「みんな、“痛みなく生きたい”からじゃない?」
レンは空を見る。
ネオンに滲んだ夜空。
その時。
ふいに、アカネの顔が浮かぶ。
“感情をなくさなくてよかった”。
あの言葉。
あれは多分。
この街そのものへの、答えだった。
レンは静かに思う。
苦しみは、確かに人を壊す。
でも。
感情を消すことでしか生きられない街は。
やっぱり、どこか壊れている。
読んでいただきありがとうございます!
ここから物語は、“個人の恋や喪失”だけでなく、
“感情を売る街そのもの”へ視点が広がり始めます!




