第七十一話 泣けなくなった夜
人の痛みを抱え込みすぎると、自分の感情から先に壊れていく。
店の外では、風が静かに鳴っていた。
月見坂のネオンが、濡れた窓へ滲んでいる。
レンは、カウンター越しにアカネと雪斗を見ていた。
二人の空気は、妙に重かった。
長い時間。
言葉にできなかった感情だけが積もっているみたいだった。
雪斗は静かに珈琲へ口をつける。
そして。
ぽつりと呟いた。
「覚えてる?」
アカネは答えない。
雪斗は少し笑う。
「お前が感情売ろうとした日」
レンの呼吸が止まる。
店内が静まり返った。
アカネの指先が、小さく震える。
初めて見た。
彼女がこんなふうに動揺するのを。
雪斗は静かな声で続けた。
「査定士になったばっかの頃だった」
「毎日、人の感情見て」
「毎日、人が壊れるの見て」
「お前、全部抱え込んでた」
レンはアカネを見る。
彼女は窓の外を見たまま動かない。
雪斗は苦笑した。
「アカネ、昔から変だったんだよ」
「人の悲しみ、自分のことみたいに感じるから」
その言葉で。
レンは少し理解する。
アカネが、人の感情に敏感すぎる理由。
多分。
“共感しすぎる”のだ。
雪斗は静かに続ける。
「そのうち、お前」
「泣けなくなった」
アカネの呼吸が、ほんの少し止まる。
雪斗は視線を落とした。
「感情麻痺」
「査定士が時々なるやつ」
レンは眉をひそめる。
雪斗は説明するように言った。
「人の感情ばっか見続けると」
「自分の感情がわからなくなる」
静かな声。
でも。
その響きには、実感があった。
雪斗は続ける。
「その夜、お前言ったんだ」
アカネを見る。
「“全部消したい”って」
レンの胸がざわつく。
アカネが。
そんなことを。
雪斗は苦しそうに笑った。
「俺、止められなかった」
「だって俺も、同じだったから」
店内へ沈黙が落ちる。
アカネはずっと黙っていた。
でも。
その横顔は、どこか壊れそうだった。
やがて。
小さく口を開く。
「……結局、売らなかった」
雪斗が静かに頷く。
アカネは続けた。
「怖かったの」
レンは顔を上げる。
アカネは、自分の手を見つめていた。
「感情なくしたら」
「もう、人を見れなくなる気がして」
その声は、珍しく弱かった。
いつもの余裕も。
軽口もない。
ただ。
一人の疲れた人間の声だった。
アカネは静かに笑う。
「でもね」
少しだけ間が空く。
「その日から、ちゃんと泣けなくなった」
レンの胸が痛む。
だからアカネは。
ずっと人の感情を見ながら。
自分だけは止まったままだった。
その時。
雪斗がぽつりと言った。
「だから今回、買いに来た」
レンが顔を向ける。
雪斗は静かにアカネを見る。
「お前、自分だけずっと置き去りだから」
その言葉で。
アカネの目が、ほんの少しだけ揺れた。
読んでいただきありがとうございます!
今回はアカネの“壊れ始めた夜”が明かされました。
次回、雪斗が“アカネを救えなかった理由”を語ります!




