第六十九話 黒い封筒の依頼人
“人の感情を扱う人間”ほど、自分の感情から逃げ続けていることがある。
月見坂には、深夜になると独特の静けさがある。
ネオンの光。
濡れた石畳。
人の気配が減った街。
まるで。
“捨てきれなかった感情”だけが漂っているみたいな夜。
レンは黒い店の扉を開けた。
鈴の音。
珈琲の香り。
いつもの空間。
でも。
今日は少し空気が違った。
カウンターの上に、黒い封筒が置かれている。
アカネは珍しく、険しい顔をしていた。
レンは眉をひそめる。
「……どうした」
アカネは封筒を見る。
少しだけ沈黙。
そして。
低く言った。
「嫌な依頼」
レンは近づく。
封筒には、差出人も名前もない。
ただ。
表に一行だけ書かれていた。
【“藤堂アカネ”の感情を買いたい】
レンの呼吸が止まる。
店内が静まり返る。
レンは思わず聞いた。
「……は?」
アカネは苦笑する。
でも。
その笑いは少し硬かった。
「珍しいでしょ」
レンは封筒を見つめる。
感情を“売りたい”じゃない。
“買いたい”。
しかも。
アカネ本人の感情を。
レンは低く聞く。
「誰だよ」
アカネは静かに首を横に振った。
「わからない」
その時。
店の外で、風が鳴る。
妙に寒かった。
レンは再び封筒を見る。
そこには続きがあった。
【あなたは、人の感情ばかり見ている】
【でも、自分の感情には一度も向き合っていない】
レンは目を細める。
アカネの表情が、ほんの少しだけ固くなる。
まるで。
図星を突かれたみたいに。
レンは静かに聞く。
「……どういう意味だ」
アカネは答えない。
ただ。
窓の外を見ている。
その横顔は、いつもより少し疲れて見えた。
やがて。
小さく呟く。
「昔ね」
レンが顔を向ける。
アカネは静かな声で続けた。
「私も、感情を売ろうとしたことあるの」
レンの呼吸が止まる。
初めてだった。
アカネが、自分の過去を話すのは。
その時。
店の扉が、静かに開いた。
鈴の音。
冷たい夜風。
そして。
一人の男が立っていた。
黒いコート。
細い身体。
長い前髪で目元が隠れている。
男は静かに笑った。
「久しぶり、アカネ」
その瞬間。
レンは初めて見た。
藤堂アカネの顔から、“余裕”が消える瞬間を。
読んでいただきありがとうございます!
ついにアカネ編へ突入です。
次回、“感情査定士”藤堂アカネの過去が開き始めます!




