第六十五話 君を壊したくなかった
人は時々、“愛しているから離れる”という、どうしようもなく不器用な選択をする。
「空っぽが、うるさい」
朝比奈蓮のその言葉が。
静かな部屋へ、ゆっくり広がっていく。
シロは涙を拭いながら、蓮を見つめていた。
嬉しかった。
でも。
苦しかった。
やっと会えたのに。
隣にいるのに。
もう、“昔の蓮”じゃない。
その現実が、静かに胸を刺してくる。
蓮は窓の外を見ていた。
灰色の海。
曇った空。
その横顔は、どこか疲れ切っている。
レンは部屋の空気を壊さないよう、静かに壁へ寄りかかっていた。
その時。
蓮がぽつりと呟く。
「……思い出したくなかった」
シロの肩が小さく震える。
蓮は続けた。
「苦しかったから」
その声は、感情が薄いはずなのに。
妙に痛々しかった。
蓮はゆっくり、自分の手を見る。
白い指。
少し震えている。
「最初は」
「家のこと忘れたかった」
レンは静かに聞く。
蓮は淡々と話し始めた。
「親、ずっと喧嘩してて」
「殴られて」
「怒鳴られて」
「毎日、誰かが壊れてた」
シロの目が揺れる。
蓮は遠くを見るように続ける。
「だから、“怖い”を売った」
「そしたら少し楽になった」
静かな声。
でも。
その平坦さが逆に苦しかった。
「次は“怒り”」
「次は“悲しみ”」
「気づいたら、何も感じない方が楽だった」
シロは涙を堪えるように唇を噛む。
蓮は少しだけ目を伏せた。
「でも」
「シロといる時だけ、苦しかった」
シロの呼吸が止まる。
蓮は続ける。
「ちゃんと笑うし」
「ちゃんと嬉しいし」
「ちゃんと好きだった」
その瞬間。
シロの涙が溢れた。
蓮は静かに言う。
「だから怖かった」
「こんな壊れた自分が」
「シロの隣にいていいのかわかんなくて」
海風が、カーテンを揺らす。
蓮は小さく笑った。
寂しい笑いだった。
「その頃には、もう症状かなり進んでた」
「感情、どんどん消えて」
「笑うのもしんどくなって」
「なのにシロは、ずっと俺を好きでいてくれて」
声が少し掠れる。
「……壊したくなかった」
その言葉だけで。
シロは泣き崩れそうになる。
蓮は視線を逸らしたまま続ける。
「だから嫌われた方が楽だと思った」
「急に消えれば」
「そのうち忘れてくれると思った」
レンは目を閉じる。
痛いほどわかった。
“愛してるから離れる”。
その矛盾を、人は本気で選ぶ時がある。
その時。
シロが震える声で言った。
「……ばか」
蓮が顔を上げる。
シロは泣きながら笑っていた。
「そんなの、余計忘れられないじゃん……」
その言葉で。
蓮の空っぽの目が、ほんの少しだけ揺れた。
読んでいただきありがとうございます!
ついに蓮が、“消えた理由”を語りました。
次回、シロは“それでも隣にいたい理由”を伝えます!




