第六十四話 失われた時間の隣で
失った感情は、“誰かと過ごした時間”の中で少しずつ輪郭を取り戻していく。
海の近くの部屋には、静かな潮風が流れていた。
窓の外は、灰色の夕方。
遠くで波の音が聞こえる。
シロは、机の上の写真を見つめていた。
夕焼けの海。
笑っている自分。
そして。
隣で、不器用そうに笑う朝比奈蓮。
確かにそこには、“幸せだった時間”が写っていた。
なのに。
今、隣にいる蓮は。
その記憶をほとんど失っている。
シロの胸が、静かに痛んだ。
蓮は壁へ寄りかかりながら、ぼんやりシロを見ている。
感情の薄い目。
でも。
さっきより少しだけ、“人間の揺れ”があった。
シロは涙を拭い、小さく笑う。
「これ、覚えてる?」
写真を持ち上げる。
蓮は静かに見る。
長い沈黙。
やがて。
小さく首を横に振った。
「……わからない」
シロの胸が少しだけ痛む。
でも。
今度は逃げなかった。
シロは写真を胸へ抱えながら言う。
「私ね」
少しだけ笑う。
「この日、すごい嬉しかったんだよ」
蓮が顔を上げる。
シロは窓の外を見る。
「蓮、ずっとバイトばっかで」
「全然休まなくて」
「だから無理やり海連れてった」
その瞬間。
蓮の指先が、小さく動く。
断片。
潮風。
オレンジ色。
『ちゃんと休め!』
笑う声。
蓮は小さく眉を寄せる。
「……頭、痛い」
レンは静かに見守っていた。
無理に思い出そうとしている。
でも。
記憶は簡単には戻らない。
その時。
シロがふいに笑った。
「蓮、焼きそば全部砂まみれにしてた」
蓮が少し目を瞬かせる。
シロは泣き笑いみたいな顔で続けた。
「しかも普通に食べてた」
レンは思わず吹き出しそうになる。
すると。
蓮の口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑った。
いや。
笑い方を思い出しかけた。
シロの呼吸が止まる。
蓮自身も驚いたみたいだった。
自分の口元へ触れる。
「……今」
掠れた声。
「なんか、変だった」
シロの目から涙が零れる。
「笑ったんだよ」
蓮は静かに固まる。
まるで。
“笑う”という感覚そのものを、忘れていたみたいに。
レンは胸が痛くなった。
感情を失いすぎると。
人は、“笑い方”まで遠くなる。
その時。
蓮がぽつりと呟く。
「……シロ」
シロが顔を上げる。
蓮は不思議そうに、自分の胸を押さえていた。
「お前といると」
少しだけ間が空く。
「空っぽが、うるさい」
その言葉で。
シロは、泣きながら笑った。
読んでいただきありがとうございます!
今回は蓮の中で、“笑う感覚”が微かに戻りました。
次回、蓮が“シロを忘れた本当の理由”を語り始めます!




