第六十三話 残っていた温度
愛した記憶は消えても、“大切だった感覚”だけは残り続けることがある。
「私……シロだよ」
その言葉のあと。
部屋の前には、重たい沈黙が落ちていた。
海風だけが、静かに吹き抜けていく。
朝比奈蓮は、無表情のままシロを見ていた。
感情の薄い目。
まるで。
世界との繋がりだけが、少し切れてしまった人間みたいだった。
でも。
レンは確かに見た。
“シロ”という名前を聞いた瞬間。
蓮の指先が止まった。
ほんの僅かに。
反応した。
シロも、それに気づいていた。
だから。
泣きそうな顔のまま、一歩前へ出る。
「覚えて……ない?」
蓮は少しだけ目を伏せる。
長い沈黙。
やがて。
静かな声で言った。
「……わからない」
シロの肩が小さく震える。
でも。
蓮は続けた。
「でも」
その瞬間。
レンは、蓮の声が少しだけ変わった気がした。
ほんの微かに。
“人間の温度”が戻った。
蓮は、自分の胸へ触れる。
そして。
不思議そうに呟いた。
「苦しい」
シロの呼吸が止まる。
蓮は眉を寄せる。
戸惑ったみたいに。
「なんで」
「お前見ると、こんな苦しいんだろ」
その言葉だけで。
シロの涙が溢れた。
覚えていない。
でも。
身体の奥には、まだ残っている。
愛していた痕跡が。
シロは泣きながら笑った。
「……ばか」
声が震える。
「それ、多分、好きだったってことじゃん……」
蓮は何も言わなかった。
ただ。
静かにシロを見つめている。
その目はまだ空っぽに近い。
でも。
完全な無ではなかった。
その時。
部屋の奥から、小さな音が聞こえる。
レンは中を見た。
狭い部屋。
最低限の家具。
薬の瓶。
積まれた本。
そして。
机の上には、古い写真が一枚置かれていた。
レンは目を細める。
海辺。
夕焼け。
笑っているシロ。
その隣にいる蓮。
レンの胸がざわつく。
蓮は、覚えていないはずなのに。
写真だけは、捨てていなかった。
その時。
シロも写真へ気づく。
息を呑む。
蓮は静かに言った。
「それ」
少しだけ間が空く。
「捨てられなかった」
シロの涙が止まらない。
蓮は、自分でも不思議そうに呟く。
「意味は、わかんないけど」
「……大事な気がしてた」
レンは静かに目を伏せた。
人間は。
全部を失っても。
本当に大切だったものだけは、どこかに残るのかもしれない。
読んでいただきありがとうございます!
蓮の中に、“感情の残滓”が確かに残っていました。
次回、シロと蓮が“失った時間”へ向き合い始めます!




