第六十話 知っている顔
“嫌われるための別れ”を選ぶ人間が、この街にはいる。
「……朝比奈、蓮」
その名前が店内へ落ちた瞬間。
藤堂アカネの目が、ほんの少しだけ揺れた。
レンはそれを見逃さなかった。
静かな店内。
雨はもう止んでいる。
でも。
空気だけが、妙に重かった。
シロは涙を拭いながら、まだ震えていた。
感情が戻り始めている。
だからこそ。
痛みも強くなる。
レンはアカネを見る。
「……知ってるのか」
アカネはすぐには答えなかった。
ただ。
静かに珈琲へ口をつける。
その沈黙が、逆に答えみたいだった。
シロも顔を上げる。
少し怯えた目。
「……アカネさん?」
アカネは小さく息を吐いた。
そして。
静かに言った。
「知ってるわ」
シロの呼吸が止まる。
レンも言葉を失った。
アカネは続ける。
「朝比奈蓮、三年前にここへ来た」
店内が静まり返る。
シロの指先が、小さく震え始める。
「……え」
掠れた声。
アカネは静かに視線を落とした。
「あなたの記憶を売ったあと」
その瞬間。
シロの顔から血の気が引く。
レンの胸もざわついた。
シロは震える声で言う。
「……どういうこと」
アカネは少しだけ迷うように目を伏せる。
でも。
隠さなかった。
「彼、自分からあなたの前から消えたの」
シロの呼吸が乱れる。
「なんで……」
アカネは静かに答える。
「病気」
その一言で。
店の空気が、さらに重くなる。
アカネは続けた。
「感情売却の副作用」
レンは目を見開く。
シロも、固まったまま動けない。
アカネは静かな声で話す。
「蓮は高校の頃から、感情売却を繰り返してた」
「家庭環境が酷くてね」
「怒りも」
「恐怖も」
「自己嫌悪も」
全部、少しずつ削ってた」
シロの瞳が揺れる。
アカネは続けた。
「でも、あなたと出会ってから」
少しだけ笑う。
「ちゃんと人間っぽくなってた」
シロの目から、また涙が溢れる。
アカネは静かに言う。
「ただ、その頃にはもう遅かった」
レンは息を呑む。
アカネの声は、どこまでも静かだった。
「蓮、“感情喪失症候群”がかなり進行してた」
「このままだと、誰かを愛しても」
「その人ごと壊してしまうって怯えてた」
シロが小さく首を横に振る。
「違う……」
涙が止まらない。
「そんなの、聞いてない……」
アカネは静かに頷いた。
「言わなかったから」
「あなたに嫌われる方が、楽だったのよ」
シロの肩が震える。
レンは胸が痛かった。
美月との過去を思い出す。
“愛してるから離れる”。
そんな矛盾を。
人間は時々、本気で選んでしまう。
その時。
シロが、壊れそうな声で聞いた。
「……今」
「蓮、どこにいるの」
アカネは少しだけ黙った。
そして。
静かに答える。
「まだ、生きてる」
その瞬間。
シロの世界が、静かに止まった。
読んでいただきありがとうございます!
ついに蓮の真実が明かされ始めました。
次回、“感情を失った男”――朝比奈蓮が登場します!




