第五十九話 海辺の名前
本当に大切だった人の名前は、感情の一番深い場所に残り続ける。
雨は、いつの間にか止んでいた。
月見坂の窓には、水滴だけが静かに残っている。
店内では。
雨宮シロが、ぼんやり自分の手を見つめていた。
涙の跡は、まだ頬に残っている。
でも。
その表情は、少しだけ変わっていた。
空っぽだった目に。
ほんの微かに、“感情の光”が戻り始めている。
レンは静かに珈琲を飲みながら、その姿を見ていた。
その時。
シロがぽつりと呟く。
「……海、行ったんです」
レンとアカネが顔を上げる。
シロは遠くを見るような目で続けた。
「高校卒業する前に」
「二人で」
その声は、まだ少し頼りない。
でも。
ちゃんと、“思い出そう”としている声だった。
シロは目を閉じる。
すると。
断片が、また流れ込んでくる。
夕焼けの海。
風。
制服。
隣で笑う男。
『寒くない?』
優しい声。
シロの胸が、強く痛む。
「……っ」
思わず胸を押さえる。
苦しい。
でも。
止めたくなかった。
シロは震える声で呟く。
「優しかった」
レンは静かに聞いている。
シロは小さく笑った。
涙が滲む。
「私、すごい好きだった」
その言葉で。
また何かが、胸の奥から浮かび上がる。
『シロって、すぐ無理するよね』
笑い声。
『ちゃんと頼れよ』
その瞬間。
シロの呼吸が止まる。
頭の奥で。
ずっと霧の向こうにいた存在が、少しだけ輪郭を持つ。
シロは涙を流しながら呟いた。
「……蓮」
レンが顔を上げる。
シロは、震える声で繰り返した。
「朝比奈、蓮……」
その名前を口にした瞬間。
シロの中で、何かが崩れた。
感情が、一気に流れ込んでくる。
好きだった。
会いたかった。
置いていかれて苦しかった。
消えた理由もわからなくて。
何年も、一人で苦しんで。
だから。
忘れたかった。
シロは声を殺して泣き始める。
今までの、“感情のない涙”じゃない。
ちゃんと苦しくて。
ちゃんと悲しい涙。
レンは静かに目を伏せる。
痛いほどわかった。
感情が戻る時って。
最初は、救いじゃない。
ただ。
失っていた痛みが、一気に帰ってくる。
その時。
アカネが静かに聞いた。
「その人、今どこにいるの?」
シロは涙を拭いながら、小さく首を横に振る。
「……わからない」
「突然いなくなったから」
レンの胸がざわつく。
突然いなくなる。
その言葉が、妙に引っかかった。
その時。
アカネの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
まるで。
何かを知っているみたいに。
読んでいただきありがとうございます!
ついにシロが、“失った恋の名前”を思い出しました。
次回、アカネが隠していた“ある事実”が動き始めます!




