第五十八話 君を忘れるために
人は、“元通り”には戻れなくても、“新しく生き直す”ことはできる。
涙は、静かにシロの頬を伝っていた。
本人も驚いているみたいだった。
指先で触れる。
濡れている。
でも。
その理由が、うまくわからない。
シロは小さく呟いた。
「……泣いてる」
レンは黙って、その姿を見ていた。
感情を失いすぎた人間は。
時々、自分の涙にすら驚く。
アカネは静かに珈琲を置く。
湯気が、ゆっくり揺れる。
シロはぼんやり窓の外を見る。
雨は、少し弱くなっていた。
そして。
ぽつりと呟く。
「……私、多分」
喉が震える。
「その人を忘れるために、いっぱい売ったんだ」
レンの胸が静かに痛む。
シロは続ける。
「最初は、ただ苦しくて」
「でも、その人を思い出すもの全部が痛くなって」
「音楽も」
「海も」
「夕焼けも」
少し笑う。
壊れそうな笑いだった。
「だから、“感じない方が楽”って思った」
レンは目を伏せる。
その気持ちは、痛いほどわかった。
失ったものを思い出すくらいなら。
最初から、何も感じない方がいい。
でも。
その先には、“空っぽ”しか残らない。
シロは胸を押さえる。
「でも今」
呼吸が少し乱れている。
「苦しいのに」
「なんか、少しだけ……生きてる感じする」
その言葉に。
レンは静かに息を吐いた。
昔の自分も、そうだった。
美月と再会して。
胸が壊れそうに苦しかった。
でも。
同時に、“ちゃんと感じてる”と思った。
アカネが静かに言う。
「人ってね」
シロが顔を上げる。
アカネは穏やかに続けた。
「本当に大事だったものほど、消えないの」
店内は静かだった。
アカネは窓の外を見る。
「だからみんな、何度も売りに来る」
「完全に消えないから」
その声は。
どこか寂しかった。
レンはふと気づく。
アカネは、多分。
ずっと見てきたのだ。
忘れたい人間たちを。
消せない感情に苦しむ人間たちを。
その時。
シロが小さく聞いた。
「……戻れますか」
レンとアカネが顔を向ける。
シロは、自分の胸を押さえたまま呟く。
「ちゃんと、感じられる人間に」
その質問に。
アカネはすぐ答えなかった。
しばらく沈黙してから。
静かに言う。
「前と同じには、戻れない」
シロの目が揺れる。
でも。
アカネは続けた。
「でも、“新しく感じる”ことはできる」
シロは何も言えなかった。
ただ。
その言葉を、静かに抱きしめるみたいに聞いていた。
読んでいただきありがとうございます!
シロの中で、“感情を取り戻したい気持ち”が生まれ始めました。
次回、シロが“失った恋の名前”へ辿り着きます!




