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透明都市アーカイブ―愛を売った男たち―  作者: 秀人


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第五十七話 名前のない記憶

本当に愛した記憶は、“忘れたい”と“思い出したい”の両方を連れてくる。

 ピアノの音は、静かに流れ続けていた。


 


 


 雨宮シロは、じっとその音を聞いている。


 


 


 白い指先が、小さく震えていた。


 


 


 「……苦しい」


 


 


 シロはもう一度、小さく呟く。


 


 


 レンは黙って見守っていた。


 


 


 その感覚を、自分も知っている。


 


 


 感情が戻り始める時。


 


 


 最初に来るのは、“嬉しい”じゃない。


 


 


 痛みだ。


 


 


 胸の奥に、忘れていた何かが刺さる感覚。


 


 


 でも。


 


 


 それは、生きている証拠でもある。


 


 


 アカネは静かにレコードを止めた。


 


 


 店内が静寂に包まれる。


 


 


 その時だった。


 


 


 シロが突然、小さく息を呑む。


 


 


 「……あ」


 


 


 レンは顔を上げる。


 


 


 シロは、自分の胸を押さえていた。


 


 


 目が揺れている。


 


 


 まるで。


 


 


 頭の奥から、何かが浮かび上がってくるみたいに。


 


 


 「……海」


 


 


 掠れた声。


 


 


 レンは静かに聞く。


 


 


 シロはぼんやり呟いた。


 


 


 「夕方の海……」


 


 


 その瞬間。


 


 


 断片が、シロの中へ流れ込む。


 


 


 オレンジ色の空。


 


 


 潮風。


 


 


 波の音。


 


 


 そして。


 


 


 誰かが笑っている。


 


 


 男の声。


 


 


 『シロ、こっち』


 


 


 シロの呼吸が止まる。


 


 


 レンは息を呑んだ。


 


 


 シロの目に、初めてはっきり感情が浮かぶ。


 


 


 戸惑い。


 


 


 懐かしさ。


 


 


 そして。


 


 


 どうしようもない喪失感。


 


 


 シロは震える声で言った。


 


 


 「……誰」


 


 


 その声が痛々しい。


 


 


 思い出しかけている。


 


 


 でも。


 


 


 届かない。


 


 


 アカネは静かにシロを見る。


 


 


 「残滓ね」


 


 


 レンは小声で聞く。


 


 


 「残滓?」


 


 


 アカネは頷く。


 


 


 「どれだけ感情を売っても」


 


 


 「強く愛した記憶は、“痕”だけ残ることがある」


 


 


 シロは頭を押さえる。


 


 


 苦しそうだった。


 


 


 でも。


 


 


 どこか必死だった。


 


 


 「思い出したい……」


 


 


 その言葉に。


 


 


 レンの胸が静かに痛む。


 


 


 少し前まで。


 


 


 自分は“忘れたい”側だった。


 


 


 でも今、シロは逆だ。


 


 


 何も感じなくなったからこそ。


 


 


 “失った感情”を求め始めている。


 


 


 シロは涙も流さず、呟く。


 


 


 「なんで」


 


 


 「こんな苦しいのに」


 


 


 「思い出したいって思うんだろ」


 


 


 その声は、初めて“生きた感情”だった。


 


 


 レンは静かに答える。


 


 


 「多分」


 


 


 シロが顔を上げる。


 


 


 レンは苦笑した。


 


 


 「その人のこと、ちゃんと好きだったからじゃないか」


 


 


 店内が静かになる。


 


 


 シロは、しばらく動けなかった。


 


 


 そして。


 


 


 ぽつりと呟く。


 


 


 「……好き、だった」


 


 


 その瞬間。


 


 


 シロの目から、ゆっくり涙が落ちた。


 


 


 多分。


 


 


 感情を売り続けてから、初めて流した涙だった。

読んでいただきありがとうございます!


ついにシロの中で、“感情の残骸”が動き始めました。

次回、シロが失った恋の正体へ近づいていきます!

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