第五十六話 綺麗って、なんだっけ
“綺麗”という感情は、実はとても痛みに近い。
雨は、まだ静かに降り続いていた。
月見坂のネオンが、水たまりへ滲んでいる。
店内では。
雨宮シロが、ぼんやり窓の外を見ていた。
白い指先で、カップを持ちながら。
その横顔は相変わらず綺麗だった。
でも。
“感情の温度”だけが薄い。
レンはソファへ腰掛けながら、小さく息を吐く。
昔の自分を見ているみたいだった。
空っぽで。
何を感じても遠くて。
なのに。
完全には壊れきれない感じ。
その時。
シロがぽつりと呟いた。
「最近、“綺麗”がわからないんです」
レンは顔を上げる。
シロは窓の外を見たまま続ける。
「夜景とか」
「海とか」
「音楽とか」
少しだけ間が空く。
「みんな、“綺麗”って言うじゃないですか」
レンは静かに聞く。
シロは小さく笑った。
「でも、何も感じなくて」
その笑顔は寂しかった。
いや。
“寂しい顔をしている”だけで。
本当は寂しさすら、薄れているのかもしれない。
その時。
アカネが静かに立ち上がった。
そして。
店の奥から、小さなレコードプレイヤーを持ってくる。
針を落とす。
静かなノイズ。
そのあと。
柔らかなピアノの音が、店内へ流れ始めた。
古い曲だった。
ゆっくりで。
少し寂しくて。
でも、温かい音。
シロはぼんやり耳を傾けている。
アカネは窓際へ寄りかかりながら言った。
「感情って、急には戻らないの」
シロは小さく目を瞬かせる。
アカネは続ける。
「ずっと削ってきたんだから」
「ちゃんと感じるには、時間がいる」
店内へ、静かなピアノが流れていた。
レンは、その音を聞きながら思い出していた。
昔。
美月と夜に音楽を聴いていたこと。
特別な時間じゃない。
でも。
ああいう瞬間が、“生きてる感じ”だった。
その時。
ふいに。
シロが、小さく呟いた。
「……少しだけ」
レンとアカネが顔を上げる。
シロは、驚いたみたいに自分の胸へ触れていた。
「なんか、苦しいです」
その声は、少し震えていた。
アカネは静かに微笑む。
「それ、多分ちゃんと感じてる」
シロは戸惑った顔をする。
「これが……?」
アカネは頷いた。
「綺麗って、痛みと近いから」
シロは何も言えなかった。
ただ。
流れる音楽を、じっと聞いている。
その横顔を見ながら。
レンは思った。
人は。
苦しみを避け続けると。
“綺麗”まで感じられなくなるのかもしれない。
読んでいただきありがとうございます!
今回はシロの中に、“感情の微かな揺れ”が戻り始めました。
次回、シロが“最後に残っていた記憶”へ触れ始めます!




