第四十九話 売らなかった夜
消さなかった”という選択も、立派な生き方になる夜がある。
深夜二時。
月見坂は静まり返っていた。
店の外では、濡れた道路へネオンが揺れている。
レンは窓際へ立ちながら、ぼんやり夜を見ていた。
店内では。
佐伯真奈が、小さな子供を抱いて眠っている。
ソファへ身体を預けたまま。
疲れ切った顔。
でも。
少しだけ穏やかだった。
アカネが静かに珈琲を飲む。
レンは小声で聞いた。
「……売らせないのか」
アカネはカップを置く。
「何を?」
「感情」
アカネは少しだけ笑った。
「本人が望めば、止めない」
レンは眉をひそめる。
「でも今回は、止めてるように見える」
アカネは窓の外を見る。
静かな横顔。
そして。
ぽつりと言った。
「真奈さん、本当は“消したい”んじゃないから」
レンは黙る。
アカネは続ける。
「“助けて”って言いに来ただけ」
その言葉で。
レンは少しだけ理解した。
自分もそうだったのかもしれない。
本当は。
誰かに止めてほしかった。
“消さなくてもいい”って言ってほしかった。
その時。
真奈が小さく目を覚ました。
ぼんやり周囲を見回す。
そして。
腕の中の子供を見て、少し安心したように息を吐いた。
「……寝ちゃってた」
アカネが静かに笑う。
「三時間くらい」
真奈は驚いた顔をする。
「そんなに……」
その声に。
少しだけ、“人間らしい疲労”が戻っていた。
真奈はゆっくり身体を起こす。
それから。
小さく呟いた。
「久しぶりに、ちゃんと寝たかもしれない」
レンはその言葉を聞いて、胸が少し痛くなった。
睡眠。
それだけで、人は少し救われることがある。
なのに。
限界の人間ほど、それを失っていく。
真奈はしばらく黙っていた。
やがて。
アカネを見る。
「……私」
唇が少し震える。
「やっぱり、売らないです」
レンは静かに顔を上げる。
アカネは穏やかに頷いた。
真奈は続ける。
「苦しいのは変わらないと思う」
「また壊れそうになる日もあると思う」
涙が少し滲む。
「でも」
子供を見つめる。
「この子を愛してる自分まで、消したくない」
その言葉は、弱かった。
でも。
ちゃんと、自分で選んだ言葉だった。
アカネは静かに言う。
「偉い選択じゃなくていいの」
真奈が顔を上げる。
アカネは少しだけ笑った。
「“今日は消さなかった”で十分」
真奈の目から、また涙が落ちる。
でも今度は。
少しだけ、温かい涙だった。
その時。
子供が眠そうに目を開ける。
そして。
真奈を見て、小さく笑った。
「まま」
真奈は泣きながら笑う。
「……うん」
その姿を見ながら。
レンは静かに思っていた。
愛は、綺麗じゃない。
苦しい。
壊れる。
逃げたくなる。
でも。
それでも手放さなかった夜にだけ、残るものがある。
読んでいただきありがとうございます!
真奈編、ひとつの区切りです。
次回、レン自身が少しずつ“前へ進む理由”を見つけ始めます




