第四十八話 母親じゃない私
人は、“誰かの役割”になり続けると、自分自身を見失ってしまう。
雨は、いつの間にか止んでいた。
月見坂の外には、静かな夜が広がっている。
店内では。
佐伯真奈が、小さな子供を抱いたまま静かに珈琲を飲んでいた。
少しだけ落ち着いた顔。
でも。
まだ壊れそうな脆さは残っている。
アカネはカウンターへ寄りかかりながら、静かに真奈を見ていた。
レンはソファへ座り、その光景をぼんやり眺める。
不思議だった。
少し前まで。
自分は、“感情を消したい側”だった。
なのに今は。
誰かが壊れていく姿を見ると、胸が痛む。
その時。
真奈がぽつりと呟いた。
「私、ずっと怖かったんです」
レンとアカネが顔を上げる。
真奈は、眠る子供を見つめながら続けた。
「“母親なんだから”って言われるたび」
「ちゃんとしなきゃって思ってた」
「怒っちゃ駄目」
「疲れちゃ駄目」
「逃げたいなんて思っちゃ駄目」
涙が静かに落ちる。
「でも、全然できなくて」
真奈は苦しそうに笑った。
「そのうち、“母親失格”って言葉が頭から離れなくなった」
レンは何も言えなかった。
その言葉は、あまりにも重かった。
真奈は続ける。
「子供が寝たあと、一人で検索するんです」
「“育児 辛い”とか」
「“母親 向いてない”とか」
掠れた笑い。
「でも、みんな最後は“子供は可愛いです!”って終わるから」
真奈は俯く。
「私だけがおかしい気がして」
その時。
アカネが静かに言った。
「おかしくないわ」
真奈が顔を上げる。
アカネは穏やかに続ける。
「人間は、“愛してる”だけじゃ壊れるの」
「睡眠も」
「孤独も」
「責任も」
少しだけ間を置く。
「全部、心を削るから」
真奈は静かに泣いていた。
その涙は、さっきまでと少し違った。
“責められている涙”じゃない。
“わかってもらえた涙”だった。
その時。
子供が小さく寝返りを打つ。
真奈は反射みたいに、優しく頭を撫でた。
その仕草を見て。
レンは思う。
この人は、ちゃんと愛している。
ただ。
“母親”になろうとしすぎて、自分を消しかけていただけだ。
真奈はぽつりと呟く。
「私、“母親”じゃない時間が欲しかったんだと思います」
レンの胸が静かに痛む。
真奈は続ける。
「一人でコンビニ行くだけでも、なんか泣きそうになる時があって」
小さく笑う。
「“私”に戻れた気がして」
アカネは静かに頷いた。
そして。
穏やかに言う。
「だったら、消す前に」
真奈が顔を上げる。
アカネは少しだけ笑った。
「“あなた”を、ちゃんと休ませてあげなきゃ」
その瞬間。
真奈の顔が、少しだけ崩れた。
泣きながら。
でも。
ほんの少しだけ、救われた顔だった。
読んでいただきありがとうございます!
今回は“母親”ではなく、“真奈自身”を取り戻す回でした。
次回、真奈が“感情を売らない選択”をし始めます




